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2009年9月13日 (日)

漢字と異邦人

漢字は中国語を書きあらわすために生まれた文字である。
いにしえ、海を越えて日本列島に渡ってきた。

そこは、中国語とはまったく異なる言語圏だった。
漢字にとっては、いわば「異郷」である。

したがって、この列島に住み日本語という言語を話す人々は漢字にとっては「異邦人」と言っていい。

生まれ故郷の人々とちがって、この異邦人たちは漢字の扱いかたのルールを知らなかった。
というより、漢字とともにやってきたインストラクターの教えにこだわらなかった。

だから、漢字からすればとんでもない使いかたをするようになった。

漢字は、意味と音をたずさえて海を渡ってきた。
それなのに、この異邦人たちは意味を捨て音だけを拝借しようとする。
また、音を捨て意味だけをつまみ食いしようとする。

たとえば、先日とある店先で「有難う御座居ます」という貼紙を見かけた。

この店の店主はよほど漢字を使いたいらしい。
漢字=真名という古代からの意識が、店主の中でいまも生きているのかもしれない。

それはさておき、この貼紙の「有難う」の部分は、音を捨て意味だけを用いている。
逆に「御座」の部分は、意味を捨て音だけを拝借している。つまり、万葉がな的使いかたですね。
「居ます」の部分はまたまた音を捨てている。

こんな短いセンテンスの中で異なる扱いが平気で混在している。
しかも、音と意味をふたつながら生かした本来の使いかたはひとつもしていない。

花の名前をあげよう。
たとえば「沈丁花」、そして今の季節なら「夾竹桃」。

これらは、漢字としてはまっとうな使いかただ。
意味も音も大切にしている。
漢字としてもこれなら文句はない。

しかし、同じ漢字3文字でも「紫陽花」はどうか。
音はきれいさっぱり捨てられている。

こうした熟字訓は異邦人たちの得意わざだ。

今の季節なら「秋桜」。
もう少し季節が進むと「時雨」が使われはじめる。

熟字訓には異邦人の美意識が反映されている。

でも、当の漢字たちは異郷におけるこのような扱いをどう感じているのだろうか?

「まったく、漢字の尊いルールをないがしろにした恣意的で不当な扱いです。もう無茶苦茶!」と憤慨しているだろうか?

それとも、
「実は、故郷ではルールに縛られて窮屈な思いをしていました。日本語の世界にやってきて、その抑圧から解放された自由の喜びでいっぱいです!それに、この地で自分たちの新しい可能性を発見しました」
と、わたしたち異邦人に感謝してくれるだろうか?

秋の一夜、かれらを囲炉裏端に招いてその述懐にじっくり耳を傾けてみたいものだ。

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