2017年6月18日 (日)

「な」と「なまえ」(その2)

「な」ひとつで用が足りるのに、なぜわざわざ「なまえ」という語が派生したのだろう?
素朴と言えばずいぶん素朴な疑問だけれど、いったん気になりだすとどうも落ち着かない。

辞書で比較すると「な」はくわしく語義が説明されているけれど、「なまえ」には通り一遍の説明しかない。
古語辞典を繙いても「な」は詳しく載っているけれども、「なまえ」はそもそも項目がない。
だから、「なまえ」は「な」から派生した語であることは間違いない。

「なまえ」は「な」に「まえ」を接続して生じた語である。

しかし、いつごろどのような必要のもとに成立した語なのか?
また、後続する「まえ」にはどのような働きがあるのか?
男前とか江戸前における「まえ」と機能を同じくするのか?

手元にある辞書はこの疑問に答えてくれない。
どなたかご教示いただけないだろうか?

前回もお話ししたように、「な」と「なまえ」は意味はほぼ同じだけれど、そのニュアンスは微妙に異なる。

初対面の人に向かって、「お名前は?」と訊くことはあっても「お名は?」とは言いにくい。
なんだか尻切れトンボみたいで落ち着かない。

逆に、「無礼者、名を名乗れ!」と恫喝することはできても、「無礼者、名前を名乗れ!」では間延びしてしまって迫力がない。

昔も今も映画のタイトルは「君の名は」が好ましい。
「君の名前は」では散文的過ぎてよくない。

「名は体を表す」とか「名もない人びと」など「な」を用いた表現はずいぶん多いけれど、「なまえ」を用いる表現はあまりない。
せいぜい「名前負け」くらいだろうか?

意味が同じなら「名前は体を表す」とか「名前もない人びと」と言ってもいい理屈だけれど、そんな表現はまず使わない。

やはり違いは音節数にあるのかもしれない。
使い勝手としては、1音節の「な」のほうがまさっているのだろう。

伝統と由緒のある1音節の「な」。
3音節とやや煩わしいけれど、正確性の点で勝る新参者の「なまえ」。

比較論としては、こんなところに落ち着くのだろう。

ところで、英語では「な」も「なまえ」も「name」の1語ですませている。
「な」と同じく1音節である。

日本語におけるような歴史や事情はなかったのだろうか?
「な」と「なまえ」を区別している語がほかにもあるのだろうか?

これまたみなさんのご教示をたまわりたい。

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2017年6月11日 (日)

「な」と「なまえ」

3週続けて糸とことばの共通性についてお話しした。

けれども、その根拠としたのは漢字における共通性だった。
つまり、糸、紐、絆、繋ぐ、結ぶ、紡ぐ、織る、編む、綴る、繙くなどことばにかかわる文字にはみんな「糸」が含まれている、という事実から出発したのだった。

しかしこれは、漢字文化に支配された発想だったかもしれないといま反省している。

漢字から自由になった視点で考えてみればどうか?
いと、ひも、きずな、つなぐ、むすぶ、つむぐ、おる、あむ、つづる、ひもとくなどの和語に何か共通性が見いだされるだろうか。
そして、そこにことばとの何らかのかかわりが発見できるだろうか?

うーむ。
そのように突っ込まれるとつらい。

日本語の音声上のレベルでは、糸とことばの共通性を見出すことは容易ではない。
英語なら、「text」と「textile」、「texture」との共通性は文字を離れても維持されるのだが…。

しかしたとえ証拠は見つからなくても、ことばが「いと」と同じように何かと何か、だれかとだれかを「つなぐ」ためにある、ということは日本語でも変わらないと思う。

そして、前々々回もお話ししたように「いと」があるだけではだめなのだ。
糸が何かと何か、だれかとだれかを繋ぎとめるためのよりどころがなくては。

前々々回はそれを水面に頭を出した杭にたとえた。
その実体は名前である。
だから、映画の主人公たちは「君の名は?」と呼び合ったのだ。

さて、日本語では「な」とも言い「なまえ」とも言う。

「名」と「名前」は、辞書で確かめてもほぼ同じ意味だ。
どうして同じ実体を指すのに二つの語彙が存在するのだろう?

