2022年10月 2日 (日)

バルトの断章(その3)

前にもお話したように、「記号の国」は表むきは日本と西洋の比較文化論だけれど、真の主題はバルトの考えるエクリチュールなのだ。
それなのに、バルトの考えるエクリチュールとは何なのかいまいちよくわからない。

バルトはエクリチュールの語をさまざまな意味で用いている。
書体、文字、書く行為、書かれたもの、文体、書くことへの愛、文学の原動力…。
私がわからないのも当然かもしれない。
(以上は、「バルトによるバルト」という本の訳者である石川美子さんの訳注)

文字あるいは書ということが共通しているけれども、書きことばに限らないような気もする。
パロールにも、エクリチュールの概念は通用するのではないか?

実はこの本については別訳(ロラン・バルト 宗左近訳 「表徴の帝国」 新潮社 1974)がある。
その中で訳者の宗さんはエクリチュールを「表現体」と訳し、「エクリチュール」というルビを振っている。

このことについて宗さんは、「訳語は、言語学その他の専門領域にのみ通用しているものはなるべく避けて、一般の共通言語として機能しうる日本語を選ぶことに努めた」、「基本的な概念となる一つの原語は、できるだけ一つの日本語で置き換えようと試みた」と言っている。

ある文脈において、バルトがエクリチュールをこのうちどんな意味で用いているか?
それを知る手がかりはある。

それが前回の終わりのほうに記しておいた空虚、中心、意味、と言った語彙群である。
実際これらの語は、この本の全編にわたって頻出する。
これらの手がかりを注意深くたどっていけば、バルトの考えるエクリチュールにたどり着けそうな予感がする。

この本で重要な位置を占めている俳句もその手がかりの一つだ。この本でバルトが例として挙げている俳句は14句に上る。
私の知らない句も多い。

フランス語に訳された俳句(バルトが読んだもの)を日本語に再訳した俳句にはこんなのがある。

夕方 秋、
わたはただ思ふ
両親のことを。

すでに4時だ!
わたしは9回も起きた
月に見とれるために。

最初の句は与謝蕪村の「父母のことのみ思ふ秋のくれ」、次は芭蕉の「九たび起きても月の七つ哉」である。
フランス語のはオリジナルにはない「わたし」が入っている。
ラングの決まりに従って、入れなければ仕方がないのだ。

ただ、この「わたし」は軽い。
主体としての「わたし」、自我と深く結びついたような「わたし」ではない。
何なら「かれ」や「あなた」と入れ替えても大きな違いはない「わたし」である。
つまり、符牒のような役割しか果たしていない。

そんな俳句における{わたし」を発見したことで、バルトはテキストに「わたし」を使い始める。
実際、「記号の国」の冒頭は「もしわたしが…」ではじまる。
俳句における「わたし」が気に入ったようだ。

さて、バルトは無垢のエクリチュールということをいう。
内田樹さんによれば、エクリチュールは語り手(あるいは書き手)にとっての檻だという。
つまり、語り手を拘束する。

しかしバルトはあらゆるとらわれから自由な、つまり語り手を拘束しない無垢で透明なエクリチュールにあこがれる。
しかし、そんなエクリチュールがあり得るのだろうか?
バルトはその稀有な例がカミュの「異邦人」だという。

なので、わたしも「異邦人」(の日本語訳)を買って読んでみた。
たしかに、和訳を通じてでもそのカラッとした文体はしのぶことができる。
でも、バルトや内田さんが言うほど奇跡的な独創的な達成とは感じられなかった。
私の感受性がにぶいのだろうか?

