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2009年10月11日 (日)

漢字と名前(その2)

最近の子供たちは二つの別の名前を持っている。

というのが前回のお話だった。

そう割り切ってしまうと、私も気が楽になる。
「大翔」=「ひろと」、「陽菜」=「はるな」という等式における文字と音声の乖離に悩まなくてもすむ。

でも、こんなことで悩まなければならないのは世界中でもきっと日本語話者だけでしょうね。
同じ漢字圏でも中国語における漢字はちゃんと固有の字音を持っているから、その知識さえあれば迷うことも悩むこともない。

それにしても小沢さんや麻生さんの世代に比べて、最近はどうしてこんなにも凝った名前が増えてきたのだろう。

やはり子供の数が減ってきたからだろうか。

昔は子供が次々に生まれたから、一郎、次郎、三郎と来て最後は留吉、とする方式もよく行われた。
凝った名前をつける余裕がないのですね。

今はそうはいかない。
一人か二人しかいない子供なのだから、ありきたりの名前ではおもしろくない。
ありったけの知恵を絞って、この世にまたとないすばらしい名前を贈りたい。

きっと、そういうことだろう。

そうした親の思いをかなえるのに、漢字という文字はおあつらえ向きなのだ。

無数に近い漢字の中から親の思いを表現してくれる文字を選び出し、組み合わる。
そうして、「大翔」や「陽菜」や「美優」が出来上がる。
読みはまたあとで適当に考えればいい。

非漢字圏ではこうはいかない。
漢字に比べると圧倒的に文字数が少ないし、どだい文字そのものは何の意味も担わない。

非漢字圏の人々にとって、名前に託す意味と価値は音声によってあらわされる。
文字はその音声を再現するための符牒にすぎないのだ。

用いる文字が違えば、命名の原理もまったく異なったものになる。
命名に当たってまず文字を思い浮かべるというプロセスが成り立たない。

もちろん、プロセスだけの違いじゃない。
たとえば、メキシコやモロッコの親たちは、わが子に名前をつけるとき何を思い浮かべるのだろう?
連綿と続く聖人や父祖の名だろうか?

少なくとも、命名のときに親たちの脳裡を去来するものはわたしたちとはまるで違うような気がする。

もういちど、「今年生まれた赤ちゃんの名前ベストテン」にもどろう。
そこにあらわれた漢字を拾ってみる。

「翔」、「海」、「颯」、「輝」、「翼」、「陽」、「美」、「咲」、「凛」、「月」、「衣」…。

ここには、豊かなイメージのゆりかごがある。
わたしたちの名前はその中から生まれてくる。

日本人が漢字から離れられない理由のひとつはこんなところにもありそうだ。

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