2009年7月 5日 (日)

文字のワンダーランド

前回の終りに、ローマ字と科学はひょっとすると双生児かもしれない、というお話をした。

本当に双生児かどうかは昔のことだからよくわからないが、仲がいいことはたしかである。

私が今この瞬間も大きな恩恵をこうむっているIT技術もローマ字の上に築かれている。
漢字でプログラムを書いたり、メールアドレスを作るのはむずかしい。

だからといって、ローマ字と科学を生んだ西の分析精神だけで何もかも片付くわけではない。

科学技術の進歩がわたしたちを幸せにする、という素朴な信仰がとうに失われたという事実がその何よりの証拠だ。

うまく言えないけれど、科学技術の手に余る部分、科学技術の負の部分をカバーするのが東の総合精神なのだと思う。

人間、分析一辺倒でも総合オンリーでもだめなのだ。
要するに、ローマ字も漢字も仲良くやろうよ、ということである。

そう思って町中に出れば、お店の看板やさまざまな案内表示のなかで漢字とかなとローマ字が仲良く暮らしている光景が目に入る。

パリならほぼローマ字だけ。
カイロやカルカッタでもアラビア文字やヒンディ文字のほかはローマ字が多少目につく程度である。
ソウルでもほとんどハングルばかりである。
漢字はめったに見かけないしローマ字も日本よりよほど少ない。

町中の文字景観だけではない。
コミックを開けば、漢字、ローマ字、ひらがな、カタカナが絵と一緒になって楽しい饗宴を繰り広げている。

まさに文字のワンダーランドですね。
本当に、日本列島ほど多様な文字たちが仲良くたわむれている空間はないと思う。

メソポタミアから東西に分かれて旅立った文字が、数千年の時を経て極東の日本列島で再会を果たしたのだ。

文字たちのその再会の喜びを、街を歩いてもコミックを開いても感じとることができる。

漢字に代表される東の総合精神とローマ字に代表される西の分析精神の出会い…。
大げさにいえば、日本では東西の文明が融合しているのですね。

そうそう、ワンダーランドで思い出したのだけれど、村上春樹さんの新作の表題は「1Q84」。
その2分冊は、「上、下」や「巻之一、二」ではなく、「book1」、「book2」と名づけられている。

日本語で書かれた作品なのに、表題には日本語の文字はひとつもない。
そして、日本の読者はそのことをまったく奇異に感じていない。

日本が文字のワンダーランドであることは、これだけでも明らかですよね。

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2009年6月28日 (日)

帝国と文字

どういう勘定の仕方をするのか分からないが、現在世界で行われている言語は6千種類くらいあるという。

もっともこれは話しことばのことである。

書きことば、すなわち文字の種類ははるかに少ない。

ローマ字とその一族。
テーバナーガリー文字とその一族。
アラビア文字。
そして、漢字。

(日本語のかなは漢字から派生した文字だけれども、性質がまったく異なるので漢字のファミリーに加えるわけにはいかない。)

この4種類で世界の文字人口の95%以上をカバーするはずである。

文字の単一起源論者によれば、この4種類の主要な文字ももとをただせば起源は同じ、ということになる。

出生地はエジプトまたはメソポタミア、いずれにせよそのあたり。

このブログのタイトルは「日本語への旅」だけれど、文字だって旅をする。
駱駝の背に揺られて、長い長いはるかな旅をする。

故郷を旅立って西へ向かった文字は、地中海の波濤を越えてローマ帝国に至った。
故郷を旅立って東へ向かった文字は、砂漠や草原を越えて漢帝国に至った。

西と東の主要な文字が、いずれも帝国の名を冠しているのは偶然だろうか?