「異邦人」はともかく、バルトにとっては俳句も無垢のエクリチュールと感じられたのは確かなようだ。

前にもお話ししたように、バルトは断章というスタイルを好んだ。
前出の「バルトによるバルト」という著作も350ほどの断章で編まれた自伝的エッセイだ。

その中には「断章の輪」という断章もあって、こう書かれている。

断章で書く。
すると、それらの断章は、輪のまわりの小石になる。
私は自分を丸く並べているのだ。
私の小さな全宇宙が粉々になる。
中心には何があるのか。
(ロラン・バルト「バルトによるバルト」 石川美子訳 みすず書房 1975)

私の断章もこんなふうだろうか?

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2022年9月25日 (日)

バルトの断章(その2)

バルトは断章というスタイルを好んだ。
実際、「記号の国」も短い断章の積み重ねである。

「記号の国」は、26の断章からなっている。
でたらめに並べたのではなく、最初の3章は言語について、次の4つの断章は日本料理について、さらに次の4章は東京の都市論…と内容的に連鎖しながら構成されている。

このブログの構成とよく似ている。
それも当然だ。

実は、バルト先生は私の、このブログの恩人なのだ。
バルトに断章という形式を教えてもらわなかったら、17年も、845回もこのブログは続かなかった。

バルト先生には、まとまったテキストを書くのに必ずしも起承転結にこだわらなくていい、ということを学んだ。
そうすると、自然にテキストが出てくるようになった。
テキストが次のテキストを呼び出すという好循環が生まれた。
そして17年も続いた。

私のことはさておき、「記号の国」には文楽についての3つの断章、俳句についての4つの断章もある。
とりわけ俳句については熱が入っている。
バルト自身が語っているように、俳句はバルトの考え方やスタイルに大きな影響を及ぼしたようだ。

むろんバルトは俳句をフランス語訳を通じて理解している。
日本人がフランス語に訳したもの、あるいはイギリス人が英訳したもの(をバルト自身がフランス語に訳したもの)を通じて、理解している。

たとえば、「古池や蛙飛び込む水のおと」は、

古い池、
蛙が飛びこむ、
おお、水のおとよ。

となる(「記号の国」の訳者石川美子さんが日本語に再訳したもの)。
だから、バルトの理解したものは正確には俳句と言えないものかもしれない。

しかし、バルトの直感はフランス語訳を介しても俳句の本質に達したようだ。
バルトは、蛙が池に飛び込んだ時のポチャンという音のあとには意味が中断してしまう、と言っている。
また、「俳句は理解しやすいものでありながら、なにも意味していない」とも言っている。

いったいに、この本にはエクリチュール、空虚、中心と並んで意味という語も頻出する。
西洋では、中心は空虚であってはいけない。
意味をぎっしり詰め込まなくてはいけない。
そんな強迫観念があるようだ。

バルトはそのことを指摘している。
そして、中心を定め、そこは意味で充実していなくてはならない、という西洋の強迫観念に息苦しさを感じているようなのだ。

日本では中心はあるにせよ、東京の都市構造のようにそこは空虚である。
意味を詰め込もうとしない。

俳句についても、文楽についても、日本料理についても、そのことを繰り返し述べている。
バルトが日本で意味の重圧から解放され、楽しくこのテキストを書いたことがよくわかる。

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2022年9月18日 (日)

バルトの断章

ラカンに比べるとロラン・バルトのテキスト(の日本語訳)はまだしも読みやすい。
たとえば、こんな具合である。

ところが、わたしが話題にしている都市(東京)は、つぎのような貴重な逆説をしめしている。たしかに東京にも中心はあるのだが、その中心は空虚だということである。立ち入り禁止になっているとともに、だれの関心も引くことのない場所ー樹木の緑で隠され、お堀で守られて、けっして人目にふれることのない天皇が、つまり文字どおり誰だかわからない人が住んでいる皇居ーのまわりに、東京の都市全体が円をえがいて広がっている。
(ロラン・バルト 石川美子訳 「記号の国」みすず書房 2004)

