2017年5月21日 (日)

糸とことば

去年評判になった日本映画がふたつあった。
ふたつとも観た。

しかし、「シン・ゴジラ」はつまらなかった。
従前の怪獣映画とどこが違うのかよくわからなかった。
年のせいで感受性が鈍ってきたのかもしれない。

そこへゆくと、「君の名は。」はよかった。
よかったからはまった。
なんと4回も観てしまった。

映画館に4回も足を運ばせる魅力がこの映画にはあった。
私は映画評論家ではないから、その魅力の中身をうまく語ることができない。

ただひとつ、「糸」のことだけをお話ししたい。

この映画は、時空を超えて絆を求めあう切ない魂の物語である。
スマホの着信音がむなしく鳴り続ける冒頭のシーンはそのことを象徴している。

「絆」という字に「糸」が含まれているように、名前と名前を糸で結ぶことによってはじめて絆が生まれる。
だから、三葉と瀧くんはあんなにも名前を求めあうのだ。

「糸で結ぶ」?

そういえば、「結ぶ」という字の中にも糸が存在している。
何かと何かを結ぶために糸はある。

「結び」は「産土・産霊=むすび」でもある。
土地の産土神が共同体の人々を結びつけるのだ。
三葉と四葉のおばあさんがそう言っていた。

三葉と四葉のおばあさんは孫たちに組み紐を教えている。
紐もまた、映画の中では重要な役割を演じている。

「紐」という字の中にも糸が存在している。
紐は糸の発展形だろう。

そもそも三葉たちの生まれ育った町は、岐阜県糸守町という架空の町だった。
糸を原点として、この物語は紡がれている。

「紡ぐ」?

そう、紡ぐという文字の中にも糸が存在している。
人が綿や繭を紡ぐことによって、はじめて糸が生まれる。

そう思えば、物語そのものが糸なのかもしれない。

この映画では、ふすまが閉じられるとき、電車の扉が閉まるときの情景が何度も登場する。
不思議なことに、それが特徴的なローアングルで描かれている。
謎めいていてとても印象的だった。

閉まる、あるいは閉めるということは何かと何かを隔てる、つながりを断ち切るということだ。
つまり絆のアンチテーゼである。

このアンチテーゼを登場させることによって、製作者は「絆」というテーマを一層きわだたせようとしたのだろうか?

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2017年5月14日 (日)

和語と漢語(その7)

前回は、結果的にAKB48の歌を槍玉にあげてしまった格好になった。
気の毒なことをしてしまった。

よくよく観察してみると、AKBだけに問題があるわけじゃない。
AKBに限らず、最近の歌は概して漢語含有率が高いように思う。

前回は、比較を際立たせるために漢語含有率0%の「夏は来ぬ」を持ち出した。
しかし、この手法には問題があるのではないかと感じる人がいるかもしれない。

「夏は来ぬ」は季節の情景や情感を、花や鳥などの自然物に託して描写しているので、和語だけでもその目的は十分達成できる。
しかし、人の心のありようや抽象概念など目に見えないもの、手で触れることのできないものを表現しようとすると、どうしても漢語の力を借りなければならないのではないか、と。

このように反論する人は、その例証として島崎藤村の「椰子の実」(発表 明治33年)をあげるかもしれない。

この歌には次のような一節がある。

実をとりて 胸にあつれば
新なり 流離の憂
海の日の沈むを見れば
たぎり落つ 異郷の涙

「椰子の実」も歌詞全体を見れば、その漢語含有率は0%に近い。
しかし、「夏は来ぬ」と違って2語だけ漢語が含まれている。
そして、漢語特有の拗音も含まれている。

あなたは前回、漢語特有の拗音や長音の存在が聞く者に違和感を抱かせる、と言ったけれどもこの歌における漢語にもそんな違和感を感じますか?

うーむ、そう言われるとあまり違和感は感じないなあ。
「流離」や「異郷」という漢語が、歌詞全体から、歌全体から浮き上がっている、という感じはしない。

藤村も佐佐木信綱と同じく明治の人だから、日本語話者の情感を歌い上げるには漢語はあまりそぐわない、と感じていたと思う。

しかし、「椰子の実」のこの一節では適切な和語が見当たらない、むしろ漢語のほうが効果を高めるだろう。
そこまで計算していたのかもしれない。

日本の歌であっても、人の心のありようや抽象概念などを歌い上げるためには、やはり漢語の助けを借りなければならない。
決して、AKBが悪いわけじゃない。

悪いのは、人の心情や抽象概念を表現できない和語のほうだ…。

おやおや、今度は和語そのものに矛先が向かってきたようだ。

たしかに、新聞の記事や論説は漢語がなければ書くことすらできない。
抽象概念や高度な思考を表現するには、和語は力不足だ。

つまり、和語は幼稚な言語である…。
成り行きとしてこのような結論に至るような気もする。

本居宣長先生ならどう考えるだろう?
かれの反論を聞いてみたい。

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2017年5月 7日 (日)

和語と漢語(その6)

年のせいか、AKB48の歌についていけない。

聞いていて、違和感をおぼえる。
そして内省してみると、その違和感は歌詞からきているようだ。

人生、真実、正面、感情、突然…。
そんな生硬な漢語があふれている。

どうもリズムやアクションとマッチしていないような気がする。
現代の、特に若い人たちの思いを表現するには、和語だけでは追いつかないのだろうか?