帝国が文字をはぐくんだのか、文字が帝国を生んだのか?
いずれにせよ、文字と帝国は無関係ではないような気がする。

少なくとも、中国の場合さまざまな言語を話す10億を超える人々を束ねているのは、ひとえに漢字の力だと思う。
アメリカが理念帝国だとすれば、中国は文字帝国なのである。

前回は総合に向かう東の精神が漢字を生み、分析に向かう西の精神がローマ字を生んだ、なんてずいぶん図式的なお話をしてしまった。

ローマ帝国の人々が分析に秀でていたかどうか私にはわからないが、戦争や土木事業が得意だったというから、科学的な思考には長じていたのだろう。
それがのちに近代科学や素粒子論に発展した。

帝国において、ローマ字と科学は双生児のように育っていったのだ。

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2009年6月21日 (日)

ピュアな文字

前回は久しぶりに表音文字、表意文字というなつかしいことばが登場した。

そして、表音文字、表意文字という誤解を招きやすい表現に代えて、「素粒子文字」や「分子文字」、そして「原子文字」というのはどうかと提案したのだけれど、もちろんこんな提案が採用されるあてはない。

でも、ついでだからもう少しこの点について考えてみたい。

nやgやhというローマ字は、それ一つづつを取り出してみると、音も意味もあらわさない。
nには、ただ「エヌ」という文字の名前がついているだけである。

それらの文字を集めただしく配列して、はじめてneighbourという語が成立する。
そして、音と意味を獲得する。
といっても、neighbourという文字列とその発音がうまく結び付くかというと微妙である。

だから、ローマ字を表音文字というのは幾重にもまちがいなのだ。
音素文字のほうがまだましだし、素粒子文字というほうがもっといい(と思う)。

その点、「隣」という漢字は、単独で音と意味、つまり語をあらわしている。
だから表意文字にとどまらず表語文字であるし、素粒子との対比でいえば分子文字なのである。

「隣」という文字は複雑な表象だから、小学生はうまく書けない(それとも、小学校には配当されていない?)。
それで、国語の先生は頭を悩ます。

その点、ローマ字は簡単だから幼稚園の子でもすぐおぼえる。
しかし、ローマ字の場合は文字をおぼえただけでは何の役にも立たない。

文字を綴って語に仕立てなければならない。
そして、綴りと発音の間には必ずずれがあるから、子供たちはよくまちがう。
英語圏の国語(?)の先生はそれで頭を悩ます。

neighbourまたはneighborという文字列で発音をあらわそうというのは何か判じものめいている。
本邦において「紫陽花」を「あじさい」と読ませるようなものだ。

その点、日本語のかなは究極の表音文字といっていい。
音だけをあらわし、それ以外のなにものもあらわさない。

日本語のようなモーラ言語にはうってつけだ。
「あ・じ・さ・い」と発音をかなに写せばそのまま語になるのだから。

もっとも、西洋の音声中心主義者なら「ajisai」のほうがさらに分析力が高いと主張するかもしれないが…。

漢字は字形がわからなくては書くことができない。
ローマ字も綴りがわからなければ書くことができない。

その点、かなは50個あまりの簡単な文字をおぼえさえすれば、森羅万象を書きあらわすことができる。

漢字の「隣」が思い出せなければ「となり」と書けばすむ。

英語の場合、neigubourの綴りが思い出せなければ「ねいばあ」と書いて切り抜ける、という奥の手を使うわけにはいかないのだ。

ローマ字はシンプルで分析力抜群だけれど、そう考えればお気の毒でもある。

ついでながら、かなが究極の表音文字ならアラビア数字はさしずめ究極の表意文字だ。
1、2、3、4…はそれぞれの言語圏でまったく異なった発音になるけれども、意味はすべて同じである。
意味だけをあらわし、それ以外のなにものもあらわさない。

文字であれ何であれ、ピュアなものは美しい。

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2009年6月14日 (日)