日本語話者にとって身近な題材を取り上げているため、読みやすいのは当然かもしれないが、ここには日常の生活実感につながった手がかり、足がかりがたくさんある。

内容はラカンと同じくらい急斜面だが、よじ登れないことはないな、という気にさせる。
また、同じ題材について、ラカンならどんなふうに書くだろう?という興味もある。

「記号の国」はバルトが1960年代後半に日本を三度訪問、滞在した時の経験を踏まえて1970年に出した本である。

バルトは写真についても関心が深く、写真のエクリチュールをテーマにしたテキストもある。
なので、この本にもバルト自身の解説による写真がたくさん掲載されている。

古代装束をまとった舟木一夫、歌舞伎役者、二条城の廊下、石庭、相撲、毛筆による漢字など伝統文化に関するものがが多いが、パチンコ風景、タレントのブロマイド、全学連の闘争風景などもあって面白い。
乃木将軍とその妻の殉死前日の写真なんてのもある。

テキストとこれらの写真がバルトの意図のもとに渾然一体となっていて、楽しいけれども気の抜けない本だ。

この本は、表面的には日本の伝統文化や見聞きしたことと西欧のそれとを対比した比較文化論のようだけれど、ほんとうはバルトの考えるエクリチュールが主題なのだ。
実際エクリチュールという語は、この本の中に頻出する。

でもバルトの考えるエクリチュールとはなんだ?
この本を楽しく読みながらも、つねに悩んでいたのはそのことだ。
このフランス語にはぴたりとあてはまる日本語がないので困る。

広辞苑には、「書くこと、書かれたもの」と出ているけれども、少なくともバルトの場合、これではだめ。
内田樹さんはその人が属している階層や社会集団に特徴的な「語り口」と言っている。

この本における「エクリチュール」にあたる日本語としてもっともふさわしいのはなんだろう?
この本を読みながらずっと考えていたのだけれど、いまだにわからない。
あなたなら、どんなことばがいいと思いますか?

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2022年9月11日 (日)

ラカンのエクリチュール(その3)

くどいようだけれど、ラカンのテキスト(の日本語訳)の難解な部分をあらためて引用してみる。

自己からの他人に対する時間性をおびた問い合わせとしてのソフィスムの真理、集合的論理の基本的形式としてのあらかじめする主観的な確言。

このようにして、ソフィスムの真理はそれがたまたま立証されるとしても、ただソフィスムに含まれる確言の中の、いわば推測によってそうされるのである。
また、この真理は或る観念を目ざす傾向に依存していることがこうして明らかにされるのであるが、その観念とは、もしそれが結論の時点を決定する時間の緊迫に還元されないとすれば、ひとつの論理的逆説であるかもしれないものである…。
(ジャック・ラカン 佐々木孝次他訳 「エクリⅠ」 弘文堂 1972)

同じ個所の引用はこれで3回目である。
私にとっては、それだけこの難解さが印象に残った。
おかしな言い方だが、そのわからなさに感銘を受けた。

訳者の佐々木んさんは、自分の訳を読み直してみて、「これでよし!」と思ったのだろうか?
ふつうの日本語話者にもわかってもらえると思って、出版のゴーサインを出したのだろうか?

正確さを多少犠牲にしても、もう少しリーダブルな日本語に直そうとは思わなかったのだろうか?

いやいやそれでは翻訳ではなく、翻案になってしまう。
翻案はそれを手掛ける人の主観が入ってしまう。
訳者として誠実な態度とは言えない。

佐々木さんはそう思ったのだろうか?
フランス文学者の内田樹さんなら、どんなふうに訳すだろう?
ふとそんなことを考えてみる。

なぜこのテキストがわからないのだろう?
日本語で書いてあるのに。

ということを考えることで、わたしたちの読解のメカニズムがわかるのではないか?

