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2009年3月22日 (日)

日本語と弁論

なぜ日本語の世界では、弁論や雄弁にさほどの価値を認めないのだろう?

という疑問で前回記事は終わった。

たしかに、日本語話者は話しことばにあまり重きを置いていないんじゃないか、と思わせるふしは数々ある。

日本ではおしゃべりは軽薄という印象につながり、無口がかえって実直という評価を受けたりする。
以心伝心の伝統もあるし、「あうんの呼吸」は交渉における高等戦術とされる。
むやみに言挙げしない、というのは美徳ですらある。

そういえば「物言えば唇寒し秋の風」という俳句もあるし、「口は災いのもと」なんておしゃべりをたしなめる格言もありますね。

「それを言っちゃあおしめえよ」というのは寅さんの決めゼリフだった。
「言わぬが花」なのである。

たしかに「話しことばに消しゴムはきかない」から、一旦ことばとして口にしてしまうともう逃げ場がなくなる。
何気なく口にしたことばが発話者の意図を離れてひとり歩きを始める、ということもよくある。

ふつう話しことばは証拠が残らないから、そんなこと言ったおぼえはない、としらを切り通すこともできない相談ではないが、発話者の人格に傷がつくことは避けがたい。

そんな経験で痛い目にあった人たちが上のような格言を残し、軽々しくことばを口にすることを戒めたのだろうか?

そんな教えが世々受け継がれていく中で、話しことばに対してややネガティブな文化が出来上がったのだろうか?

でも、話しことばが引き起こすわざわいやトラブルというのは、何も日本語に限った話ではないはずだ。
日本語の世界で弁論や雄弁が発達しない本当の理由はまた別のところにあるのかもしれない。

いずれにせよ他の言語圏の人々と接する機会が増える中で、自分の意見をはっきり言明しない、というわたしたちの態度は評判が悪い。

だからいま学校では、「言いたいこと、言うべきことは胸にしまっておかずはっきり言いなさい」、「自分の意見を理路整然と主張するスキルをみがこう」と教えられる。

朝の授業が始まる前には順番で3分間スピーチをさせられるし、たまには授業の中でディベートのまねごとも行われる。

そのせいか最近はやたらに自己主張をする人が多くなったし、ネット上は言説のるつぼになっていて、これはこれでまた別の問題を生んだりしている。

しかし、こうした傾向はギリシャ以来の弁論や雄弁の文化とはまた別もののような気がするのですが、いかがでしょう?

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