素粒子文字と分子文字

今はどうか知らないが、近代の初めごろ西洋には進化思想があった。

生物であれ人間社会であれ、原始的な段階から始って時代とともにより高度な段階に進化していくものだという考え方である。

文字に対してもその進化思想が適用された。

それによれば、文字は原始的な象形文字から始り、しだいに具体的な表象を離れ、やがて音節文字を経て最終的に音素文字に進化した、ということになる。

前回お話ししたように西洋には音声中心主義の考え方が根強いから、この進化観も文字と音声との対応関係に発想の基礎を置いている。

音声に対する分析力が高いほど高度な文字なのである。

この考え方にしたがえば、音声に背を向け象形性と意味性にこだわった漢字は進化の遅れた原始的な文字である。

一方、音声を少数の要素に分析しそれを再構成することで再現できるローマ字は最も進化した高度な文字である。

そして、日本語のかなのような音節文字は進化の中間段階にある。
分析の度合いがまだ不十分なのだ。

音声中心主義からすれば、こんな文字進化の思想が生まれるのも無理はない。

要するに西と東の考え方の違いである。

たとえば「讒言」と「slander」とを並べて見比べてみる。

あらわす意味は大体同じだとしても、この文字表記にたどり着くまでの道程の違いをしみじみ思わずにはいられない。

総合に向かう精神と分析に向かう精神…。

あるいはホロン的思考と要素主義的思考…。

東洋医学と西洋医学の違いみたいなものである。

そういえば、素粒子論も西洋の分析主義から生まれた。

いまローマ字は表音文字あるいは音素文字と呼ばれているけれども、究極の要素という点では「素粒子文字」といってもいい。

素粒子は単独では何もあらわさない。
複数の素粒子が結合して原子になり、さらに原子同士が結合してはじめて物質としての性質が生まれる。

ローマ字も文字単独では何もあらわさない。
文字が集まり綴られることによって、はじめて意味と音声をあらわすことができるのだ。

その点、漢字は単独で意味と音声、つまり語をあらわすことができる。
漢字は表意文字あるいは表語文字と呼ばれているけれども、上のアナロジーに従えば「分子文字」と呼んでいい。

日本語のかなは単独で音をあらわすことはできるけれども、意味をあらわすことはできない。
水分子におけるHやOみたいなものである。
その点では、さしずめ「原子文字」といったところだろうか?

表音文字や表意文字といった誤解を招きやすい表現より、こちらのほうがよほど文字の性質を言い当てているような気がするのだけれど、採用してもらえそうもありませんね。

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2009年6月 7日 (日)

文字の進化

漢字は言わずと知れた象形文字である。
ローマ字も、もとをただせばエジプト、メソポタミアあたりの象形文字にたどりつく。

どちらも象形文字から出発したのに、その後の進化の方向は正反対だった。

ローマ字は象形文字から出発し、その後徹底して意味をそぎ落とし、デザインを単純化し、数を減らす方向に進化した。
現在、ローマ字は26字(大文字、小文字の別は無視)。

一方、漢字は同じように象形文字から出発しながら、逆にますます意味を詰め込む方向に進化した。
それに伴ってデザインは複雑化し、数も増える一方になった。
今、漢字はいくらあるのか、本当のところは誰にもわからない。それくらい多い。

同じ人間のすることなのに、西と東ではこうまで正反対になるのかと、不思議な感じがする。

「罵詈讒謗」、「魑魅魍魎」、「顰蹙」、「躊躇」、「蠱惑」なんて文字を見ると、漢字の進化の凄みを感じる。

しかし半面、何もそこまでしなくても、という気持ちもある。
第一、書けないし読めないじゃないか!

文字にここまで意味を詰めこむ執念にはパラノイア的なものを感じるのだけれど、何が人々をそこまで駆り立てたのだろうか。

「世界」を理解したい、その理解を目に見える形で表現したい、その表現を新たに創造したい…という人々の欲望が文字に反映されるとこうなるのだろうか?

生物の進化には、袋小路というものがあるのだそうだ。
つまり、その先がない進化のどん詰まりですね。
上のような文字をみると、漢字の進化も行き着くところまで来た、という感じがする。

しかし、ローマ字も別の意味で進化の袋小路に入っているのだ。
IやLやOという文字は、もうこれ以上単純化しようがない。

文字からここまで意味をそぎ落とし、単純化するという情熱には、これまたただならぬものを感じるのだけれど、何が人々をそこまで駆り立てたのだろうか。

「世界」を分析したい、分析した少数の要素で「世界」を再構成したい、それによって「世界」を理解したい…という人々の欲望が文字に反映されるとこうなるのだろうか?