最初、このテキストを目にしたとき、垂直に切り立ったつるつるの壁面に直面した感じを受けた。
ということは前にもお話しした。

「机の上にみかんが3個置いてあります」という文ならだれでもわかる。
頭の中に、そのイメージがくっきり浮かぶ。

なぜなら、そこにある語彙がわたしたちの生活実感にただちに結びつくからだ。
言い替えれば、文が身体化される。
そして、文の意味が頭だけでなく身体全体で理解されるのだ。

これに対して、ラカンの冒頭のテキストでは、それぞれの語彙の辞書的意味は頭ではわかる。
しかしそれがわたしたちの生活実感に結び付かない。
つまりテキストを理解するための手がかり、足がかりがどこにも見つからないのだ。

「机の上にみかんが3個置いてあります」という日本語文をフランス語に訳した場合、フランス語話者の脳裡にも日本語話者とそう違わないイメージが浮かぶと思う。
使用されている語彙が生活実感に結び付いているからだ。

フランス語がわからない私の本音として、訳者にはやはりここのところを考えてほしい。
正確さは多少犠牲にしても、生活実感に近い語彙を選択してもらえないだろうか?
それとも内容が高度に抽象的だから、そもそも無理な相談なのだろうか?

佐々木さんは「訳者あとがき」の中で、「フランス語話者でもラカンのテキストを初めて読む人にとっては難しいと思う」と述べているけれども、その難しさの質は日本語話者のそれとは違うと思う。

ラカンはフランス語で書いている。
そこで使われている語彙はひとつひとつ歴史があり、他の語彙との関連があり、曰く言い難い陰影がある。
母語話者には、内容とは別にそのことが直感的に分かる。
そうした語彙が積み重なるとともに、テキストと読者の間に、内容とは別の「親和性」が生まれる。
母語話者なら、はじめての読者でもそのことだけは感じ取れる。

しかし悲しいかな日本語話者は、その「親和性」も感じ取ることができない。

「自我は自己の内部にしみじみと「自分は存在するのであるなあ」という実体的な確信が積み上げられて、その結果獲得されるわけではありません。外部にある像を「あれが私だ」と思い込むことによって獲得されるのです。」
(内田樹 「街場の文体論」 ミシマ社 2012)

これは、内田樹さんがラカンの鏡像段階説を解説したテキストの一部である。
日本語話者が日本語話者に向けて日本語で書いているのだから、わかやすくて当たり前である。

しかし、この文には「机の上にみかんが3個置いてあります」のような、ただちに生活実感に結び付くような語彙はない。
それでもわかりやすいのは、読者にとってリーダブルにするためのさまざまな工夫がなされているからだ。

冒頭のラカンのテキストについても、そのような工夫の余地はあるような気がするのだが…。

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2022年9月 4日 (日)

ラカンのエクリチュール(その2)

前回は、ラカンのテキストにはじめて出会ったときの衝撃についてお話しした。
前回も紹介したけれど、その一部をここに再掲しよう。

自己からの他人に対する時間性をおびた問い合わせとしてのソフィスムの真理、集合的論理の基本的形式としてのあらかじめする主観的な確言。

このようにして、ソフィスムの真理はそれがたまたま立証されるとしても、ただソフィスムに含まれる確言の中の、いわば推測によってそうされるのである。
また、この真理は或る観念を目ざす傾向に依存していることがこうして明らかにされるのであるが、その観念とは、もしそれが結論の時点を決定する時間の緊迫に還元されないとすれば、ひとつの論理的逆説であるかもしれないものである…。
(ジャック・ラカン 佐々木孝次他訳 「エクリⅠ」 弘文堂 1972)

この引用部分が「このようようにして」という接続文で始まっているのは、これが「エクリ」に収録された比較的短い論文(それは「論理的時間と予期される確実性の断言ー新しいソフィスム」と題されている)の結論部分だからである。

皆目理解できないテキストの例として、この部分だけを引用するのは若干公正さに欠けるかもしれない。
何故なら、この論文の冒頭部分は比較的わかりやすいからである。

刑務所長が三人の囚人を呼び出して、「これからある問題を出す。一番早く正解を言い当ててこの部屋から退出したもの一名だけを釈放する」という。

その問題とは、三人の背中に黒か白の円盤を貼る。
他の二人の円盤を見ることはできるが、そのことをお互いに言ってはいけない。
円盤は黒が二枚、白が三枚、用意されている。
さて、自分の円盤は黒か白か?

