2019年5月19日 (日)

「切る」と「抜く」(その3)

前回は、ふたたび言語の起源の周辺に迫る決意表明をした。
しかし前回と同じ方法をとっては芸がない。

そもそも言語の起源に挑戦する!なんて大風呂敷をひろげるから収拾がつかなくなるのだ。

そこで今回は、もう少しつつましくアプロ―チしたい。
つまり、言語一般の起源なんていわず、対象を絞り込みたい。

さしあたりわたしたちになじみ深い日本語に絞り込みたい。
しかも日本語全般でなく、動詞に絞り込みたい。
さらに動詞全般でなく、「切る」と「抜く」というたったふたつの動詞に絞り込みたい。

絞りに絞って、ここまで絞ったらさすがにみなさんにもお許しいただけると思う。

さて、「切る」と「抜く」だけれど…。

「走り切る」と「走り抜く」のように、事実としては同じことを表現していても、微妙にニュアンスの異なる場合がある。

ゴールにたどり着いたとき、マラソン走者は無意識のうちにどちらかのことばを口にする。
そのときのかれの心のありようがどちらかの表現を選択させる。
そしてまたその心のありようが無意識のうちに聞き手にも伝わるのだ。

話し手と聞き手の間で行われる無意識の心のコミュニケーション。
そこでは、語のもっとも原初的、核心的な意味が働いていると思う。

だから、これらの動詞のもっとも原初的、核心的な意味用法に迫りたい。

これらの動詞が成立した時、人びとは「き・る」あるいは「ぬ・く」という音節の組み合わせでどのような行為を指そうとしたのか、どのような状況で発話しようとしたのかを知りたい。

途方もない企てだけれど、少しずつ考えを積み重ねてゆくしかあるまい。

むかしは万事素朴だったから、「切る」も「抜く」も物理的、具体的動作を指す語として誕生した。
これは論証抜きの直感的判断だけれど、みなさんにも同意いただける思う。

木を切って火を起こす。
獲物の肉を切って家族に分け与える。
あるいはイモの根っこを抜いて栄養を取る。

そうやって、人は命をつなぐ。

この段階での「切る」と「抜く」の違いと言えば、「切る」はなにがしか事物の破壊を伴うのに対して、「抜く」は事物の原型を温存したままわがものにする、という違いがあると思う。

事物の破壊には程度の差はあれ強い意志の力が必要だ。
そして、その意志が達成された時、人は何らかの爽快感を感じる。

一方、「抜く」のように破壊を伴わない行為は、心穏やかにできる。
爽快感はない代わりに、しみじみとした充実感がある。

強い意志力、決断力か心の穏やさか?
爽快感かしみじみとした充実感か?

「切る」と「抜く」のもっとも原初的、核心的な差異はここにあると思う。

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2019年5月12日 (日)

「切る」と「抜く」(その2)

一時期、ヨーロッパの言語学界では言語の起源を研究テーマとすることはタブーだったとのことだ。
その証拠に19世紀のパリ言語学会は会則で「言語起源論と普遍言語の創造に関する論文は受けつけない」という規定を定めている。

では、日本ではどうだったか?

日本もまたヨーロッパと同様に言語起源論なんて学問は行われなかった。
ただ、日本ではパリ言語学会のような会則は必要がなかった。

なぜなら、日本人にはもともとそんなテーマを研究しようという人など存在しなかったのだから。
このブログで繰り返しお話ししているように、日本人は徹底した言語実用主義者であって、言語そのものを学問の対象にしようという発想などなかったのだ。

ヨーロッパの人々はそうじゃなかった。
旧約聖書にも新約聖書にも、言語に対する異常な関心が読み取れる。
またバベルの塔の事件を引き起こしたやましさもあって、普遍言語を追求する情熱もはんぱではなかった。

しかし近代の学問としては認められなかった。

言語起源論なんてしょせん実証性のない思弁的なものでしかない。
普遍言語の試みにしても何だかいかがわしい。

当時の風潮を考えれば、パリ言語学会があんな禁制を出したのもやむを得ない。

とはいえ、言語の起源というテーマは魅力を失わない。
わたしたちを誘惑してやまない。

わたしたちにとってもっとも身近なもの、最も大事なもでありながらその素性がわからないなんて!