当然かもしれないけれど、私には昔の歌のほうが心になじむ。
たとえば…。

なんでもいいけれど、いまの季節にふさわしい歌として「夏は来ぬ」を取り上げてみたい。

作詞は佐佐木信綱。
発表は明治29年。

卯の花の 匂う垣根に
ほととぎす 早も来鳴きて
しのびね洩らす 夏は来ぬ

さみだれの そそぐ山田に
早乙女が 裳裾ぬらして
玉苗植うる 夏は来ぬ

橘の 薫るのきばの
窓近く ほたる飛びかい
おこたり諌むる 夏は来ぬ

おうち散る 川べの宿の
かど遠く くいな声して
夕月すずしき 夏は来ぬ

五月闇 ほたる飛びかい
くいな鳴き 卯の花咲きて
早苗植えわたす 夏は来ぬ

歌詞全体を引用したけれど、漢語含有率は0%である。
他の文部省唱歌の類も漢語含有率はきわめて低い。

佐佐木信綱は明治の人だから、漢文の素養はいまのわたしたちよりはるかに深かったに違いない。
その彼にして、「夏は来ぬ」の漢語含有率は0%なのだ。

きっと私と同じように、日本の歌には漢語はなじまないと感じていたのだろう。

なじまない理由は何か?

AKBの歌に登場する「人生」、「真実」、「正面」、「感情」、「突然」などを発音してみるとわかるように、長音、拗音、撥音など和語にはない特殊音が多く含まれている。

この音声要素が違和感の正体だと思う。

ずいぶん昔にお話ししたと思うけれど、歌は言語表現の原初的形態だ。
言語が誕生して間もないころ、わたしたちは歌うように話していた。

だから、今もなお日本の歌には漢語伝来以前の和語がなじむのだろう。

とはいえ、AKBが多くの若い人たちに受け入れられているところを見ると、かれらは私のような違和感は感じていないようだ。

やはり、言語感覚にもジェネレーションギャップがあるのだろう。
それはいたし方ないとして、問題はこれから先、日本語話者の言語感覚はどこへ行くのか、ということだ。

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2017年4月30日 (日)

季節とことば(その2)

前回、「たけなわ」という和語が登場した。

前回と同じフレーズだけれども、物事にははじめがあり、盛りがあり、終わりがある。
「宴たけなわではございますが、このへんで中締めを…」と幹事さんが言う。

辞書には「たけなわ」の意味として、物事の盛り、あるいはそれを少し過ぎたあたりを言う、と出ている。

幹事さんの発言は、それをさらに過ぎて終わり近くを意味している。
発言者、発言のタイミングによって、「たけなわ」の意味は微妙に揺れ動く。

「たける」という動詞は、今はあまり使わない。
若い人に向かって「夏もたけてきた」といっても、通じないと思う。

しかしわたしたちの年代にはわかる。
8月の終わり地蔵盆のころになると、「ことしの夏もたけてきたなあ」としみじみ思う。

「たける」はあえて漢字表記をすれば「闌ける」と書く。
ふだん使うことのない文字である。
ワープロで候補を呼び出すにも手間がかかる。

しかし、「らんじゅくー爛熟」のへんのない字だから意味は分かる。

「たける」という動詞は「たけなわ」と同じ根を持っている。
「たけなわ」は夏には使えないけれど、「たける」は夏に使う。

逆に、秋がたける、とは言わない。
前回お話した通り、秋が深まる、と言う。

「たける」は春に使えるだろうか?