具体的な論理問題なのである。
論文はこの問題と囚人の出した解答をめぐって時間の変数も加えながら考察が進むのだけれど、だんだん抽象度が高くなってきて、例示した結論部分に至ってさっぱりわからなくなる。

タイトルが示す通り、この論文の主題は「ソフィスム」である。
「ソフィスム」は外来語だけれど、国語辞典には載っていない。
英和辞典よると「詭弁、謬論」とあるのだけれど、このような理解でいいのかどうかもついにわからない。

論文集「エクリ」は、日本語訳では三分冊になっている。
一冊でもけっこう部厚い。
他の論文の難解さも、ここに例示したものと大同小異だ。

佐々木孝次さんの「訳者あとがき」によれば、この本が1966年に出版されるとたちまちベストセラーになったのだそうだ。
一体フランスの読書界はどうなっているのだろう?

今からフランス語を猛勉強して、何ならラカンのゼミナールの録音テープも聞いて、しかる後に原文に当たれば少しは理解が進むのだろうか?
でも、そんな余裕も気力もない。

フランス語は使用できる語彙の数が日本語よりも少ないらしい。
だから、ひとつの単語にさまざまな意味を詰め込もうとする。
その上、ひとつひとつの語にはそれぞれ古代からの歴史があり意味の積み重ねがあり微妙な陰影もある。

そのことだけでも日本語との違いは大きい。
つくづく翻訳の難しさ、限界を感じる。

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2022年8月30日 (火)

ラカンのエクリチュール

ジャック・デリダ、ロラン・バルトときたからには、ジャック・ラカンにも登場してもらわねばなるまい。

ラカンのテキストに初めてふれたのは、もう10年近く前になる。
その時は腰を抜かした。

日本語の訳文で読んだのだけれど、ひとことも理解できなかった。
こんな日本語文もあるのか、と思った。

たとえば、こんな具合である。

自己からの他人に対する時間性をおびた問い合わせとしてのソフィスムの真理、集合的論理の基本的形式としてのあらかじめする主観的な確言。

このようにして、ソフィスムの真理はそれがたまたま立証されるとしれも、ただソフィスムに含まれる確言の中の、いわば推測によってそうされるのである。
また、この真理は或る観念を目ざす傾向に依存していることがこうして明らかにされるのであるが、その観念とは、もしそれが結論の時点を決定する時間の緊迫に還元されないとすれば、ひとつの論理的逆説であるかもしれないものである…。
(ジャック・ラカン 佐々木孝次他訳 「エクリⅠ」 弘文堂 1972)

こんな調子でえんえんと続く。

垂直に立ったつるつるの壁面を前にしているように感じる。
どこにも手がかり、足がかりが見つからず途方に暮れてしまう。

この文をすらすらと理解できる日本語話者がいるのだろうか?

この論文を訳した佐々木さんはフランス思想史のえらい先生だそうだから、その訳文は正確で適切なのだと思う。
でも私にはひとこともわからない。

もともとラカンはフランスでも難解な文章で有名な人だそうだから、日本語への翻訳についての苦労話が出ていないかと、「訳者あとがき」を読んでみた。

そこにはこんなことが書いてあった。

「語ることとは全く次元の異なった文体をとおして、言葉が文字として読者に提供されているので、その話を聞いたことがなく、書きものによってはじめて彼の思想に接した大部分の読者には、その説くところがきわめて難解と映ったのは当然であろう。」

つまり、フランス語話者でさえ、テキストだけで彼の思想を理解するのは至難の業なのだ。
まして、そのテキストをまったく構造の異なる日本語への翻訳を通じて接することになるわれわれにおいておや。