少し前の記事で、西洋では音声中心主義が根強い、というお話をした。

今はどうか知らないが、文字が使われ始めたころ、西洋の人々は音声を分析しそれを可視的に再構成することに文字の存在意義を見出していたのかもしれない。

逆に漢字は音声に背を向け、ひたすら意味を志向しているようなところがある。

漢字であれローマ字であれ、文字の進化には人々の意志と深い欲望がかかわっているのだ。

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2009年5月31日 (日)

漢字と日本語表記(その6)

漢字は重い文字である。

たしかに、「罵詈讒謗」や「顰蹙」や「躊躇」や「魑魅魍魎」という漢字を目の当たりにすると、その重量感に圧倒される。

韓国朝鮮やベトナムの人々はその文化的重圧に耐えきれず、ついに漢字に別れを告げた。

日本語だってその重圧とは無縁でなかった。

おぼえておられるだろうか?

ずっと以前、「漢字は日本語がまとってしまった鎧かもしれない」とつぶやいたことがありましたよね。
日本語にとって漢字は頑丈で頼りになるけれど、一方でその重さにあえいでいる。

そんなお話をしたとき、私もまた漢字の重さをひしひしと感じていたのだ。

それでも、中国大陸と海を隔てたその距離が漢字の重圧をいくぶんか緩和した。
そこが、陸続きの韓国朝鮮やベトナムとは違うところだ。

そして、前回お話した「ゆとり」が生まれた。
漢字に対するわたしたちの心理的な「ゆとり」感である。

かなを発明したことも、その「ゆとり」を倍加した。
いざとなれば、日本語は全部かなで表記できるのだ。

わたしたちは難しい漢字が思い出せないとき、かなで書くことがよくある。
たしかに「ばりざんぼう」では子供っぽい印象は否めないが、それさえ我慢すればりっぱに通用するのだ。

そんな逃げ道というか、最後の手段がちゃんと用意されている。
この安心感は大きい。

韓国朝鮮やベトナムでは、そのおかれた状況からして漢字に対してはオールオアナッシングの選択しかなかった。
表記における漢字支配を全面的に受け入れるか、しからずば全廃か?

幸か不幸か、日本語はそんな究極の選択を迫られることはなかった。

漢字は重くてうっとうしい鎧だが、その視覚的なインパクトと意味提示力も捨てがたい。
いいとこ取りをしたいーそんな虫のいい発想が許された。

だから、かなを発明しつつも漢字を温存した。

韓国朝鮮やベトナムの人々からみれば、日本語のそんな特異な表記システムは漢字とかなの「なれあい」に映るかもしれない。

なにしろ漢字とかなが混在し、しかもその使い分けに関してきちんとしたルールがあるわけではなく、書き手の「好み」にまかされているのだから。

まことに恣意的というか、適当というか、でたらめというか、いい加減というか…。

この状況はたしかに「なれあい」という表現がふさわしい。
表記に関して、わたしたちは長い間この「なれあい」で事をおさめてきたのだ。

もっとも、「なれあい」だから悪い、とは一概に言えない。
その「なれあい」の中には、えも言われぬ妙味がある。

だから、話はますますややこしくなる。

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2009年5月24日 (日)

漢字と日本語表記(その5)

大陸と海を隔てて不即不離…。

その絶妙な距離が、漢字から離れた韓国・朝鮮やベトナムと漢字を温存した日本との分かれ道になった。

というのが、前回お話しした私の思いつきだった。

中国大陸とつかず離れず、というその物理的な距離は、そのまま漢字とわたしたちとの心理的な距離感にもなった。

ずっと以前、日本語話者と漢字とはアンビバレントな関係にあるというお話をした。

頼りたいけれど離れたい。
離れたいけれど頼りたい。

そんな感じですね。

もちろん世の中には漢字原理主義者もいるし、漢字廃止論者もいる。
でも、今ではどちらも少数だ。

私も含めて大多数の日本語話者は、漢字に対する微妙というか絶妙というか、そんな距離感を持ち続けている。

そして、漢字に対するそんな間合いは、ある種の精神的な「ゆとり」を生む。
漢字と「たわむれる」ことを可能にする。

わたしたちはお寿司を食べながら、湯呑に書かれた「鰆」や「鰍」の当てっこをして楽しむ。
本屋さんに行けば、漢字パズルやクロスワードの本が山のようにある。
例の漢検も、上のレベルは実用とは縁のないクイズみたいなものだ。

もちろんこうした「おあそび」が可能になったのは、日本語における漢字が本家よりもはるかに面妖な存在になったからである。

中国や台湾には漢検なんてないんじゃないですか?