「春が深まる」とは言えない代わりに、「春がたける」という人はいるかもしれない。
春という季節の爛熟ぶりを指して、「春がたける」と表現するのはできない相談ではないと思う。

しかし、「春がたける」という表現よりも「春がゆく」という言い方のほうが,さらに発言者の気分が出ている。
   
ゆく春や 鳥啼き 魚の目は泪
という有名な句もある。

私は長い間、この「ゆく」は「逝く」だと思っていた。
しかし、ネットでの表記などを見るとみな「行く」になっている。

日本語話者にとって、ひとが「ゆく」のは、「行く」でも「逝く」でもあまり違いはないのかもしれない。

ひとが私の目の前から去って、どこかへ「ゆく」。
その行き先がハワイであれ天国であれ、私の前から姿を消す寂しさはいかんともしがたい。

その哀惜とともに、わたしたちは「ゆく」という動詞を口にする。
「ゆく」のが人であれ、季節であれ、その寂しさは変わらない。

今年の春もやがてたけなわを過ぎ、どこかへ「ゆく」。
その哀惜の思いは年とともに募る。
 

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2017年4月22日 (土)

季節とことば

窓から見下ろす近所の公園の桜。
例年より少し遅い満開も過ぎて、いま、散り始めている。
いまは春だけれど、もう少しこまやかにこの季節を表現するとすればどのようなことばがふさわしいだろう?
春爛漫?
春たけなわ?
もう少し季節が進んで、4月の終わりからGWにかけてになると、初夏の風が吹き始める。
新緑がまぶしくなる。
そうなると、春爛漫にしろ春たけなわにしろ、語感として少し時期遅れだ。
なべて物事には始まりがあり、盛りがあり、終わりがある。
四季もそうである。
しかし、それを言い表すことば遣いはなぜか異なる。
たとえば、春たけなわ、秋たけなわとは言うけれども、夏のピークや冬の底にはこの表現は用いない。
盛夏といい、厳冬という漢語を使う。
たとえば、春のはじめ、まだ冬の気配が濃厚に漂っているころ、わたしたちは早春という語を用いる。
しかし、夏秋冬のはじめのころを、早夏、早秋、早冬とは言わない。
初夏、初秋、初冬という。
逆に初春といえば、お正月のころを意味する。
つまり、「早」は春にしか結合しない。
もうひとつ、同じような例をあげてみたい。
「浅い」という形容詞がある。
「春まだ浅い今日この頃、みなさまお変わりなく…」などと手紙に書いたりする(最近はあまり書かない?)。
しかし、この形容詞は夏秋冬には使えない。
9月初めのころ、「秋まだ浅い今日この頃…」などと手紙に書いたりすると、相手に笑われる。
反対に、「深い」という形容詞は秋にぴったり結びついている。
秋深し 隣は何をする人ぞ
中緯度地方の国々では、移り変わる季節をだいたい4つに均等に区分している。
そして、四季の間に序列を設けていない。
四季のうち、特に夏がえらいというわけではない。
また、季節の好みも人それぞれだ。
私は秋が好きだけれど、夏が大好きという人もいる。
特定の季節に人々の人気が集中しているわけでもない。
それなのに、どうして季節と結びついたことば遣いに違いが生まれるのだろう?
なぜ、「早」は春にしか結びつかず、「深い」は秋にしか結びつかないのだろう?
この疑問を深く掘り下げていくと、季節に対するわたしたちの秘められた感覚が明らかになると思う。
また、逆に「早」や「初」、「深い」や「浅い」という語の原義も明らかになるのではないだろうか?

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2017年4月16日 (日)

季節と色

前々回は、「青年」と並んで「青春」という語にもふれた。
四神思想に基づけばたしかに春は青なんだろうけれど、わたしたちの実感からすれば「緑春」と言いたいところだ。
しかし、青春という語があまりにも定着しすぎているために、いまさら「緑春」と言い換えることもできない。
四神思想によれば、青春のあとに朱夏、白秋、玄冬と続く。
夏は太陽の季節だから、朱夏という表現はよくわかる。
玄冬はどうだろう?
冬は色に乏しく、日照時間も短く夜の帳が早く下りる、という点で黒で象徴するのはわからぬでもない。
白秋と言えば、北原白秋を思い出す。
秋霜烈日、晩秋におく霜の白さで秋を象徴させたのだろうか?
しかし、わたしたちの実感からすれば、錦秋という語のほうが一層しっくりくる。
錦自体は色の名前ではないけれど、錦と言えばわたしたちは赤や金の紅葉が織りなす絢爛たる色模様を連想する。
それが秋のイメージに直結する。
念のため明解国語辞典を開いてみたところ、「錦秋」はなく「錦繍」しか出ていない。
あわてて広辞苑を引いてみると、こちらには「錦秋」が出ていてホッとした。
広辞苑では、「紅葉が錦のように美しくなる秋」とある。
うーむ。
どうやら、本来は特に季節とはかかわりのない「錦繍」であったようだ。
それをどうしても秋の形容に使いたい人がいて、同音であることを幸いに「繍」を「秋」に入れ替えたのが真相であるらしい。
いまでは、「きんしゅう」と聞けば、ほとんどの人が「錦秋」を思い浮かべる。
そもそも私など「錦繍」という語の存在をいまのいままで知らなかった。
ワープロでも「錦繍」は変換候補に出てこない。
「錦繍」としては、庇を貸して母屋を乗っ取られた格好だ。
少し横道にそれてしまった。
秋を白で象徴するのはいかがなものか、というお話だった。
雪の季節、ということを考えれば「白秋」よりも「白冬」のほうがふさわしいかもしれない。
特に雪国の人なら、一層その感じが強いと思う。
いずれにしても、季節と色の結びつきを理屈で理解しようというのは詮ない試みだと思う。
詩的、宗教的な視点から解読すべきものだろう。
しかし、悲しいかな私にはその素養が欠けている。
ともあれ、季節や方位と色、それも基本4色名を結びつける考え方は、四神思想が及ぶ漢字文化圏だけだろうか?
それとも、他の言語圏でも類似の現象がみられるのだろうか?
もしそうだとすれば、人間の思考に及ぼす色覚の役割をもっと本格的に考究すべきだろう。