実はラカンは、この訳書への序文を寄せている。
それによると、ラカンは日本語にまったく不案内というわけではなさそうだ。
この序文には、音読み(l'on-yomi)、訓読み(le kun-yomi)という日本語さえ出てくる。

そのラカンにして、日本語への翻訳の困難さを恐れている。
彼は「この序文を読んだらすぐに、私の本を閉じる気を起こさせるようにしたい!」とまで言っている。

私がこの訳文を理解できないのは、たんに私の頭が悪いせいだけではないことがわかって、ほっとした。

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2022年8月21日 (日)

エクリチュールとパロール

前回はエクリチュールというフランス語の術語が出てきた。

そこでは、日本語の「書きことば」に当たる語として用いた。
デリダもパロールつまり話しことばの対概念として使っている。

エクリチュールということばは日常会話ではあまり登場しないけれども外来語としては登録されていて、広辞苑には「書くこと、書きことば」という語釈が載っている。

でも、エクリチュールに言及した他のテクストを読むと、必ずしもエクリチュール=書きことばではないらしい。

ロラン・バルトなどによるとエクリチュールの意味範囲はもっと広い。
日本語で言えば「語法」または「語り口」にあたる。
それがある階層と深く結びついているのだそうだ。

こうなると、エクリチュールは単なる書きことばではなくなる。
エクリチュールが「語り口」なら、それはパロールまで包摂してしまう。
エクリチュールとパロールという対概念も成り立たなくなる。

そもそも言語学用語としてのパロールは、ソシュールが使い始めた。

彼によると、ランガージュ(言語活動)の下位分類としてラングとパロールがあることになる。
ラングとは文法規則や言語音の選択など体系的、制度的な側面、平たく言えば〇○語のことである。
そしてパロールとは、ラングに従って個々人が表現する具体的な〇〇語の表出のことである。
こう考えると、パロールには話しことばだけでなく書きことばも含まれることになる。

前回、知ったかぶりをしてフランス言語学の術語を持ち出したものの、だんだん自信がなくなってきた。
その原因は、私のスノビズムだけでなくフランス語の術語と日本語の対応関係にも問題があるのではないか?

大体ソシュールが言い出したシニフェとシニフィアンという術語も難しい。
日本語として、所記、能記というよくわからない訳語がある。
訳した人もずいぶん悩んだことと思うが、演説や経済と異なり訳語にはなじまないのではないか?

エクリチュールとパロール。
ランガージュとラング。
シニフィアンとシニフェ。

これらのフランス記号学の術語と日本語とは、どうもうまく対応しない。
何故だろうか?
日本語の側に原因があるのだろうか?

そうとも考えられる。
大体日本語話者は言語を対象化してこなかった。
ことばを駆使して、感情を表現することに関しては長けていたけれども、あまりに身近すぎて、研究対象とすることを思いつかなかった。

しかし、言語が身近であり生活に密着したものであるのは、日本でも西洋でも同じである。
では、この違いは何に由来するのだろうか?

そう掘り下げてみると、神話時代に行き着かざるを得ない。
創世記を読むと、そのそも天地開闢のはじめに、神の「光あれ!」ということばによっ光が誕生したことが記されている。
それだけでなく、名づけの由来、神の怒りが人間の言語を混乱させたこと、などことばの力に関する言及が多い。

ひるがえって古事記でも日本書紀でも、ことばはすでにそこにあるものとして扱われてきた。
先験的にそこにある以上、あとは利用するだけのことである。

わたしたち日本語話者は、古代以来今日に至るまでことばに対して、そんな態度をとり続けてきた。
だから、フランス記号学は理解しにくいのだと思う。

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2022年8月 8日 (月)

