2017年2月19日 (日)

色即是空

前にも言ったことだけれど、もしこの世に色がなければどれほど味気ないことだろう。
ひからびた、生気のない、色あせた世界…。

そんな世界にわたしたちは生きたくない。
初期の電気工学者や技術者たちがカラーテレビ開発にかけた情熱がよくわかる。

この世の「もの」には色がある。
というより、色は光の中に隠れている。

「もの」は光によって「いのち」を与えられ、光の中の「いろ」を顕現させるのだ。

そう考えれば、この世に存在する生き生きとした「もの」を「いろ」ということばで言い換えてもそれほど見当外れではない。
こうして、「いろ」は「いのち」ある「もの」をはるかに超えて、この世の「かたち」ある「もの」すべてをあらわすことになる。

般若心経にある色即是空の「色」は、そんな意味だろう。

だから、伊藤比呂美さんは

「色不異空」について、「『ある』は『ない』にことならない」
「色即是空」について、「『ある』と思っているものは じつは『ない』のである」

と訳している。

こうして「色」はセクシュアルな意味をはるかに超えて、この世の存在物そのものまで意味するようになった。

般若心経は、その「色」が「空」なのだという。
「ある」は「ない」のだという。

うーむ。どうしたものだろう?
かくなる上は「空」とは何かを明らかにすべきだけれど、私のように修行の足りない身の上では到底理解できない気がする。

かりに「空」をふつうの意味での「ない」と解釈すればどうなるか?

「色」はセクシュアルな意味も帯びているので、あまり「色」にこだわるとわたしのような凡人は心にさざ波が立つ。
つまり煩悩が生じる。

そこで、般若心経の教えに従って「色」=「空」と観じることによって「色」へのこだわりが消え、苦しみも迷いもなくなる、ということだろうか?

しかし、これは安易にすぎる解釈のような気がする。
悟りの境地はそう簡単には得られないはずだ。

「色」について、「空」についてまだまだ勉強が足りないことを痛感する。

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2017年2月12日 (日)

色と性

少し前に、英語の「ピンク」と日本語の「桃色」はその成り立ちが同じだというお話をした。
どちらも事物に名を借りて、その色の名前としている。

ところで英和辞書によれば、英語の「ピンク」は赤ん坊の肌を連想させ、健康、若さ、活力、純真、新鮮さを象徴するのだそうだ。

日本語では、新芽のように若々しい児、という意味で乳児のことを「みどりご」と呼んだ。
英語の「ピンク」の象徴的意味を日本語は「みどり」に託したのだ。

日本語で青二才というところを英語では「このグリーン野郎!」とののしるなど、色の名前が持つ象徴的意味の諸言語間のずれはまことに興味深い。

そういえば、日本語で「ピンク映画」というところを(最近あまり言わないな)、英語では「ブルーフィルム」という。
日本語話者は、赤ん坊の肌よりも若い女性の肌を連想したのかもしれない。

そういえば、高橋真梨子の「桃色吐息」なんてなまめかしい歌もあったなあ。
「桃色」という色名の象徴的使用が、その雰囲気をかもしだす。

こうして、「ピンク、桃色」にセクシュアルな象徴的意味が込められたのだけれど、日本語では「いろ」という語そのものにセクシュアルな意味がある。
英語の「カラー」に、そんな意味はない。

日本語では「色男」とか「色気」とか「好色」と言ったりする。

漢字の「色」には、その成り立ちからセクシュアルな意味が備わっている。
というよりも、セクシュアルな意味が原義といってもいい。

しかし、漢字伝来が契機になって和語の「いろ」がセクシュアルな意味を帯びるようになったのではあるまい。
漢字の「色」にかかわりなく、和語の「いろ」にはもともとセクシュアルな象徴的意味があったと考えるべきだろう。

ただ、漢字の「色」とちがって、和語の「いろ」がその原義としてセクシュアルな意味を含んでいたということではあるまい。
「いろ」の原義はあくまでも物理的な色彩にあったのだと思う。
あくまでも派生的にセクシュアルな意味を獲得したに違いない。

前回登場した「みず」はさておき、地球上のほとんどの「もの」は、物理的色彩という意味での「いろ」を有している。
その「いろ」を知覚することで、わたしたちは何を感知するだろうか?