一つで間に合うのに、二つもあるとは不経済で紛らわしいのではないか?
たしかに、多くの用例を思い浮かべてみると「な」は詩的、「なまえ」は散文的なニュアンスを感じることができる。
だから、映画のタイトルとしては「君の名前は。」よりも「君の名は。」のほうがふさわしいのかもしれない。

しかしこのことは個人的な感受性の問題で普遍妥当性があるとは主張できない。

「な」という一音節の語彙よりも、「なまえ」という三音節の語のほうがコミュニケーション上の正確性は高いかもしれない。
そのために「な」だけでなく「なまえ」も導入された、という客観的事実に基づいた説明のほうが説得力がありそうだ。

ともあれ、日本語話者は「な」と「なまえ」を微妙に使い分けている。

映画では「な」と「なまえ」を使い分けていたか?
使い分けていたとすれば、その基準は何か?

残念ながら、映画館で観ていたときはそのへんは見過ごして(聞き過ごして?)いた。

「君の名は。」は7月26日にブルーレイ&DVDが発売されるらしい。
さっそく買いに走らなければ。

 

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2017年6月 4日 (日)

糸とことば(その3)

あなたは子供のころ、糸電話で遊ばなかっただろうか?
はるか昔のことだからよく覚えていないけれど、たしかこんなのだったと思う。

細い糸の両端に紙の筒を結びつける。
結びつける方法は次のとおりである。

比較的丈夫な紙を円筒の直径に合わせて丸く切り取る。
その真ん中に針で糸を通し、抜けないように結び目を作る。

そしてその糸のついた丸い紙を円筒の一方に貼り付ける。
もう一方は口や耳を当てるところなので、何もしない。
糸のもう一方の端も同じようにする。

これで糸電話の出来上がり!

二人が糸をぴんと張って、一人が円筒に口をつけもう一人が耳をつける。
そして一人が何かをしゃべると、もう一人の耳にそのことばがやわらかく伝わるのだ。
糸が緩んでいると、うまく伝わらない。

コミュニケーションにおける糸とことばの役割が、みごとに象徴されている遊びだった。

前々回は、「君の名は。」を語って、多くの糸へんのことばが登場した。

まず糸。
それから、絆、結び、紐、紡ぐ、繋がり…。
そして、織る、編む。

前回はこれくらいを羅列して、それらがみなことばと関わりがあることをあらためて思い知った。
たとえば、セーターを編むだけじゃなく、文学全集も編むものなのだ。

そういえば、「ひもとく」という動詞もあった。
書物のページをめくることを「ひもとく」という。

漢字表記をするなら、「繙く」である。
やはり、糸へんなのだ。

もちろん、「紐解く」でもあるだろう。
巻物の形をしている書物を読むためには、結んでいる紐を解かなければ読むことができない。

読むだけでなく、書くほうにも糸へんの動詞がある。
「綴る」ということばがそれだ。

ほころびを綴るとも言うし、文章を綴るとも言う
この文字も糸へんでできている。

人は文を綴り、あるいはテキストを織り、それを書物にする。
そして、別の人がその書物を繙く…。

人のことばにかかわる所作の背後には必ずと言っていいほど、「糸」の影がある。

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2017年5月28日 (日)

糸とことば(その2)

前回は、「君の名は。」を語って多くの糸へんのことばが登場した。

糸はもちろんのこと、絆、結び、紐、紡ぐ、織る、そして繋がり…。

映画の中で、三葉と瀧くんは時空を超えて結び、繋がり、ほどけてはまたつながる。
時間もまた同じように、結んだり、繋がったり、ほどけたり、ねじれたりするもの、というのが瀧くんと入れ替わった三葉に背負われて語るおばあさんの時間論だ。

