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2006年11月 2日 (木)

日本語と正書法

日本語は縦に書くこともできるし、横に書くこともできる。
同じ内容を「である体」で書くこともできるし、「ですます体」で書くこともできる。
TPOさえまちがわなければ、その選択は書き手の自由と良識にまかされる。

文字づかいやテンの打ちかたにいたっては、書き手のお好みしだいである。

かな文字主義者が、「きのう おとなりさんから おいしい いちごを いただいたので こどもたちに たべさせました」と書くところ(分かち書きの方式は複数あるようですが)を、

漢字好きの人なら、「昨日、お隣さんから美味しい苺を頂いたので、子供達に食べさせました」と書く。

むろん、この両極端の間に多くのバリエーションがあるし、人によっては「いちご」のところを「イチゴ」と書くかもしれない。

かくして、この短い文でも書きかたは十人十色になる。
つまり、日本語の書き手は中身以前の段階で、すでに個性や創造性を発揮することができるのだ。
英語や中国語やタイ語でオリジナリティを発揮したければ、中身や文体で勝負するしかない。

ただし、自由や多様性、というのはでたらめやいいかげんの別名でもある。

そこで、書きことばは社会基盤のひとつであり公共財でもあるのだから、あまりにまちまちで野放図なのはいかがなものか、という考え方も当然ありうる。

梅棹忠夫さんなどはかねてから、日本語には正書法がない、世界の文明国で正書法がないのは日本語だけだ、と嘆いておられる。

たしかに、「取り締まり」か「取締り」か「取り締り」か「取締まり」か「取締」か、わたしたちも時々迷うことがある。「引越」についても同様だ。

この「取締」や「引越」のような例をYAHOOは「表記のゆれ」と呼んでいて、キーワード検索ではこうしたゆれにもちゃんと対応しています、と自慢している。

日本語の表記システムは、高い自由度と多様性をもつ融通無碍の表記である。
同時に、でたらめでゆれ続ける不安定な表記でもある。

梅棹さんは、このような日本語の不完全な表記システムを正して正書法を確立しないかぎり、高度情報社会に対応できなくなると危機感を抱いておられるが、みなさんはどう思われるだろうか?

正直言って、私にはそこまでの危機感はない。
大多数の人々もそうではないだろうか?
だから、梅棹さんの主張にもかかわらず、日本語に正書法を確立すべし、という声は大きくならない。

たしかに上にも書いたように、でたらめでいいかげんな日本語表記にわたしたちは困ることも多い。
しかし、多くの場合、その迷いや困惑が深刻な悩みに発展することはない。
心のどこかで、「わかればいいんじゃないの」という読み手の寛容な精神(これ、いつかも書きましたね)に期待しているのだ。

書き手と読み手が共有する「甘え」と言ってもいい。
その「甘え」の上に日本語の特異な表記システムは成立している。

と言うよりも、日本語の読み手は、自由で幅のある表記、ゆれ続ける不安定な表記の中から書き手のメッセージを正しく読み取ることに「読み」の醍醐味を感じているのではないか。
読み手の主体性をそこに発見しているのではないか。

前に、日本語ネイティブは漢字の面妖さとたわむれているところがある、というお話しをしましたね。
それと似たような事情である。
だから、もし正書法が確立して一義的に書き方が定まってしまったら、人々はきっと味気ない思いを抱くにちがいない。

かな文字化やローマ字化が実現しないかぎり、日本語の表記はこれからもゆれ続けるだろう。
そして人々は困った、困ったと言いながら、内心ではそのゆれを楽しんでいるのだ。