そう、「いのち」である。
モノクロームの、色あせた世界にわたしたちは「いのち」を感じない。

世界のさまざまな「もの」は光と出会うことによって「いろ」を発する。
地球上のいのちの源泉であるお日さまの光によって、「もの」の「いのち」は輝きだす。

そして、「いのち」は容易に性と結びつく…。
きっとこのような次第で和語の「いろ」はセクシュアルな意味を獲得したのだ。

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2017年2月 5日 (日)

みずいろの謎

前回お話しした「恋はみずいろ」には、英語バージョンもある。
ヘザーという女性歌手が歌っていて、タイトルは「Love is blue」とフランス語版の直訳になっている。

しかし、歌詞の中身はかなり改変されているようだ。

色名が五つも出てくる。
青、灰色はいいとして、赤、緑、黒が追加されている。

赤は泣きはらした目。
緑は嫉妬する気持ち。
黒はひとりさびしい長い夜。

赤、黒はわかるが、なぜ緑が嫉妬する気持ちをあらわすのだろう?
そう思って、英和辞書を引いてみるとたしかに「嫉妬深さを暗示する」とある。

日本語では「あお」が担っている未熟の意味が英語では「green」が担っていることと思い合わせれば、「green」には結構ネガティブな意味が含まれているようだ。

日本語と英語では、青と緑の役割が反転しているようでおもしろい。

ところで「みずいろ」について考えてみたい。

どの言語でもそうだけれど、基本色名以外は事物の名を借りて色名とするのが普通だ。
日本語なら、だいだい色、鼠色、茜色、藍色などのように。

「みずいろ」もその方式だけれど、だれでも知っているように水は無色透明だ。
色がないのに、どうして色名として通用しているのだろう?

辞書で「みずいろ」を引くと、「うすい青色」と出ている。
そして、わたしたちもその意味で用いている。
「みずいろ」と聞くと「うすい青色」を思い浮かべる。

しかし、コップの中の水をいくら凝視してもそんな色は見えない。

「みず」と「うすい青色」は、どんなメカニズムで結びついたのだろう?
やはり水面に映る空の青からの連想だろうか?

しかし海面や湖面、池の水面をよくよく見るととても「うすい青色」には見えない。
青黒かったり、暗緑色だったりする。

同じ事物の名を借りて色名とするのでも、この点でだいだい色や鼠色などとは根本的に異なる。
どうして、事実とかけ離れた「みずいろ」が堂々とまかり通るのだろう?

「みず」の「いろ」は「みずいろ」じゃないのに、「うすい青色」を指してわたしたちは「みずいろ」という。
どこかで巧妙なすりかえが行われている。

あるいは、物理的な色彩とはかかわりなく、わたしたちの意識の中で何らかのメカニズムによって「みず」と「うすい青色」の観念連合が成立したのかもしれない。

だとすれば、そのメカニズムが謎である。

言語におけるこの手の謎やすりかえは、色名以外の分野でも行われている。
以前このことにふれた記憶があるのだけれど、ずいぶん昔のことなので内容は忘れてしまった。

(「恋はみずいろ」の英訳詩については、penさんのブログを参考にさせていただきました)

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2017年1月29日 (日)

恋はみずいろ

覚えてる?
むかし、ヴィッキーの「恋はみずいろ」って曲、はやったよね?

何、それ? そんなの知らないーだって?

そうか、無理もない。
この歌がはやったのは1960年代の後半だったんだ。

月日は流れ、わたしは残る…。
ふと、そんな詩句を思い浮かべてしまう。

私もずいぶん歳をとってしまった。

それはさておき、「恋はみずいろ」というタイトルは、もちろん邦訳である。
フランス語の原題を直訳するなら、「恋は青」または「恋はあおいろ」だ。

訳者は、これはまずい、と思ったにちがいない。

青は寒色で鎮静色だし、日本語の「あお」には英語の「ブルー」に影響されて憂鬱の意味さえ含まれている。
恋に舞い上がる若者の心が憂鬱なはずがない。

だから、青の明度をうんと上げて「みずいろ」と訳したのだ。

英語の「blue」には憂鬱の意味があるけれど、フランス語の「bleu」にはその意味はないのだろうか?

青い、青い、恋は青いわ
空のように

と、ヴィッキーは機嫌よく歌っている。

恋に舞い上がる乙女心は、晴れ上がった青空にまで昇るよう。
その気持ちは日本語話者にもわからぬではない。

しかし、やはり「青」という色名を前面に打ち出すのはためらわれる。

灰色、灰色、恋は灰色
私の心は泣くわ
あなたが行ってしまうと

とも彼女は歌っている。

ここで灰色という色名を持ち出すのは、日本語話者と共通した感覚だ。

こうして分析してみると、恋に燃える若者の心持は洋の東西で共通しているようだ。
やはりネックは「あお」という色名なのだ。

訳者は、「みずいろ」と意訳することによってこの場を切り抜けた。

では、日本語話者なら恋する若者の気持ちを何色にたとえるだろう?

