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2009年2月16日 (月)

コピー進化論・原理編

前々回お話したように、copyという英語は「書かれたものを写して増やす」というのが原義だそうだ。
まさに、本や書類のためにあるような語ですね。

これに対して、日本語の「うつす」という動詞は、もっと意味範囲が広い。
文書だけでなく、人の顔や野山の風景や道端の石ころも「うつす」ことができる。

ということは、「うつす」という動詞は「よむ」と同じく日本列島への文字伝来以前からあった、ということになる。

そう、無文字時代は「口うつし」で情報を発信し伝達し保持し継承したのだった。

日本語の世界に限らず、英語でも中国語でもアラビア語でも、無文字時代は同じことをしていたはずだから、これをあらわす動詞はあったにちがいない。

たとえば英語ならどんな語がそれに当たるのだろう?

いずれにせよ「ことばをうつす」、広い意味で「コピーする」、という行為は言語の成立とともにあった。

それは情報を発信し、それを仲間に伝え、共同体で保持し、世代間で継承するため、つまり人間にとって生きるために不可欠だったから。

しかしよくよく考えてみると、情報を発信し伝達し保持し継承するのは人間だけじゃない。
カラスの社会でもアリの社会でも同じことをする。

かれらはそれを本能やDNAへの刻印という非言語的手段でやっている。
人間との違いはそれだけにすぎない。

人間が「ことばをうつす」、「コピーする」という行為にかくも執着するのはたんに情報の発信、伝達、保持、継承という実利的な目的だけじゃないような気がする。

A 「ほら、見て見て! あんなところにきれいな水仙が!」
B 「ほんとだ。きれいだねえ。」

Aさんの発話は、新情報をBさんに伝えるという言語の実利的な機能を担っている。

しかし、Bの発話はどうだろう。
新情報は何も発信していない。
Aの発話のコピーにすぎない。

じゃあBの発話は無意味かというとそうじゃない。
このことはだれにでもわかる。

Aの発話に対してBが「……」で応じたら、以後AとBの関係に深刻な亀裂が生じることは明らかだ。

BがAの発話のコピーを返したことで、ふたりは同じことばを共有することになる。
その感覚がわたしたちを深い「さびしさ」から救ってくれる。

わたしたちは「種」として生まれながら、「個」として離れ離れに生きなければならない。
だれもがそんな宿命を負っている。

そこにわたしたちの根源的な孤独と寂寥感がある。

神さまはこのことを憐れんでわたしたちにことばを贈ってくれた。
そして、「コピーという方法があるよ」とそっと耳打ちしてくれたのだ。

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