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2009年8月10日 (月)

ラテン語と漢文

語は意味と音を持っている。

そして、象形性を排除したローマ字は音に結びつき、象形性を強化した漢字は意味に結びついた。

意味と結託した漢字は、文字言語の世界から音声を追い落としてしまった。
そして、音声から超然とした文字文化を形成することができた。

日本語における漢字はこの特性の影響をまともに受けている。

西洋でも日本でも古典教育はずいぶん衰退したけれど、それでも学校では細々と続いている。

ドイツの高校ではラテン語の授業があるし、日本の高校では漢文の授業がある。

「じゃあ、ハンス、15ページから読んでみて」
「はい! Id mihi duabus de causis instituisse videntur…」

先生に指名されて元気よく立ち上がったハンス君の口から出ることばは、当たり前のことだがドイツ語ではなくラテン語である。

しかし、日本の高校生山下君が「国破山河在」を読み上げるときは中国語ではない。
「くにやぶれてさんがあり」と日本語で読む。

いや、そうじゃない。
日本語と中国語をちゃんぽんにして読んでいるのだ。

「山河」のところは中国語である。
それを日本語の音韻体系にあてはめて発音している。
つまり、漢字の音読みですね。

あとの「国破…在」の部分は日本語に翻訳して読んでいる。
つまり、漢字の訓読みである。

わたしたち日本語話者にとっては、こうした漢文の読み下しは当たり前で何の不思議もない。
しかし、ハンス君のラテン語テキストの読みと比べると、ずいぶん風変わりで複雑でアクロバティックな読みであることがわかる。

ハンス君はラテン語のテキストをラテン語で音読した。
なぜ山下君はこの漢文を、「こくはさんがざい」と(日本語風)中国語で音読しないのだろう?

こんな疑問を山下君にぶつけると、
「ぼくは漢文を勉強しているのであって、中国語を勉強しているわけじゃありません」
という答えが返ってくるかもしれない。

しかし、「国破山河在」はれっきとした中国語のテキストなのである。
げんにお坊さんはお経という漢文を中国語で(音読みで)読み上げている。

それなのに山下君の答えが当たり前のように思われているのは、日本語における漢字が音とのつながりを失い、いわば沈黙しているからだ。

だから、テキストを見ても中国語を意識しないですむ。
漢文と中国語は別、という考え方ができる。
訓読みという翻訳をして平気である。

ハンス君のラテン語テキストのように杜甫の詩がローマ字で表記されていれば、山下君といえどもこれを素直に音声化する以外に手立てがない。

日本語における漢字の面妖さをしみじみ感じる。

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