事実、三葉と瀧くんはずれた時間のまま入れ替わっている。
はじめはこのことがよく呑み込めなくて、めまいがした。

糸は何かと何か、だれかとだれかを結びつけるもの。
でも、それだけじゃない。

糸は織りあわせることによって布になり、衣服になる。
お母さんは毛糸を編んで暖かいセーターを作る。

織るや編むという行為も、糸からはじまるのだ。

編むものはセーターだけじゃない。
辞書や文学全集も編むという動詞を使う。
そういえば、本屋大賞を受けた三浦しをんさんの「舟を編む」という小説も辞書づくりの話だった。

英語ではまとまった文章を指して「text」という。
原義は「織られたもの」。
さまざまはことばを織りあわせて、テキストは出来上がる。

「texture」や「textile」と源は同じだ。

日本語でも、文のことを「あや」と読んだりする。
「あや」は綾である。
綾も糸へんでできている。

考えてみれば、糸もことばも人と人を結びつけるものという点では同じだ。
その感覚は、日本語話者でも英語話者でも変わらない。
糸とことばに共通性を認めるのは、人類にとって普遍的な感覚かもしれない。

名前は、水面に頭を出した杭のようなものだ。

その杭に糸を結びつけ、もう一つの杭にまた結びつける。
こうして、はじめて絆が成立する。
名前がなければ、絆は生まれない。

「君の名は…」という切実な呼び声は、糸を結びつける杭を、よりどころを探し求めているのだ。

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2017年5月21日 (日)

糸とことば

去年評判になった日本映画がふたつあった。
ふたつとも観た。

しかし、「シン・ゴジラ」はつまらなかった。
従前の怪獣映画とどこが違うのかよくわからなかった。
年のせいで感受性が鈍ってきたのかもしれない。

そこへゆくと、「君の名は。」はよかった。
よかったからはまった。
なんと4回も観てしまった。

映画館に4回も足を運ばせる魅力がこの映画にはあった。
私は映画評論家ではないから、その魅力の中身をうまく語ることができない。

ただひとつ、「糸」のことだけをお話ししたい。

この映画は、時空を超えて絆を求めあう切ない魂の物語である。
スマホの着信音がむなしく鳴り続ける冒頭のシーンはそのことを象徴している。

「絆」という字に「糸」が含まれているように、名前と名前を糸で結ぶことによってはじめて絆が生まれる。
だから、三葉と瀧くんはあんなにも名前を求めあうのだ。

「糸で結ぶ」?

そういえば、「結ぶ」という字の中にも糸が存在している。
何かと何かを結ぶために糸はある。

「結び」は「産土・産霊=むすび」でもある。
土地の産土神が共同体の人々を結びつけるのだ。
三葉と四葉のおばあさんがそう言っていた。

三葉と四葉のおばあさんは孫たちに組み紐を教えている。
紐もまた、映画の中では重要な役割を演じている。

「紐」という字の中にも糸が存在している。
紐は糸の発展形だろう。

そもそも三葉たちの生まれ育った町は、岐阜県糸守町という架空の町だった。
糸を原点として、この物語は紡がれている。

「紡ぐ」?

そう、紡ぐという文字の中にも糸が存在している。
人が綿や繭を紡ぐことによって、はじめて糸が生まれる。

そう思えば、物語そのものが糸なのかもしれない。

この映画では、ふすまが閉じられるとき、電車の扉が閉まるときの情景が何度も登場する。
不思議なことに、それが特徴的なローアングルで描かれている。
謎めいていてとても印象的だった。

閉まる、あるいは閉めるということは何かと何かを隔てる、つながりを断ち切るということだ。
つまり絆のアンチテーゼである。

このアンチテーゼを登場させることによって、製作者は「絆」というテーマを一層きわだたせようとしたのだろうか?