学者にとっては言語起源論の研究は、破滅への道かもしれない。
しかし、幸いわたしたちは素人である。

素人だから言語起源論に踏み込んでらちもない妄想をふくらませてもかまわない。
ひとさまにご迷惑をかけることもない。
このへんが素人の強みである。

げんにこのブログでも12年前の秋に起源の周辺をさまよったとこがあった。
ことばは歌から始まったんじゃないか、とか人類で最初にことばを発した人の心境に迫ってみたりもした。

むろん成果があったわけではないが、愚考することが楽しかったのを覚えている。
なので干支がひとまわりした今、もう一度踏み込んでみようと思うのだ。

ちょっと前置きが長くなりすぎたので、愚考の中身はまた次回。

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2019年5月 6日 (月)

「切る」と「抜く」

試みに前回の例文を、ネットの自動翻訳サービスで英語に翻訳してみた。

「切る」と「抜く」とでは違う動詞を用いて結構うまく訳しているのに感心した。
あらためてAIのすごさを思い知らされた。

前回、「走り切る」と「走り抜く」の違いを「やったあ!」と「やれやれ…」という感情の違いとして説明したのだけれど、AIは結構そのへんをわかっているようだ。

AIは計算は得意だけれど、人間の感情は理解できない。
なんて言われて安心していたけれど、もはやうかうかしていられない。

「走り切る」と「走り抜く」の違いは微妙だけれど、「手を切る」と「手を抜く」はまるで意味が違う。

前回、動詞「抜く」には、悪知恵的な雰囲気が漂っているというお話をしたけれど、「手を抜く」にもそんな雰囲気が感じられておもしろい。

一方、「手を切る」のほうはその人の強い意志が感じられる。
暴力的、破壊的な行為をするには強い意志が欠かせない。

「手を切る」と同義の表現として「関係を断つ」というのもある。
「切る」よりもさらに暴力度。破壊度は高いような感じがする。

両者合わせて「切断」という迫力ある漢語も存在する。

和語「たつ」には、ほかに「絶つ」という漢字を用いることもある。
「消息を絶つ」というようなときに用いる。

両者合わせて「断絶」なんて迫力ある漢語も存在する。
「お家断絶」などどいう。

もともと漢語は和語に比べて強いインパクトがあるけれど、これらの語に接するとひとしおそのことを痛感する。
とにかく「切」にせよ「断」にしろ「絶」にしろ、これらの強い意志を示す文字が出現すると、すべてがそこで終わる、あとにはなにもない、という感じがする。

そこへゆくと、「抜」は脱力系である。
力の存在を感じない。

そうして相手を油断させておいていつの間にか自分の都合のいいようにことを運んでしまうのが「抜」の作戦なのだ。
「あいつは抜けたやつだ」なんて気を「抜いて」いると、足元をすくわれる。
「抜けたやつ」に限って悪知恵が働くのだ。

わたしたちも、ことばの世界を旅する時はゆめゆめ気を抜くことのないようにしたい。
この世界には、思わぬ落とし穴も多いのだから。

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2019年4月29日 (月)

ニュアンスと表現

「ニュアンス」という外来語を辞書で引くと、「意味・感情などの微細な差異。陰影、濃淡」などと解説されている。

42.195キロを走り切った(A)。
42.195キロを走り抜いた(B)。

どちらもよく見かける表現だ。
どちらの言い方にしろ、聞き手はランナーがマラソンコースを完走したことを了解する。

事実の情報伝達としてはどちらでもいい。
しかしその事実が喚起する感情が微細に異なる。
これがニュアンスの違いというものだ。

二つの表現にどのような感情の差異があるだろう?
あなたならどう感じるだろう?

