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2009年7月19日 (日)

「まじり」の文化(その2)

「漢字かなまじり」というのが今日の日本語表記の基本ルールである。

そして、このルールの真髄は「漢字かな」という前段ではなく「まじり」という後段にある。
というのが前回の変なお話だった。

今日の日本語表記は異なった系統に属するさまざまな文字の「まじり」、すなわち「混在」によって出来上がっている。

カタカナだけでもひらがなだけでも日本語は表記できるのに、漢字を追い出したりしない。

ローマ字という金髪碧眼の新入りがやってきても差別しない。
「君もおいでよ、みんな一緒に仲良くやろう!」と言っている。

別に最近「多文化共生」ということが言われだしたから日本語表記が急に開放的になった、というわけではない。
昔からそうである。

森鷗外も、小説の中に平気で外国語とローマ字を織り込んでいる。

「平生妻子に対しては、tyranのような振舞をしているので…」(『雁』)

もちろん意図あってわざとそうしているのだが、このあたりが鷗外のきざで嫌味ですてきなところだ。

それから、漱石の『こころ』。
「先生」は遺書の中で友人を「K」というローマ字のイニシアルで記している。

大事なことは、百年前でさえローマ字を日本語テキストに織り込もうという発想があり、読者がそれを違和感なく受け入れている、という事実だ。

今も昔も、日本語の書き手読み手は「まじり」を喜ぶのである。

その点、ローマ字でもアラビア文字でもハングルでも、よそ者に対しては冷たい。

たとえば、もし英語圏で「I like すし very much」という表記にお目にかかったらぎょっとする。
異様な、あり得ない光景なのである。
英文の中では、「すし」は「sushi」の形でしか存在を許されない。

しかし、鷗外も漱石もそして現在のわたしたちもこれと同じことをやっているのだ。
それで、別に異様とも何とも思わない。

「まじり」の文化が骨の髄までしみているのである。

そういえば、むかし「日本文化=雑種文化論」を提唱した人がいた。
「まじり」を喜ぶ雑種文化の原則は、こうして日本語表記にも及んでいる。

いずれにせよ、日本語の表記体系は世界一開放的である。
ロシア語やヒンディ語とちがって、毛色の変わった文字たちをどんどん迎え入れる。

しかし、開かれすぎてかえってわけがわからなくなった、という一面も否定できませんね。

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