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2017年5月14日 (日)

和語と漢語(その7)

前回は、結果的にAKB48の歌を槍玉にあげてしまった格好になった。
気の毒なことをしてしまった。

よくよく観察してみると、AKBだけに問題があるわけじゃない。
AKBに限らず、最近の歌は概して漢語含有率が高いように思う。

前回は、比較を際立たせるために漢語含有率0%の「夏は来ぬ」を持ち出した。
しかし、この手法には問題があるのではないかと感じる人がいるかもしれない。

「夏は来ぬ」は季節の情景や情感を、花や鳥などの自然物に託して描写しているので、和語だけでもその目的は十分達成できる。
しかし、人の心のありようや抽象概念など目に見えないもの、手で触れることのできないものを表現しようとすると、どうしても漢語の力を借りなければならないのではないか、と。

このように反論する人は、その例証として島崎藤村の「椰子の実」(発表 明治33年)をあげるかもしれない。

この歌には次のような一節がある。

実をとりて 胸にあつれば
新なり 流離の憂
海の日の沈むを見れば
たぎり落つ 異郷の涙

「椰子の実」も歌詞全体を見れば、その漢語含有率は0%に近い。
しかし、「夏は来ぬ」と違って2語だけ漢語が含まれている。
そして、漢語特有の拗音も含まれている。

あなたは前回、漢語特有の拗音や長音の存在が聞く者に違和感を抱かせる、と言ったけれどもこの歌における漢語にもそんな違和感を感じますか?

うーむ、そう言われるとあまり違和感は感じないなあ。
「流離」や「異郷」という漢語が、歌詞全体から、歌全体から浮き上がっている、という感じはしない。

藤村も佐佐木信綱と同じく明治の人だから、日本語話者の情感を歌い上げるには漢語はあまりそぐわない、と感じていたと思う。

しかし、「椰子の実」のこの一節では適切な和語が見当たらない、むしろ漢語のほうが効果を高めるだろう。
そこまで計算していたのかもしれない。

日本の歌であっても、人の心のありようや抽象概念などを歌い上げるためには、やはり漢語の助けを借りなければならない。
決して、AKBが悪いわけじゃない。

悪いのは、人の心情や抽象概念を表現できない和語のほうだ…。

おやおや、今度は和語そのものに矛先が向かってきたようだ。

たしかに、新聞の記事や論説は漢語がなければ書くことすらできない。
抽象概念や高度な思考を表現するには、和語は力不足だ。

つまり、和語は幼稚な言語である…。
成り行きとしてこのような結論に至るような気もする。

本居宣長先生ならどう考えるだろう?
かれの反論を聞いてみたい。

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2017年5月 7日 (日)

和語と漢語(その6)

年のせいか、AKB48の歌についていけない。

聞いていて、違和感をおぼえる。
そして内省してみると、その違和感は歌詞からきているようだ。

人生、真実、正面、感情、突然…。
そんな生硬な漢語があふれている。

どうもリズムやアクションとマッチしていないような気がする。
現代の、特に若い人たちの思いを表現するには、和語だけでは追いつかないのだろうか?

当然かもしれないけれど、私には昔の歌のほうが心になじむ。
たとえば…。

なんでもいいけれど、いまの季節にふさわしい歌として「夏は来ぬ」を取り上げてみたい。

作詞は佐佐木信綱。
発表は明治29年。

卯の花の 匂う垣根に
ほととぎす 早も来鳴きて
しのびね洩らす 夏は来ぬ

さみだれの そそぐ山田に
早乙女が 裳裾ぬらして
玉苗植うる 夏は来ぬ

橘の 薫るのきばの
窓近く ほたる飛びかい
おこたり諌むる 夏は来ぬ

おうち散る 川べの宿の
かど遠く くいな声して
夕月すずしき 夏は来ぬ

五月闇 ほたる飛びかい
くいな鳴き 卯の花咲きて
早苗植えわたす 夏は来ぬ

歌詞全体を引用したけれど、漢語含有率は0%である。
他の文部省唱歌の類も漢語含有率はきわめて低い。

佐佐木信綱は明治の人だから、漢文の素養はいまのわたしたちよりはるかに深かったに違いない。
その彼にして、「夏は来ぬ」の漢語含有率は0%なのだ。

きっと私と同じように、日本の歌には漢語はなじまないと感じていたのだろう。

なじまない理由は何か?