いずれにせよ、中国と陸続きの韓国・朝鮮やベトナムの人々は漢字をおもちゃにしてたわむれる心の「ゆとり」は持つことができなかった。

間に「海」というワンクッションがないものだから、よかれあしかれ中国文明の影響をダイレクトに受けざるを得ない。

漢字はただでさえインパクトの強烈な文字である。
かれらが感じていた漢字の「重圧」というものは、わたしたちには想像もつかないものだったにちがいない。

「たわむれ」や「おあそび」が入り込む余地などないのである。

漢字を廃するということは、それまで漢字の上に築いてきた文化や伝統との断絶を意味する。
しかし、漢字の「重圧」、漢字のくびきから脱するためには、そんな大きな代償を払ってでも漢字と別れを告げるほかなかった。

島国のわたしたちが体験したことのない「文字のきびしさ」がそこにはあった。

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2009年5月17日 (日)

漢字と日本語表記(その4)

日本はどうしてベトナムや韓国・朝鮮のように漢字を排除しなかったのか?

前々回そんな問題を提起しておきながら、途中から漢字と日本語表記の行く末、といった方面に脱線してしまった。

もとにもどしますね。

中国語(といって、ひとくくりにしてしまうにはあまりに多様な言語圏だが)の世界で生まれた漢字は、朝鮮半島、インドシナ半島、そして日本列島に伝来した。

韓国・朝鮮語もベトナム語も中国語とは別のことばだから、漢字という個性の強すぎる文字による表記はどこかに無理が生じる。

その無理を解決するためにハングルが発明され、チュノムが発明された。
日本でも、かなが発明された。

ここまでは同じである

しかし、その後韓国・朝鮮ではほぼハングルに一本化され、ベトナムではチュノムを経てローマ字化した。

しかし、日本語は漢字を捨てなかった。

ここが分かれ道だ。
では、何が道を分けた要因だったのか?

私のようなしろうとにこんな問題が分かるはずもない。
しかし、しろうとの特権は思いつきでものを言ってもいい、ということだ。

朝鮮半島とインドシナ半島に共通しているのは、中国と陸続き、という点にある。
これに対して、日本列島は中国と海を隔てている。

韓国・朝鮮もベトナムも、よかれあしかれ中国と地理的に密着しすぎていた。

その点、日本は遠からず近からず。
つかず離れず。

まことに絶妙な距離ですね。

韓国・朝鮮もベトナムも、よかれあしかれ中国文明の影響を強く受けすぎた。
したがってそのくびきから逃れようとすれば、改革もドラスチックにならざるを得ない。
つまり、漢字の全廃である。

その点、日本はその絶妙な距離によって、中国文明の影響をほどほどに受けた。
したがって、改革の必要があってもその内容は生ぬるいもの、中途半端なものにならざるを得ない。

かくして日本語はかなを発明しながらも漢字を温存した、というのが私の思いつきだけれど、いかがでしょう?

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2009年5月10日 (日)

漢字と日本語表記(その3)

日本語における漢字は読むこともできず書くこともできない文字である。

というのは、私の持論みたいなものである。

前回は読むことのできない漢字の例として、「小畑優」さんに再度登場してもらった。
「一夜かぎりの…」という文例もあげた。

また、書くことのできない漢字の一例として「顰蹙」をあげた。
書くことのできない漢字の例は無数にあって例示に困らない。

たとえば、「ばりざんぼう」なんてことばがある。
漢字表記では四字熟語である。

「かれは民衆のばりざんぼうを浴びた」というような使い方をする。

「ばりざんぼう」を漢字ですらすら書ける人はまずいないと思う。

では、どうするか?

