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2009年3月29日 (日)

日本語と弁論(2)

なぜ日本語の世界では、弁論や雄弁にさほどの価値を認めないのだろう?

前回はその結論をあいまいにしたまま終わった。

たしかに、話しことばは時に無用のトラブルやわざわいを引き起こすから日本語話者は話しことばに否定的になった、というような単純なものではない。

文化というのはそんな打算的なレベルで成立するものではないのだ。

文化と言えば、日本には「間の文化」がある。

ことばそのものより、ことばとことばの間にある余白、「声」の背後にある「沈黙」に思いを寄せる、価値を見出すというのは「間の文化」のなせるわざかもしれない。

「雄弁は銀、沈黙は金」という格言は西洋生まれだが、むしろ日本語話者にこそふさわしい。

あるいは、わたしたちは人一倍「声」のはかなさを身にしみて感じているのかもしれない。

「声」は生まれた瞬間にうたかたのように消えてしまう。
そんなうつろいゆくものをことさらに慈しむ、というのもわたしたちの文化だった。

慈しむがゆえに、ことばを粗末にしない、ことばを惜しむという態度を育てた、ということも考えられませんか?

「多言を弄する」ことなどとんでもない。
ことばはみだりに弄んではいけないものなのだ。
(もっとも、そんな「美風」はすでに失われて久しいが…)

同時に、日本語話者ははかなさの中に潜む「声」の魔力を人一倍鋭敏に感知していた。

日本には古くから言霊信仰の伝統がある。
言霊の力を信じているがゆえに、かえって軽はずみにことばを用いるのを慎んでいるのだ。

弁論や雄弁というのは、ある意味でことばを武器のように用いる、ということである。
げんに「火を吐くような弁論」なんて言い方もあるし、雄弁家は機関銃のようにことばを連発する。

日本語話者にとって、話しことばははかないもの、それでいて底知れぬ魔力を秘めたものだ。
そんなことばを道具のように、あまつさえ武器のように使うことなど考えも及ばない。

そんなことをすればきっと天罰が下る。
日本語話者は昔からずっとそう考えてきたのだ。

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