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2009年3月 8日 (日)

はかなさの魔力

「声」ははかない…。

前回記事ではそんなリフレインが響いていた。

しかし、「声」って本当にそんなに頼りないものだろうか?

文字とそれによって書かれたもの。
これはある程度弁別することができる。
コンテンツとその伝達手段、という風にドライに割り切ることができる。

しかし、「声」とそれによって語られたもの、これは不可分の関係にある。
到底切り離すことはできない。

「声」がわたしたちに語りかけるとき、それは分析できない神秘的な瞬間だ。

その語りかけてくる「声」に、わたしたちは時にうっとりする、しびれる、陶酔する。

というよりも、どこかからやってくる「声」に魅せられたい、という潜在的な欲求がもともとわたしたちにあるのかもしれない。

ナチスは人々の心が寄る辺を求めて漂いはじめるたそがれ時に集会を設定したという。
やがてヒトラーが登場し、おもむろに演説をはじめる。

その「声」に、ことばに聴衆は魅了され、鼓舞され、そして判断力を失う。
そう、「声」は人々を踊らせることさえできる。

「声」のことばは高く低く波打ち、時に激流のようにほとばしるかと思えば一転して重くよどみ、ふたたび堰を切ったように溢れだす。

まるで御することのできない不思議な生き物のようだ。
書きことばには逆立ちしてもできない芸当だ。

ある種の「声」は聞き手に身体的快感をもたらす。
わたしたちはそれを無意識に求めている。

そして、すぐれたアジテーターはこのことをよく心得ている。

もしヒトラーの演説をそのまま文字化した文書が作られ、集会後人々に配布されたとする。
それを持ち帰り、深夜の書斎で読んだ人の幾人かは、

「さっきのあの熱狂は一体何だったのだろう?」

とわれに帰るはずだ。

ヒトラーが著作だけをする人間だったら、その後の世界史は少し変わっていたかもしれない。

消える瞬間にだけ存在を許される「声」のはかなさ。
しかしそのはかなさの中に、底知れぬ魔力が宿っている。

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