AKBの歌に登場する「人生」、「真実」、「正面」、「感情」、「突然」などを発音してみるとわかるように、長音、拗音、撥音など和語にはない特殊音が多く含まれている。

この音声要素が違和感の正体だと思う。

ずいぶん昔にお話ししたと思うけれど、歌は言語表現の原初的形態だ。
言語が誕生して間もないころ、わたしたちは歌うように話していた。

だから、今もなお日本の歌には漢語伝来以前の和語がなじむのだろう。

とはいえ、AKBが多くの若い人たちに受け入れられているところを見ると、かれらは私のような違和感は感じていないようだ。

やはり、言語感覚にもジェネレーションギャップがあるのだろう。
それはいたし方ないとして、問題はこれから先、日本語話者の言語感覚はどこへ行くのか、ということだ。

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2017年4月30日 (日)

季節とことば(その2)

前回、「たけなわ」という和語が登場した。

前回と同じフレーズだけれども、物事にははじめがあり、盛りがあり、終わりがある。
「宴たけなわではございますが、このへんで中締めを…」と幹事さんが言う。

辞書には「たけなわ」の意味として、物事の盛り、あるいはそれを少し過ぎたあたりを言う、と出ている。

幹事さんの発言は、それをさらに過ぎて終わり近くを意味している。
発言者、発言のタイミングによって、「たけなわ」の意味は微妙に揺れ動く。

「たける」という動詞は、今はあまり使わない。
若い人に向かって「夏もたけてきた」といっても、通じないと思う。

しかしわたしたちの年代にはわかる。
8月の終わり地蔵盆のころになると、「ことしの夏もたけてきたなあ」としみじみ思う。

「たける」はあえて漢字表記をすれば「闌ける」と書く。
ふだん使うことのない文字である。
ワープロで候補を呼び出すにも手間がかかる。

しかし、「らんじゅくー爛熟」のへんのない字だから意味は分かる。

「たける」という動詞は「たけなわ」と同じ根を持っている。
「たけなわ」は夏には使えないけれど、「たける」は夏に使う。

逆に、秋がたける、とは言わない。
前回お話した通り、秋が深まる、と言う。

「たける」は春に使えるだろうか?

「春が深まる」とは言えない代わりに、「春がたける」という人はいるかもしれない。
春という季節の爛熟ぶりを指して、「春がたける」と表現するのはできない相談ではないと思う。

しかし、「春がたける」という表現よりも「春がゆく」という言い方のほうが,さらに発言者の気分が出ている。
   
ゆく春や 鳥啼き 魚の目は泪
という有名な句もある。

私は長い間、この「ゆく」は「逝く」だと思っていた。
しかし、ネットでの表記などを見るとみな「行く」になっている。

日本語話者にとって、ひとが「ゆく」のは、「行く」でも「逝く」でもあまり違いはないのかもしれない。

ひとが私の目の前から去って、どこかへ「ゆく」。
その行き先がハワイであれ天国であれ、私の前から姿を消す寂しさはいかんともしがたい。

その哀惜とともに、わたしたちは「ゆく」という動詞を口にする。
「ゆく」のが人であれ、季節であれ、その寂しさは変わらない。

今年の春もやがてたけなわを過ぎ、どこかへ「ゆく」。
その哀惜の思いは年とともに募る。
 

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2017年4月22日 (土)