これがランナーみずかからの発話だとすれば、ゴールに到着した時、彼の心に湧き上がる感情が無意識的にどちらかの表現を取らせるのだと思う。

その感情が「やったあ!」という達成感ならAの表現をとる。
その感情が「やれやれ…」という解放感ならBの表現をとる。

私はそう思うのだが、果たして同意していただけるだろうか?
この分類の判断は多分に直感的なものだから、きちんと理路を説明せよと言われても困る。

違いは「切る」と「抜く」という動詞なのだが…。

「切る」という行為は原義として暴力的、破壊的でそのぶん劇的だ。
これに対して「抜く」という行為は平和的、融和的でそのぶん知的、悪知恵的だ。

「資料を切り取る」というのは乱暴な行為だが、「資料をわからないように抜き取る」というのは穏やかで悪知恵的な行為なのだ。

つまりAの表現には、長く続いた苦しい試練をみずからの力で終わらせたという高揚感があらわれている。
これに対し、Bの表現には長く続いた苦しい試練も大過なく終わりにたどり着いたという安ど感があらわれている。

「ニュアンス」というのは便利なことばだけれど、いざわかりやすく説明せよと言われるとずいぶん苦労する。
まして、日本語学習者がニュアンスの違いを適切に言語表現できるようになるまでには道ははるかに遠い。

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2019年4月21日 (日)

「後」の謎

少し前に「『前』の謎」というテーマで3回記事をアップしたことがあった。
そういうなら、「後」にだって謎はある。

「年」、「月」、「週」、「日」という時間単位に「先」、「来」、「明」、「昨」などの語を付加することで、わたしたちはきめこまかな時間表現を可能にしている。
同時に、以前指摘したようにそのつき方は混乱をきわめている。

前後についても同じことが言える。
「前年」、「前日」という。

ただ、「前月」、「前週」とはあまり言わない。
この場合は、「先月」、「先週」という語がよく使われる。

「後年」、「後日」という。
しかし、「後月」、「後週」とは言えない。
この場合は、「翌月」、「翌週」と言ったりする。
状況によっては「来月」、「来週」という。

「前年」と「後年」を比べてみる。
語形は同じだけれども、意味は対称ではない。
「前年」は基準年の1年前と特定できるけれども、「後年」は特定不能である。

「前日」と「後日」を比べてみる。
語形は同じだけれども、意味は対ではない。
「前日」は基準日の1日前と特定できるけれども、「後日」は特定不能である。

次に「後年」と「後日」を比べてみる。
「後」の意味作用は同じだけれど、読みが違う。
「後年」は「こうねん」だけれど、「後日」は「ごじつ」である。
漢音と呉音のちがいがある。

語構成や意味は同じなのになぜ読みが違うのだろう?
慣用のひとことで済ませていいのだろうか?

これに対して「前年」と「前日」における「前」は、どちらも「ぜん」である。

少し前、「前」と「後」と「先」を同じファミリーとして扱った。
そこで、読みについても比べてみたい。

「前」は音は「ぜん」、訓は「まえ」。
「先」は音は「せん」、訓は「さき」。
それだけ。

これに対して「後」は音は「ご」と「こう」。
訓に至っては「あと」、「うしろ」、「のち」、「おくれ」がある。

このうち、「あと」と「おくれ」は時間的にも空間的にも用いられる。
しかし、「うしろ」は空間的、「のち」は時間的関係をあらわす場合しか使えない。

つまり和語では、「前」や「先」よりも「後」のほうがきめ細かく言い表すことができるのだ。
一体なぜだろう?

こうして謎はますます深まってゆく(いく?)。

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2019年4月15日 (月)

「い」と「ゆ」(その3)

少し気になって、過去のブログリストを調べ直してみた。
すると、2015年6月になんと「『ゆ』と『い』」というタイトルで2本記事をアップしていたことが判明した。

何分古いことなのですっかり忘れていた。
読み返してみると似たようなことが書いてある。
芭蕉の句が登場しているのも同じだ。

ことばの世界を放浪する私の旅は知らないうちに同じところに戻ってきていたのだ。
そう思うと感慨が深い。

しかし、反面まったく進歩がないとも言える。
私は一体何をしていたのだろう?