「読む」ことの意味

遠い未来、わたしたちは「書く」という面倒な言語行為をしなくてもよくなるかもしれないー。
というのが、前回のお話だった。

わたしたちは、「書く」かわりにAIに向かって同じことを話せばいい。
AIがそれを文字化してくれる。

わたしたちは、それを読めばいい。
だから、人間が書かなくなっても文字を読む技能は依然として必要だ。

いや、まてよ。
この段階での「読む」という作業もAIがやってくれるのではないか?
AIが読み、それを音声化してくれる。
人間はそれを聞けばいい。

こうなれば、人間は「話す」技能と「聞く」技能さえあればいい。
文字によるコミュニケーションは、AI同士の中で完結する。

人間社会から文字が消える日。
荒唐無稽な夢想かもしれないが、AIと人間の関係を深堀りしていけばそんな未来にもたどり着く。

「書く」ことと「読む」ことがAIに取ってかわられても、人間が存続する限り、「話す」と「聞く」は残る。
したがって、「話す」と「聞く」が人間の言語行為の本質だ。
人間社会から文字が消える日のことを思うと、そんな結論も導ける。

話しことばに比べて、書きことばははるかに遅れて誕生した。
ひょっとすると、書きことばは人間の長い歴史の一時期にあらわれた文化現象なのかもしれない。

考えてみると、たしかにそんな一面がある。
話しことばは、口と耳という生物に備わった器官さえあれば可能だけれども、書きことばは紙や筆記具など何らかの道具を必要とする。

話しことばは自然に属しているのに対し、書きことばは文化に属している。
だから、AIというあたらしい文化が進化することによって、書きことばという文化が必要なくなる。

やはり人間にとって、言語の本質は話しことばなのか?

文字言語は、音声言語の衣装である。
その衣装は、退廃と堕落の衣装であり、腐敗と仮装の衣であり、よき音声言語によって追い払われるべき祭りの仮面なのだ。
ソシュールもそう考えていた。

しかし、本当にそうだろうか?
ジャック・デリダはこれに対してエクリチュールの肩を持つ。

パロールは直接的、本質的であるかもしれないが、それゆえに何事も一義的に決めつけてしまう。
これに対してエクリチュールは間接的、非本質的であるがゆえに、読み手によってさまざまに解釈が可能であり意味が固定化されずどこまでも広がってゆく。

つまり、「読み」というのは単なる受動的な情報受信行為にとどまらず、豊かな創造性を内包しているという。
実際、デリダは読みの達人だったそうだ。

こうして新しい光を当ててみると、「読む」こともなかなか捨てたものではない。
ひょっとして、「文字が消える日」は来ないかもしれない。

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2022年7月18日 (月)

「書く」ことの意味

毎日使っているパソコンのキーボードをしみじみと見つめてみる。

少し前、私はかな入力をしないので、かなキーの位置など気にも留めたことがない、と言った。
しかし、この言語とAIのシリーズを始めてから、かなキーの配列が気になってきた。

あらためてかなキーの配列を眺めてみる。
「あ」は一番上の列、左から4番目に割り当てられている。
次の「い」は、2列目左から4番目に配置されている。

なるほど。
あ行は順に下に降りていくわけか。

と思って、3列目を捜してみても「う」は見つからない。
では、「う」はどこにあるのだろう?

と思って、必死に探してみると 何と「う」は「あ」の右隣にあった。
そして次の「え」、その次の「お」もさらに右に続いていく。

しかし、「か」はまた2列目の6番目にある。
その右隣は「き」ではなく、50音図欄外の「ん」が唐突にあらわれる

見慣れている50音図の順序とはまるでちがう。
でたらめな配列と思えてくる。

この点、スマホの文字配列は分かりやすい。
50音図に忠実である。

スペースの制約で、キーをたくさん表示できないので「お」を打つためには「あ」を5回押さなくてはならない。
その分、適切な候補を表示することでカバーしている。

一体、パソコンキーボードの配列はどのようなポリシーのもとに決められているのだろう?