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めし はじめなり

と藤村は歌っている。

やはり恋には暖色系の心温まる色がふさわしい。
ならば、「恋はくれない」あるいは「恋はももいろ」と訳すべきだろうか?

さすがにそこまで原題から離れるわけにもいかないかな?

(「恋はみずいろ}の訳詩についてはpenさんのブログを参考にさせていただきました)

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2017年1月22日 (日)

色と四神思想

野原にひとり、南中するお日さまに向かって私はまっすぐ立っている。
左右に両手を水平に伸ばして…。

こんなイメージがこれまで何度か登場した。
というのは、わたしたちが住んでいるこの世界を秩序づけるための出発点になるイメージだと思うからだ。

こんな人体構造が、世界を4つに分割する。
「わたし」を原点にして前、後、右、左。

3次元的には、頭のほうが上、足のほうが下。
という垂直軸も加えなければいけない。
宗教的にはこの垂直軸のほうがむしろ重要かもしれないけれど、この先話がややこしくなるのでとりあえず前後左右の水平面に限定して話を進めよう。

野原に直立している私と方位を対応させるなら、前が南、後が北、左が東、右が西にあたる。

南には朱雀がいる。
西には白虎がいる。
北には玄武がいる。
東には青龍がいる。

4方位が、それぞれ動物に、そして色に対応している。
その色が見事に日本語の4つの基本色名になっている。

四神思想は中国からもたらされたものだ。

だとすれば、基本4色の成立もその影響だろうか?
それとも、いずれも和語だから在来の基本4色が渡来した四神思想とたまたま合致したのだろうか?

いずれにせよ、わたしたちの人体構造の特徴が空間を4分割することにつながった。
もしわたしたちの身体が3角形や5角形をしていたら、世界を3分割、5分割する発想があってもおかしくない。

そして、人体構造に由来する4という数字は、空間だけでなく時間の分割にも適用される。
つまり、季節変化を有する中緯度地方の国々の言語ではどこでも季節を春夏秋冬の4つに分割している。
1年を3つや5つの季節に分割している言語はない。

時間や空間を4つに分割するというのは、やはり人体構造に即して自然なのだと思う。

南、夏、赤。
西、秋、白。
北、冬、黒。
東、春、青。

という連想は、北半球に住むわたしたちにとって違和感がない。

そう考えれば、基本色名が4つではなく3つや5つ、6つの言語にはどこか無理があるのかもしれない。

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2017年1月15日 (日)

色の名前(その5)

とにもかくにも、だれが何と言おうと日本語の基本色名は、白、黒、赤、青の4種類に決まっている。

少ない。
白と黒を色彩でないとすれば、なんと赤と青の2種類だけになる。
色の世界の単純化は、ここに極まる。

ともあれ、白と黒も色名であるとしてこの基本色名グループをさらにグループ分けしてみたい。

語構成に着目すれば、どの語も2音節からなっている。

「しろ」と「くろ」は第2音節が「ろ」で共通している。
また、「あか」と「あお」は第1音節が「あ」で共通している。

つまり、「白」と「黒」、「赤」と「青」がサブグループとしてまとまっている。
「白」と「黒」は色相がない、「赤」と「青」は色相がある、という点でも共通している。

一方、「しろ」は「しろし」、「しるし」につながっている。
つまり、はっきりしている、きわだっている、という意味を含んでいる。

そして「あか」は「あかる」、「あかり」につながっている。
つまり、明るくなり物事がはっきり見えてくる、という意味を含んでいる。

この点では、「白」と「赤」がひとつのサブグループを形成している。

反対に「くろ」は「くらし」につながっている。
つまり、明かりが不足してものごとがはっきり見えない様子を指している。

また「あお」は「あはし」につながっている。
つまり、ものごとが淡い、漠然としているという意味を含んでいる。

要するに、「黒」や「青」は光が不足していてものごとがよく見えずぼんやりしていることをあらわす点で、これまたひとつのサブグループを形成している。

感覚、色覚が未発達な古代人は、視界が「はっきりしている」か「ぼんやりしている」かをまず分類に基準にしたのかもしれない。

こうして二元的かつ対立的なサブグループが出来上がった。
しかし、白と黒、白と赤のように同じグループの中でも反対色の関係が存在する。

四色相関関係図はなかなか複雑だ。
しかし、関係が複雑だからこそ世界を構成する4つの基本的要素といえるのかもしれない。

四色相関関係図をじっと眺めていると、複雑な関係だけれど4色が緊密に結びついていることが分かる。
この関係の中に、たとえば緑や黄色、茶色などほかの色が紛れ込んできても居場所がないように感じる。

