« 「まな」と「かな」(その6) | トップページ | 「まな」と「かな」(その8) »

2010年1月 3日 (日)

「まな」と「かな」(その7)

わたしたちは二千年来「漢字=まな」の民である。

だから、漢語だけでなく和語にも漢字を持ち込もうとする。

分かち書きの習慣のない日本語表記では、適度に漢字を交えることで読みやすさが向上するという効用もなくはない。

そのかわり、いつまでたっても解決しそうにない悩みを抱え込むことになった。

「流行る」や「相応しい」というトリッキーな表記は論外としても、送りがなの問題をどう扱うか?

たとえば、パソコンに「TATIIRI」と入力すれば、「立入り」、「立入」、「立入り」、「立ち入り」、「立ちいり」、「たちいり」6種類の表記が候補として示される。

日本語には正書法がないから、どれも許容範囲なのだ。
統一できそうにもない。

この「悩み」への対処について、日本語の書き手には対照的なふたつの態度がある。

ひとつは、この問題を日本語表記の無秩序、混乱、正書法の欠如ととらえて表記の改革、簡素化に向かおうとする態度である。

かつて漢字廃止論者の梅棹忠夫さんが、そこに至るまでの過渡期の対応として漢語は漢字で和語はかなで表記してはどうか、と提唱したことがあった。
(昔のことなのでひょっとすると勘違いしているかもしれません。)

たしかに簡明な方法だ。

しかし、私のような凡人はそこまですっきり割り切ることはむずかしい。
「流行る」や「美味しい」をかな表記にするのは大賛成だが、「書く」や「話す」のような定着した訓読みは認めてもよいのでは、と妥協してしまう。

もうひとつは、この問題を日本語表記の多様性、豊かさ、高い自由度ととらえてこれを積極的に活用しようという態度である。

表記の選択肢がたくさんあることはちっとも困らない。
それだけ表現のための資源が豊富ということなのだ。
それを制限してしまっては、日本語の書きことば、表現文化がやせ細ってしまう。

私のようにこの問題について定見を持ち合わせていない人間は、どちらの言い分も理解できるので本当に困ってしまう。

どうすればいいだろう?

漢字かなまじりという世界でもっともユニークな表記法が、これまで日本の文化や文明にどのような利益をもたらし、どのような損失をもたらしたか?
さらに、これから先はどうなのか?

という視点から評価するのが本筋かもしれない。

でも、これは実にむずかしい作業なのだ。

|

« 「まな」と「かな」(その6) | トップページ | 「まな」と「かな」(その8) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 「まな」と「かな」(その6) | トップページ | 「まな」と「かな」(その8) »