季節とことば

窓から見下ろす近所の公園の桜。
例年より少し遅い満開も過ぎて、いま、散り始めている。
いまは春だけれど、もう少しこまやかにこの季節を表現するとすればどのようなことばがふさわしいだろう?
春爛漫?
春たけなわ?
もう少し季節が進んで、4月の終わりからGWにかけてになると、初夏の風が吹き始める。
新緑がまぶしくなる。
そうなると、春爛漫にしろ春たけなわにしろ、語感として少し時期遅れだ。
なべて物事には始まりがあり、盛りがあり、終わりがある。
四季もそうである。
しかし、それを言い表すことば遣いはなぜか異なる。
たとえば、春たけなわ、秋たけなわとは言うけれども、夏のピークや冬の底にはこの表現は用いない。
盛夏といい、厳冬という漢語を使う。
たとえば、春のはじめ、まだ冬の気配が濃厚に漂っているころ、わたしたちは早春という語を用いる。
しかし、夏秋冬のはじめのころを、早夏、早秋、早冬とは言わない。
初夏、初秋、初冬という。
逆に初春といえば、お正月のころを意味する。
つまり、「早」は春にしか結合しない。
もうひとつ、同じような例をあげてみたい。
「浅い」という形容詞がある。
「春まだ浅い今日この頃、みなさまお変わりなく…」などと手紙に書いたりする(最近はあまり書かない?)。
しかし、この形容詞は夏秋冬には使えない。
9月初めのころ、「秋まだ浅い今日この頃…」などと手紙に書いたりすると、相手に笑われる。
反対に、「深い」という形容詞は秋にぴったり結びついている。
秋深し 隣は何をする人ぞ
中緯度地方の国々では、移り変わる季節をだいたい4つに均等に区分している。
そして、四季の間に序列を設けていない。
四季のうち、特に夏がえらいというわけではない。
また、季節の好みも人それぞれだ。
私は秋が好きだけれど、夏が大好きという人もいる。
特定の季節に人々の人気が集中しているわけでもない。
それなのに、どうして季節と結びついたことば遣いに違いが生まれるのだろう?
なぜ、「早」は春にしか結びつかず、「深い」は秋にしか結びつかないのだろう?
この疑問を深く掘り下げていくと、季節に対するわたしたちの秘められた感覚が明らかになると思う。
また、逆に「早」や「初」、「深い」や「浅い」という語の原義も明らかになるのではないだろうか?

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2017年4月16日 (日)

季節と色

前々回は、「青年」と並んで「青春」という語にもふれた。
四神思想に基づけばたしかに春は青なんだろうけれど、わたしたちの実感からすれば「緑春」と言いたいところだ。
しかし、青春という語があまりにも定着しすぎているために、いまさら「緑春」と言い換えることもできない。
四神思想によれば、青春のあとに朱夏、白秋、玄冬と続く。
夏は太陽の季節だから、朱夏という表現はよくわかる。
玄冬はどうだろう?
冬は色に乏しく、日照時間も短く夜の帳が早く下りる、という点で黒で象徴するのはわからぬでもない。
白秋と言えば、北原白秋を思い出す。
秋霜烈日、晩秋におく霜の白さで秋を象徴させたのだろうか?
しかし、わたしたちの実感からすれば、錦秋という語のほうが一層しっくりくる。
錦自体は色の名前ではないけれど、錦と言えばわたしたちは赤や金の紅葉が織りなす絢爛たる色模様を連想する。
それが秋のイメージに直結する。
念のため明解国語辞典を開いてみたところ、「錦秋」はなく「錦繍」しか出ていない。
あわてて広辞苑を引いてみると、こちらには「錦秋」が出ていてホッとした。
広辞苑では、「紅葉が錦のように美しくなる秋」とある。
うーむ。
どうやら、本来は特に季節とはかかわりのない「錦繍」であったようだ。
それをどうしても秋の形容に使いたい人がいて、同音であることを幸いに「繍」を「秋」に入れ替えたのが真相であるらしい。
いまでは、「きんしゅう」と聞けば、ほとんどの人が「錦秋」を思い浮かべる。
そもそも私など「錦繍」という語の存在をいまのいままで知らなかった。
ワープロでも「錦繍」は変換候補に出てこない。
「錦繍」としては、庇を貸して母屋を乗っ取られた格好だ。
少し横道にそれてしまった。
秋を白で象徴するのはいかがなものか、というお話だった。
雪の季節、ということを考えれば「白秋」よりも「白冬」のほうがふさわしいかもしれない。
特に雪国の人なら、一層その感じが強いと思う。
いずれにしても、季節と色の結びつきを理屈で理解しようというのは詮ない試みだと思う。
詩的、宗教的な視点から解読すべきものだろう。
しかし、悲しいかな私にはその素養が欠けている。
ともあれ、季節や方位と色、それも基本4色名を結びつける考え方は、四神思想が及ぶ漢字文化圏だけだろうか?
それとも、他の言語圏でも類似の現象がみられるのだろうか?
もしそうだとすれば、人間の思考に及ぼす色覚の役割をもっと本格的に考究すべきだろう。

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