「ゆく」と「いく」では、「いく」のほうが口語的、つまり現代的。
「いう」と「ゆう」では、「ゆう」のほうが口語的、つまり現代的。
それから、「よい」と「いい」、「ええ」では「よい」のほうがやや文語的、つまり正統的。

あのときはそんなふうに整理して、この現象を私の持論である「発話エネルギー節約術」理論で統一的に解釈できないかと試みたのけれど、うまくゆかなかった(いかなかった?)。
そして、知らぬ顔をして次の話題に移っていった…。

あれから4年がたって、私はあらためてあ行音とや行音に向き合っている。
や行音の頭子音である「y」は半母音と言われるくらいだから、もともとあ行音とは縁が深い。

「ゆめ」も古語では「いめ」と言ったのだ。

「ロシア料理」だって「ロシヤ料理」という人もいる。
「ダイアルを回す」だって「ダイヤルを回す」という人もいる。

わたしたちはあ行音とや行音の間で揺れ動いている。

文字表記ではこのあたりどうなっているのだろう?

五十音図のや行は「い」と「え」にあたる部分が空欄になっている。
や行には「やゆよ」しかないのだ。

では、「ゐ」や「ゑ」はどうか?
この2字はわ行に配列されている。
今は区別がつかなくなっているけれども、昔は「い」と「ゐ」、「え」と「ゑ」は別の音だったのだ。
そういえば、「ニッカウヰスキー」なんて表記も存在する。

こうして観察してみると、音相互の関係もなかなか霊妙で一筋縄ではいかない。
興味が尽きない。

 

 

 

 

 

 

 

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2019年2月24日 (日)

「い」と「ゆ」(その2)

前回は芭蕉の句が登場したけれど、よく似た句がまだある。

行く春を近江の人と惜しみける

私はかねがねこの「行く春」を「逝く春」と表記したほうがいいのではないかと思っている。
そのほうが惜春の思いがひとしお深まるような気がするのだが…。

しかし、「逝く」にすると翌年の春が来ないことになってしまう。
これは困る。

とすれば、「往く」はどうか?
辞書には「往」には戻る予定で行く意味合いがあるという。
これなら安心だ。

しかし再来が約束されているようでは惜春の情が切実でない。

どうもうまくいかんなあ。
芭蕉がこの句をひねったとき、表記上の悩みはなかったのだろうか?

ともあれ以上はいずれも漢字使いの問題。
読みはいずれも「ゆく」がふさわしい。
「いく春を」では話にならぬ。

では、なぜ「い」ではなく「ゆ」なのか?
一般に「ゆ」の音は聞く人に柔和で優美な印象を与える。
だから、女の子の名前には好んで用いられる。
「ゆかり」、「まゆ」、「ゆみこ」、「ゆうこ」など。

その音楽的効果が古典や文学作品では喜ばれたのかもしれない。
古代は「い」よりも「ゆ」が優勢だったというから、今よりも柔和な音世界が楽しめた?

ともあれ春夏秋冬という四季は1年を4等分するものだけれど、ことば遣いの上では平等ではない。
このことは少し前にもお話しした。

「春よ来い」
忍従を強いられる冬が長い分、春の到来を待ち望む気持ちはひとしお強い。

やっと訪れた春に対して「早春」という特別なことばがある。
「早夏」とも「早秋」とも「早冬」とも言わない。

桜の季節、野に山に人が繰り出す。
「春たけなわ」という。
「夏たけなわ」とも、「冬たけなわ」とも言わない。
「秋たけなわ」とは言うけれども。

「行く春や」
やがてこの佳い季節が去っていこうとする。
それを押しとどめようもない。

この切ない気持ちを表すために「惜春」という語彙がある。
「惜夏」とも「惜秋」とも「「惜冬」とも言わない。

やはり春は特別扱いされている。

わたしたち生き物にとってはそれが当然なのかもしれない。

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2019年2月17日 (日)

「い」と「ゆ」

大晦日、テレビを見ていると「ゆくとしくるとし」という音声が流れてくる。
ふつうの文字表記をするなら「行く年来る年」だろう。

「行く」という動詞は、「ゆく」とも発音するし「いく」とも発音する。
問題はその使い分けだが…。

かくかくしかじかの場合は「ゆ」と読めという法律があるわけではない。
発音する各人のいわば好みや生理にまかされているのだ。

ということは人それぞれ使い分けの基準を持っているということになるのだが…。
一般的傾向というものはあるのだろうか?