基本的には、タイプライター時代からの配列を引き継いでいるようだ。
そしてで、その時代の配列はメーカーや開発者が「使いやすさ」「覚えやすさ」を追求した結果だと思う。

ただ、「使いやすさ」、「覚えやすさ」と言っても決定版はないので、試行錯誤の結果、さまざまなキー配列が提案されている。

決して私がいま使っているキーボードの配列だけが決定版というわけではないようだ。
所詮は「慣れ」の問題かもしれない。

しかし、この先キーボードの文字配列にこだわる必要はなくなるかも知れない。

先日、知人が音声入力でメールを作成しているのを見てびっくりした。
苦労してキーなど押さなくても、スマホに向かって書きたいことをしゃべるだけで、さらさらとメールが生成されるのだ。
私のスマホには音声入力の機能がないのでうらやましく思った。

音声認識技術はもうここまで進んでいる。
私が次の機種に買い替える頃には、どれも音声入力ができるようになっているだろう。

「話す」、「聞く」、「書く」、「読む」を言語の4技能というけれど、近未来には「書く」が必要なくなるかもしれない。

わたしたちは文字を読むことさえできればいい。
書くという面倒なことは機械に任せればいい。
人間はそれだけラクになる。

でも本当にそれでいいのだろうか?
自分の手で「書く」ということは、創造性と深く結びついていると思うのだが…。

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2022年7月10日 (日)

言語とAI

前回は、これから先AIはどこまで進歩するのだろう、と考え込んでいるうちに陰謀史観めいたものにたどりついてしまった。
「神さまの陰謀」、「神さまの逆襲」なんてことばが頭をよぎる。

将棋や囲碁の世界では、今では専門棋士でもAIにかなわない。
ほんの10年くらい前まで、コンピュータが人間に勝つのはまだ何百年も先の話と思われていた。

このことを考えれば、これから先人間とAIの関係はどうなるのだろう?
気が遠くなりそうだし、恐ろしくもある。

計算や情報処理の分野ではもうかなわないけれど、今はまだ人間がAIを支配している(と思っている)。
けれど、この先AIが「意思」や「感情」を持ち始めることはないだろうか?

絶対にない、と断言できる自信は私にはない。

宇宙船に搭載されたHAL9000が意思を持ち人間に対して反乱を企てる、というシーンを憶えておられる方もいると思う。
50年前に封切られたこの映画「2001年宇宙の旅」は、人間とAIの未来を考えるうえで示唆的だ。

最近の朝日新聞に、「AIと創作の未来」という記事が出ていた。
今では、AIが何十万句という俳句を学習し、それをもとに自分(AIのこと)でも創作できる、というのだ。

「初恋の焚火の跡を通りけり」
「唇のぬくもりそめし桜かな」

という風に、1秒間に40句を生成するという。

みなさんはこの句について、どのような感想を持たれるだろう?

「AIもなかなかやるじゃない」
「それらしいけれど、なんだか血が通っていないな」

わたしたちは、AIが言語をただのデータとして処理していることを知っている。
だから、直感的に「血が通っていない」と感じてしまうのだ。

人間ももちろん言語をデータとして処理している。
しかし、人間と言語の関係はそれだけにとどまらない。

人間は言語を各個人の五感や人生経験と深く結びつけて理解している。
言語を肉体化している、と言ってもいい。

その証拠に、AIやコンピュータは言語がなくても(それに代わる情報さえあれば)存在できるけれども、人間は言語がなくては生きていけない。

AIが創作した俳句についても、そのままでは単なる情報処理結果である。
しかし、それを人間が「読む」ことによって、生命が吹き込まれることもある。

やはり人間とことばの関係は特別なのだ。
いくらAIの性能が進んでも、この点は代替できない。

と今は人間はそう思っている。
しかし、AIはどこまで発達するかわからない。
AIには「血の通った創作行為」ができない、とは断言できない。

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