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コメント

本来ならこの問題についてのコメントがもっと沢山あってしかるべきだと思いますが、なんとも虚しい。

国語審議会などどういう考えなのでしょうかねえ。

常用漢字がどうのとか、名前に使える漢字を増やすとかで忙しいばかりでは国の将来を誤ることにならないか。

投稿: | 2014年9月21日 (日) 19時58分

正書法にしたがうかどうかは個人の自由です。英語でもnightをnite,must haveをmust ofと書く人はいる。しかしそれでもnight, must haveが正書法なのです。だから国には「こう書くのが標準」というルールを決めておいてほしい。そうすれば物書きは表記のことをいちいち考えて時間を浪費せずにすむ。日本人が全員表記を自分であれこれ考えるのにかかる時間を合わせると,ものすごいむだだと思います。「もったいない」をじまんする国にはふさわしくないのでは?この国はこんな状態をこれから何千年も放置していくのでしょうか?ローマ字表記にしたって長音の処理すらろくに決められないのだから,ローマ字化で正書法問題が自然に解決するとは思えません。だらしなくて言葉を大事にしない国民性なのかもしれない。

投稿: | 2014年4月 3日 (木) 17時38分

正書法もそうだけど、なにより急がれるのは『漢字の読み方』!
呉音やら唐音やら訓読みやら読み方が多すぎる。
(ハングルなどは基本はに一字一音)
「揺れ」を社会的に許容するのはいいけど、検索の「インデックス」として「読み」は定義したほうが良い。あまりに違和感があるのは、そのうち淘汰されるだろうし。

投稿: かっての梅棹信者 | 2012年10月24日 (水) 23時00分

「多くの場合、その迷いや困惑が深刻な悩みに発展することはない。」
文を書くのが仕事の私にとっては深刻です。一冊本を書くと,編集者が表記のゆれを何百個も見つけてエクセルにして送りつけてくるのです。どれかに統一してくれというのです。私は辞書とGoogleを使って一個一個それを
決めて行くのです。ひどいときはこの作業に何十時間もかかります。どうして私個人が,本を書くたびに正書法を決めないといけないのでしょう?それって国がきちんとやるべき仕事じゃないんですか?ネットの個人のブログまで統一しろとは言いません。文学以外の,公文書や学術書の表記ぐらい決めれば国民がむだな時間と労働を費やすこともないと思います。

投稿: プラネタリウムリュームリュウム | 2011年9月10日 (土) 21時11分

2ch kara kita otokoさま

コメントありがとうございました。
この次の記事でも書いたことですが、どんな言語であれ、正書法といっても表記の決定版などはなく、しょせん目安といったところでしょう。
ローマ字化しても書きかたが定まらないのはおっしゃるとおりです。このことは去年の夏ごろの記事でも書きましたが、3種のローマ字表記法のほかに、自己流のユニークな表記法を使う人もいて大変です。
それでも通っているところが、ことばの懐の深さというものでしょう。

投稿: しおかぜ | 2006年12月10日 (日) 17時43分

ひとつ、質問です。

ドイツではある単語や熟語をフルスペル表記にするか、略語にするかについては、決まりがありません。

z.B. = zum Beispiel(たとえば)

など、普通の文章の中で、書き手の恣意的な判断によって
z.B. になっていたり zum Beispiel になったりしています。
ドイツの新正書法では、略語を作る場合のピリオドの打ち方などは定められていますが、
どの場合はフルスペルで行く、どの場合は略語で行くなどという決まりはないのです。

正書法があるとスペリングはある程度定まります。
しかし、略語や外国語生スペルなどの使い方に踏み込んだ正書法って、どれぐらいあるんでしょうか?

つまり、日本語をローマ字化するとしたら、文中の略語などをフルスペルにするか略語にするか、の問題が出てきます。
で、日本人は略語をじゃんじゃん使うと思います。

だから、ローマ字を使えば書き方が定まる、という考え自体、かなりあやしいのでは?

長くなりましたが、いかがでしょうか?

投稿: 2ch kara kita Otoko | 2006年12月 2日 (土) 10時43分

ベトナムの日本語教師です。

日本語表記のゆれ、日本語教師として教えている身としては困ったものですが、内心でそのゆれを楽しんでいるのも、また確かです。

投稿: ★日本語教師になりたい人のブログ★ベトナムの日本語教師 | 2006年11月11日 (土) 00時17分

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