現代の日常会話では「い」が圧倒的に優位に立っている。

人びとは「明日、東京にいく予定です。」という。
「明日、東京にゆく予定です。」という人はきわめて少ない。

しかしテレビでは「ゆく年」と言っている。
わたしたちも「いく年」では何だか感じが出ないと思う。

「行く川の流れは絶えずして」も「ゆく川の…」と読みたい。
「いく川の…」では、格調が低いように感じられる。

「行春や鳥啼き魚の目は泪」という芭蕉の句はこのブログに何回も登場している。
これも「いく春や…」と読んでは台無しになりそう。

辞書には「いく」も「ゆく」も載っている。
しかしその扱いは辞書によって異なっている。

ある辞書では「ゆく」を引くと「いく」を見よ、となっていて語釈はもっぱら「いく」の項で行われている。
かと思うと、別の辞書では「いく」の項には「『ゆく』の口語形」とだけ記されている。

広辞苑で「いく」の項を見ると、「古代から『ゆく』と併存していたが、当時は『ゆく』が優勢。」とある。
そして、語釈は「ゆく」の項で行われている。

これから考えるに古代は「ゆく」のほうが正統的であり、つまり由緒正しい言いかただったようだ。
そして、「いく」はその口語形、やや崩れた形、現代形なのだ。

ことばの「今」に焦点を当てるか、ことばの歴史を重視するか。
辞書による扱いの違いは、その姿勢の差があらわれているのだろう。

わたしたちも格調の高い表現をしたいとき、文学的な表現をしたいときは「ゆ」を用いる傾向がある。
そして日常会話では、「い」ですませる。

「ゆ」は正統性では「い」に勝るけれども、「ゆ」にも泣きどころはある。
音便形では使えないのだ。
「昨日、東京へいった」とは言えるけれども「昨日、東京へゆった」とは言えない。

文法的整合性の点では「い」に軍配が上がりそうだ。

私は別にどちらかをえこひいきするつもりはない。
みなさんそれぞれの価値観に従って使い分けていただければいい(よい?)。

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2019年2月10日 (日)

時間表現の混乱

繰り返しお話ししてきたことだけれど、わたしたちの存在は時間と空間によって定義されている。

このうち、空間は視覚その他わたしたちに備わる諸感覚で認識可能だからなじみ深い。
これに対して時間は目にも見えないし手で触ることもできない。
「概念」として認識するしかない。

だからこの難物を表現し、操作するためにはひと工夫がいる。
その工夫の一つが、空間表現のための語を時間表現に転用することだ。

たとえば、時間の経過を「流れ」あるいは「長さ」という可視的表象に転換してみる。
そして長いものに物差しを当てるような感じで時間の経過を塊として認識する。
年や月や週や日という塊が認識可能になる。

そしてこれらの時間専用の語彙に空間用語をくっつけることで時間の「前後関係」(空間関係の転用!)を表現する。

このことは、これまで「前」や「後」や「先」などをくっつけることで、るるご説明してきた。
その過程でいくつかのおかしな点、変な点、不審な点、不合理な点などが明るみに出てきた。

そのことについてもう少しお話ししてみたい。

大晦日の「行く年来る年」については少し前にお話しした。

だから「来る年」は「来年」と表現する。
しかし、「行く年」は「行年」とは言わない。

「行年」は別に「何のなにがし、行年98。なむあみだぶつ」というときのために使われる。
「行く年」は「去年」あるいはあらたまった席なら「昨年」という。

「行く年来る年」という簡単な例なのに、もう表現上の対称性が崩れている。

年や月や週や日という時間単位にさまざまな限定詞が付く場合、対称性が崩れたり論理性が欠けていたりすることが多い。
なぜだろう?