緑や黄色や茶色は基本4色に肉薄しているとはいえ、しょせん音感的にも資格がない。
「みどり」は3音節だし、「き」や「ちゃ」は1音節だ。
基本4色の2音節と同じグループには入れない。

何といっても基本4色は別格なのだ。

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2017年1月 8日 (日)

色の名前(その4)

固有の色名、基本の色名という点で、白、黒、赤、青はひとつの重要なグループを形成している。
前回もお話ししたように、緑や黄や茶とは別格の色名である。

このことは少し前の形容詞語尾「い」の接着テストでも明らかだった。

実は、この点をもう少し補強する事実もある。

日本語では、事象の核心をあらわす接頭辞に「ま」がある。

たとえば、「真夏」、「真冬」という。
(なぜ、「真春」や「真秋」がないかについては、かなり以前にお話しした)

「真四角」、「まんまる」という。
中心のさらに中心のことを「まんまんなか」という。
(最近では、「どまんなか」という俗語のほうが優勢だが…)

この「ま」が基本4色名には問題なくつく。

しかし、「まみどり」はない。
「まむらさき」とも言えない。

「真っ黄色」は可能だけれど、「色」を付加する必要がある。
「真っ茶色」はどうだろう?
言えなくもないような気がするけれど、いずれにせよ「色」を付加しなければならない。

「まっしろ」、「まっくろ」、「まっか」、「まっさお」は別格である。
さすがに基本4色名だけのことはある。

日本語の場合、このような操作で4つの基本色名をきれいに抽出することができるのだが、他の言語圏では基本色名をどのように識別しているのだろう?
また、基本色名が何種類かという点も気になる。

バーリン&ケイによれば世界の普遍的な色彩語のカテゴリーは11種類ということだから、基本色名が5種類、6種類の言語もあるに違いない。

前にもお話ししたように、日本列島は豊かな色彩に恵まれている。
にもかかわらず、基本の色名が4種類とは少ないのではないか?

たとえば、基本色に近接している緑や黄色は基本色に加えてもおかしくない。

身の回りの自然を観察してみよう。

野にも山にも緑があふれている。
黄色の花や蝶も珍しくない。

少なくとも自然物に関するかぎり、基本色の青よりも緑や黄色のほうがよほど身近なのだ。
青い葉っぱなどないし、青い花ができれば大ニュースになる。

それなのに「い」や「ま」のテストをすれば、緑や黄色は基本色に入れてもらえない。
青と緑は隣り合っているし相互に浸透してもいるけれど、わたしたちの目には見えない深い溝があるのかもしれない。

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2016年12月31日 (土)

色の名前(その3)

バーリン&ケイの「基本の色彩語」という本には、色彩語の系統発生というおもしろい説が紹介されている。
世界の諸言語には普遍的な11種の色彩カテゴリーがあり、その発生の順序も決まっている、というのだ。

論証がわりに雑だから、この説が正しいかどうかはわからない。
しかし、話としてはおもしろい。

まず最初に白と黒。
つぎに赤。
その次は、緑または黄。
続いて青。
そして茶。
その後は、紫、ピンク、オレンジ、灰が順不同で続くのだそうだ。

この順序にはそれなりに深い意味があるような気がする。

白と黒が最初に発生する意味。
白と黒は喪の色である。
人間は喪の儀礼をおこなうことによって人間になった。
白と黒が最初に発生する意味がわかるような気がする。

そして、喪の儀礼を行ったうえで生命が意味づけられる。
生命の象徴である赤が次に来るのもよくわかる。

さて、次が問題だ。

白、黒、赤までは同じだが、日本語の場合は緑や黄ではなく青が先行する。
そして、基本4色名をなす。

緑ではなく、青が優先するのだ。
日本語では、青のほうが緑よりも日本語話者の心深くに浸透している。
このことは少し前にちょっと触れた。

緑は葉っぱや草など自然界の具体物と直結している。
しかし、青はそうじゃない。
空や海の色といっても、この手でつかめる具体物じゃない。
その分、抽象性が高いのだ。
だから、人の心深く浸透していける。

この点、青よりも緑を優先する言語圏ではどのように受け止められているのだろう?

