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2010年1月10日 (日)

「まな」と「かな」(その8)

私には生来軟弱なところがあるので、なにごとにつけ妥協してしまうことが多い。

前回記事でも、ついそんな妥協的精神が顔を出してしまった。

妥協というのは、「漢語は漢字で和語はかなで表記する」というルールはすっきりしていて合理的だけれども、「書く」や「話す」のような定着した訓読みは許容してもよいのでは、という部分である。

でもこう妥協してしまっては、どうして「書く」や「話す」はよくて、「流行る」や「「相応しい」や「美味しい」はだめなのだ、どちらも字音を無視した使いかたでは同じではないか、という反論を受けることになる。

やはり、私の中に漢字の表意機能にすがりたい、という気持ちがどこかにあるのだろう。

これは「漢字=まな」の意識とは少しちがう。

「書く」や「話す」を「かく」、「はなす」と表記してしまっては、頼るところはもう音声しかない。
音声を経由して意味にたどり着くしかない。

しかし、音声という頼りないものを当てにしていいものだろうか?という不安を書き手はぬぐい去ることができないのだ。

音節数の少ない日本語の宿命として、どうしてもひとつの語がカバーする意味領域が広くなる。

それを漢字は、文脈に合わせて視覚的にはっきりと分割してくれる。

「かく」なら、「手紙を書く」、「絵を描く」、「背中を掻く」に。
「はなす」なら、「英語を話す」、「犬を放す」、「目を離す」に。

原義には共通するところがあるものの、使用上の意味には相当の隔たりがある。
かなでは表せないその違いを、漢字ははっきり視覚化してくれる。

この漢字の表意機能、和語に適用するなら意味分割機能はやはり捨てがたい。

というのが、私の苦しい弁明である。

なるほど、そうか。
「流行る」や「美味しい」のようなトリッキーな文字づかいはだめでも、「拘る」や「嫉む」のような訓読みならいいのね?

私の苦しまぎれの弁明に納得したかたの中には、こんなふうに考える人もいるかもしれない。

しかし、「書く」や「話す」に比べて「拘る」や「嫉む」はそれほど定着しているとは思えない。
上でいう漢字の意味分割機能を発揮する場面でもない。

だいいち、読めない人も少なくない。

いまの世、「拘る」や「嫉む」のような表記が成り立つのは、例の「漢字=まな」派のワープロが普及しているからにすぎない。
もしワープロがなければ、みんなかな表記にしているはずだ。

それにしても、いったん妥協してしまうとあとは説明が苦しくなりますね。

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