文章を書いていて、ふと「ばりざんぼう」という音声イメージが記憶の中からよみがえってくる。
文章の流れがちょうどこの語がふさわしいくだりにさしかかったのだ。
それに、こうした難しいことばを使って読み手にえらく思われたい、という気持ちもある。

そこで、キーボードから「b,a,r,i,z,a,n,b,o,u」と打ち込む。
すると、「罵詈讒謗」という目もくらむような難しい漢字になんなく変換される。

しかし、めったに使わないことばなので意味がうろおぼえである。
知ったかぶりをして使って、かえって恥をかくのも困る。

そこで、辞書で「罵詈讒謗」の意味を確認することになる。
辞書といっても最近は電子辞書だから、やはりローマ字で発音を入力する。

すると、「悪口をあびせ、口ぎたなく相手をののしること。」と出ている。
やれやれ、間違いじゃなかった。

このように、今日ではローマ字を経由してやっと漢字にたどりつく。

漢字の本場中国ではこんなときどうするのだろう?

いくら本場でも、「罵詈讒謗」をすらすら書ける人は少ないにちがいない。
やはり、中国語音をピンインで入力するのだろうか?

仮名という便利なものがないのだから、「罵詈讒謗」の図像イメージが再現されないかぎりそうするしかあるまい。

ローマ字を導きの星として、わたしたちは漢字へのはるかな旅に出立する…。

何となく詩的なイメージだが、漢字としては面白くないにちがいない。

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2009年5月 3日 (日)

漢字と日本語表記(その2)

日本語の中の漢字は読むこともできず書くこともできない文字である。
そんな文字が主役を演じているのが、日本語表記の特徴である。
そして、今日ではIT技術だけがかろうじてこのことを可能にしている。

前回はざっとそんなお話だった。

こんなことをいえば漢字好きの人たちからは顰蹙を買うだろうし、そうでなくともご納得いただける方は少数かもしれない。

そこで、少々補足しますね。

まず、日本語における漢字は読めない文字だ、という点について。

たとえば、ここに「小畑 優」さんの名刺があるとする。
あなたなら、この人物の名前は何と読むだろう?

「おばたゆう」? それとも「こばたまさる」? はたまた「こばたけまさし」…?
困ったことに、その正解はご本人にしかわからない。

もうひとつ例をあげよう。

たとえば「一夜かぎりの出会い」という文があるとする。
別にそれほど特殊な文例じゃない。

この「一夜」の部分はどう読めば、つまりどう音声化すればいいだろう?

「いちや」なのか「ひとよ」なのか?
もしこれが文学作品なら、読み方によって印象も効果もちがってくるはずだ。

それとも書き手はこの点について「どっちでもいいよ」と読み手にげたを預けたのか?

「小畑 優」さんや「一夜限りの…」の漢字をどう読むか?
これは、ふりがなという世界で日本語表記にしかない裏技を使わないかぎり永遠にわからない。

ローマ字圏ならこんな混乱はないだろうし、中国語でも漢字の発音は一義的に定まるから迷いはないはずだ。
ここに、日本語における漢字の面妖なところがある。
昔のようにいちいち音読しないので、問題が表面化しないだけなのだ。

同じことはずいぶん昔に「永遠の謎」のタイトルでお話ししたことがあった。
でも、既読の方は少ないと思うのであえて繰り返します。

次に、日本語における漢字は書けない文字だ、という点について。
この点については、みなさんご自身の体験に基づいてご賛同いただけることと思う。

たとえば、私は冒頭で「顰蹙を買う」ということばを使った。
しかし、「顰蹙」なんて難しい漢語が手書きで書ける人は少ない。

実態は「H,I,N,S,H,U,K,U」とキーボードに入力して変換キーを押しているにすぎない。
すると、魔法のように「顰蹙」という漢語が立ちあらわれる。

IT技術だけが今日の日本語表記を可能にしている、と言ったのはこういう意味である。

魔法のような技術は麻薬としても作用する。
ワープロソフトというIT技術への依存を深めた結果、今やわたしたちはローマ字を介してしか漢字にアクセスできなくなった。

そして、深刻なのはこうした漢字リテラシーの脆弱化、空洞化がIT技術に覆われて表面化しない、多くの人々の意識に上らない、ということだ。

たとえば「有難う御座居ます」なんて文面を見かけると、書き手が表記を完全にワープロまかせにしていることがよく分かる。

わたしたちが表記における主体性を喪失したとき、その書きことばの未来は暗い。

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