たとえば、来年のことは「明年」とも言う。
この場合の「明」は「次の」という意味だ。

だから、「明日」という語もある。
しかし、「明週」、「明月」とはなぜか言わない。
日、年という時間単位を週、月に差し替えただけなのに、なぜかうまくいかなくなる。

「昨年」ということばがあるから、「昨日」ということばもある。
「昨」は同じ働きをあしている。

しかし、「昨週」とはあまり言わないし「昨月」とはほとんど言わない。
「先週」、「先月」と言う。

かと思うと、「先週」、「先月」は確定表現だけれど、「先日」、「先年」は不確定表現なのだ。
「週」、「月」を「日」、「年」に差し替えただけなのに。

同じことは「前後」でも起こる。
「前後」は対概念だけれど、「前日」は確定表現、「後年」は不確定表現になる。

このような現象はまだまだあるのだけれど、煩瑣になるのでこれくらいにしておこう。
要は、論理的でないのだ。
でたらめなのだ。

言語現象に数学的論理性や整合性を求めてもせんないことと知りつつ、何か釈然としない。
すべて慣用と割り切っていいのだろうか?

このような混乱の原因を考えるに、空間表現を無理やり時間表現に転用したその無理がたたっているのではないかと私は思っているのだが、みなさんはどうだろう?

 

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2019年2月 2日 (土)

春とことば

明日は節分、あさってはいよいよ立春。

春を待ち望む気持ちは、他の季節に比べてひとしお切実である。
四季は1年を4等分しているけれど、ことば遣いの上では決して平等ではない。
春は特別扱いを受けている…。

というのが前回の結論らしきものだった。
北半球の中緯度地方以北の諸言語でも、春に対する言語上の特別扱いは観察されるだろうか?
もしそのような現象が見つかれば、私の仮説は補強されるのだが。

中欧・北欧諸語、アイヌ語、ギリヤーク語、イヌイット語など北方少数民族の言語も調べてみたいのだが、あいにくその能力がない。

仕方ないので、とりあえずもう少し日本語だけで補強を試みてみよう。

季節のはじめのころを指して、「初」の文字がつくことが多い。
初夏、初秋、初冬など。

しかし、春だけは早春という。
もちろん、「初春」ということばもあるが、これはふつうお正月のころを指す。
やはり春だけが異なった扱いなのだ。

早春のころ、わたしたちは友への手紙を「春まだ浅い今日このごろ…」と書きはじめる。
(ライン世代では、こんな習慣は絶滅したかもしれないが…)

「夏まだ浅い」とも「秋まだ浅い」とも「冬まだ浅い」とも書かない。
やはり春だけを特別扱いしている。

それから、春がきざしはじめた時期をとらえて「春先」という特別なことばがある。
夏先とも秋先とも冬先とも言わない。
わたしたちは春に対してだけ特にきめこまかくその進行のプロセスを言い分けている。

考えてみれば、北半球中緯度以北に住む生命体にとって、春は再生の季節である。
生命が祝福される季節なのだ。

そこに住む人びとにとって、春を特別扱いしたくなる心持は普遍的なのもと思う。
それが、ことば遣いにもあらわれないはずがないと思うのだが。
どなたか、この点について中欧・北欧諸語、アイヌ語、ギリヤーク語、イヌイット語などの言語を調べていただけないだろうか?

もちろん、私のいいかげんな仮説に対しては反証はいくつもある。たとえば…。

季節のおわりのころを指して、「晩」の文字がつくことが多い。
晩春、晩夏、晩秋、晩冬など。
この点では、四季平等である。

しかし晩春は「暮春」とも言う。
暮夏とも暮冬とも言わない。
だからここでも春は特別扱い…。

と言いたいところだけれど、実は「暮秋」ということばが辞書には出ている。
あまり使わないことばだが、ワープロの変換候補にもちゃんとある。
春だけ特別扱いとは言えないのだ。

上で「浅い」という形容詞は春にだけ似合うといったけれれど、それならば「深い」という形容詞は同じように秋にだけ似合う。
晩秋のころ、わたしたちは友への手紙を「日ましに秋が深まってまいりましたが…」と書きはじめる。
決して春だけが特別というわけじゃない。

こんな話をある日本語サークルでしたところ、だれかが「冬だって特別扱いされているじゃないか」と言い出した。
たとえば、「冬支度」ということばがあるが、「春支度」とも「夏支度」とも「秋支度」とも言わない。

なるほど、たしかにその通りだ。

してみると私の冒頭の仮説は、多数の反証によってみごとに覆されたことになるのだろうか?
あなたはどう思われますか?

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