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2009年4月 6日 (月)

日本語と弁論(3)

なぜ日本語の世界では、弁論や雄弁にさほどの価値を認めないのだろう?

前回、とりあえずその結論めいたものが出た。

ことばのはかなさを慈しむがゆえに、そしてそのはかなさに潜む魔力を畏れるがゆえに、わたしたちはみだりにことばを弄ぶことをしない。
話しことばを道具のように、あまつさえ武器のように用いることなどとんでもない。

そんなお話だった。

しかし、人とことばの関係はなかなか一筋縄ではいかない。
まことに両義的なのだ。

わたしたちは「声」に対する慈愛や畏れ、慎みとは正反対の態度も持ち合わせている。

音声言語への不信と軽侮、である。

「声」の特徴は発した瞬間にどこかに消えてしまうことにある。
あとには何も残らない。
残るとすれば、おぼつかない記憶だけだ。

話しことばはしょせんその場限りのもの。
そんな頼りない、いい加減なことばをまともに相手にしてはいられない。

というわけで、わたしたちは昔から大事なことは文に認めて伝えた。
せっせと手紙を書いた。
隣近所に住んでいる人とでも手紙をやり取りした。

比較したわけではないが、日本語話者は世界の中でも筆まめな人たちだったのではないか?

それには漢字というインパクトの強い文字、視覚的にいかにも頼りになりそうな文字を用いていたことも関係がある。
そのインパクトに引きずられて、日本語話者はずるずると文字偏重の文化に走ったのではないだろうか?

文字への深い信頼、その裏返しとしての「声」への不信。

本当に大切なことは「声」じゃだめなのだ。
文字でなければ信用できない。

日本で弁論や雄弁が発達しない理由はこんなところにもあると思う。

西欧諸語は「声」が優位に立つ言語である。
これに対して、日本語は文字が優位に立つ言語である。
極度に単純化すればそうなる。

だから日本にはヒトラーは生まれないし、たとえ生まれたとしてもそのアジテーションが大衆を動かすことはなかったはずだ。

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