緑と青はスペクトル上で隣り合っていて、その関係は微妙だ。
おそらく日本語以外の言語でも、青と緑の関係は複雑な問題を抱えていると思う。
青と緑は多くの言語でオーバーラップしている。
日本語の場合、それが交通信号の「青信号」問題という形であらわれる。

青のあとに、緑または黄、そして茶が続くという順序は、前々回の個別色名の検討を思い出してもうなづける。
これらの色は、基本4色に近い位置にある。
言語によっては、青と緑が入れ替わる。

さらにそのあとの紫、ピンク、オレンジ、灰は、まあどうでもいい。
白、黒、赤、青、緑、黄、茶あたりまでが、人間にとって意味の深い色名なのだと思う。

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2016年12月24日 (土)

色の名前(その2)

いま、この世には光があふれ色彩に満ちている。

思い起こせば天地創造のみぎり、神さまはまず「光あれ!」と第一声を発して下さった。
ありがたいことである。

光があるからわたしたちは明るい気分になれるし、さまざまな色があるから心も豊かになる。
光があっても色がなければ、この世は何とあじけないことだろう!

さいわい私は白黒テレビの時代を知っている。
色を失った世界はあんな世界なのだ。

赤から紫まで、可視光線のスペクトルは連続量である。
だから論理的に言って、色彩の種類は無限である。

たとえば青と緑は、スペクトル上で隣り合っている。
青に近い緑から、緑に近い青まで切れ目がない。

そのわりに、世界のどの言語でも固有の色彩をあらわす語は少ない。
前回もお話ししたように、日本語では白、黒、赤、青の4つだ。
他の言語でもよく知らないけれど大同小異だと思う。

あとは事物の名前を借りてその色の名前としたり、複合的説明的な語を作って表現している。

たとえば英語でも、「ピンク」というのはなでしこが原義だそうだ。
その花の色から「ピンク」という色の名ができた。
日本語の「桃色」と同じだ。

「パープル」という語も、原義は甲殻類からとれる紫の染料だそうだ。
日本語の「むらさき色」と同じだ。

無数に存在する色彩からどの色を基本色として取り出し、固有の色名を与えるのだろう?
そこには人類の感覚の秘密、その感覚を表現する言語の秘密がひそんでいるような気がする。

だから、心理学者や言語学者のみなさんにはもうひと頑張りしていただきたい。

さて、白と黒は色の名前かどうか?
ここまで意識的にあいまいにしたままやってきた。

定義的にはすでにお話ししたように、白や黒は可視光線のスペクトル上には存在しない。
つまり色彩ではない。

しかし、赤や青や緑や黄色などの背後には白と黒が無言で控えている。
色彩の明度を決定するために、なくてはならない役割を果たしている。

色じゃないからといって、仲間はずれにするわけにはいかない。
だから、世界の諸言語では白と黒に特別の地位を与えている。

そのことは次回にお話ししよう。

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2016年12月18日 (日)

色の名前

方舟さんもおっしゃっているように、日本語には固有の色の名前は4つしかない。

白、黒、赤、青である。

あとはみな、事物の名前を借りて色の名としている。

たとえば、だいだい色はだいだいの色。
藍色は、阿波の名産、藍の発する色。
紫色は、紫草からとれる染料の色。

といった具合に。

茶色はお茶の色だろうか?
広辞苑には、「黒味を帯びた赤黄色」とある。
固有の色名の助けを借りて定義されている。

黄色はどうだろう?
辞書を調べても「き=黄」という具体的な事物が特定されるわけではない。
固有の色名といってもいいような気がするが、微妙だ。

そういえば、緑も微妙である。
「みどり」という語も、特定の具体物との結びつきは認められない。
固有の色名に限りなく近い。

たしかに黄や緑は、基本4色に限りなく近いけれども越えられない壁もある。

試みに形容詞語尾「い」をつけることができるかどうか、テストしてみればいい。

基本4色には文句なく「い」をつけることができる。
しかし、黄や緑にはつけることができない。

「赤い靴」とは言えても「黄い鞄」とは言えないのだ。
「青いズボン」とは言えても「緑いシャツ」とは言えない。

どうしても言いたければ、「黄色い鞄」と「色」を補って言わなければならない。
緑にいたっては、「緑色いシャツ」とも言えない。
「緑色のシャツ」あるいは「緑のシャツ」と「い」抜きで言わなければならない。

その点、茶色は「茶色いたんす」とも「茶のたんす」とも言える。
緑と黄の中間に位置しているのかもしれない。

上に検討した個別の色の名のほかは、みな基本4色との距離は遠い。

日本列島は四季の変化に恵まれている。
当然、色彩もきわめて豊かだ。

だから色を表現する語も、ずいぶん発達している。
繊細な使い分けもできる。
茜色、萌黄色、薄墨色、利休鼠…。

しかし多くは説明的な複合語で、具体的な事物を離れると意味を失う色名である。
なぜ普遍的な色の名がこれほど限られているのか、考えてみれば不思議である。

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