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2017年4月 9日 (日)

ナショナリズムと色彩

少し前に、色彩の選好に関して大がかりな国際共同研究の提案をしたのだけれど、おぼえていらっしゃるだろうか?

どなたもやる気がなさそうなので、私みずから取り組むことにした。
ただし、大規模なものではなくほんのささやかな研究である。

とりあえず、国旗に目をつけてみた。

国旗はある意味ナショナリズムの象徴だから、国旗に採用される色彩についてはその国民の選好が反映されるにちがいないという仮説から出発する。

ネットで「世界の国旗」を検索する。
すぐにお目当ての国旗一覧があらわれる。

圧倒的に赤が目につく。
日の丸もその例にもれない。

赤は命と活力の象徴だから、国旗に採用されるのはまことにもっともだ。
赤は興奮色だから、ナショナリズムを鼓舞するためにも都合がいい。

出征兵士の壮行会でも、友人知人が日の丸に名前を寄せ書きした。
私の家の納戸にもそれがしまってあったことをおぼえている。

赤は血の色でもある。
人々の血であがなった独立を忘れまい、という気概を国旗に込めた国もあるだろう。

次に目につくのは緑である。
国旗における緑は、大地の象徴だろう。

国民国家の基盤は何といっても土地だから、それを象徴する緑が選好されるのもなるほどである。
それにしても、特にアフリカ諸国に多いのは何を意味しているのだろう?

何かと緑と張り合う青だけれど、国旗に関してはそれほど目立たない。
やはり寒色であり鎮静色であることが人々に敬遠されるのだろうか?
その証拠に、青系が採用されても深い青より明るい青、どちらかと言えば水色に近い色彩のほうが多い。

案外がんばっているのが黄色である。
日本では、ややエキセントリックな色としてあまり評判がよくないけれど、国旗に取り入れている国は多い。

国旗における黄色がなにを象徴しているのか分からないけれど、他の色とのコンビネーションがいいのかもしれない。
たしかに緑と黄色のコンビネーションはあざやかである。

赤、緑、黄色、さまざまな青、そして地としての白…。
その組み合わせで、国旗はできている。

灰色、茶色、ピンクは出る幕がない。
鮮度の低いどっちつかずの色彩として、人々に嫌われている。

国民に対して、何らかの価値を強くアピールする。
それが国旗の使命である。
そのために、特定の色彩が動員されている。

赤と緑が人々のナショナリズムを強く刺激する色彩である。
それがこの国旗小研究の結論だ。

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2017年4月 2日 (日)

青と緑(その5)

「青年」という、わりによく使われる漢語がある。
和製漢語ではあるまい。

青という漢字そのものに「若い」という意味がある。
だから、十代後半から二十代の人たちを指して青年という。

和語の「あお」は、その若さをネガティブにとらえて「未熟」という意味をもつ。
だから、青二才なんていう。

緑という漢字には「若い」という意味はないようだ。
しかし、和語の「みどり」は若さを感じさせる。

しかも、青とちがってその若さを肯定的にとらえている節がある。
春になって草木が芽ぶき、初夏になって若葉がそよぐ。
そのみずみずしい生命力を緑が象徴する。

だから、「みどりご」なんてことばもある。

そう思えば、「青年」のかわりに「緑年」という和製漢語をでっちあげてもいいような気がする。
シルバーエイジが中高年を指すのなら、グリーンエイジということばで若い世代をあらわしてもいい。

ところで、わかばマークは緑と黄色で構成されているけれど、緑のかわりに青を使うというアイデアはどうだろう?

「私の運転は未熟だから、後続車の方は気をつけてね」というメッセージを送るのなら、青のほうがふさわしい気がする。
しかし、「いまは未熟だけれど、若いからすぐ上達するので大丈夫!」というメッセージを送りたいのなら、緑でもいいようにと思う。
みなさんのご意見はどうだろう?

ところで、「青年」は若い人々の意味だけれど、どうしても若い男をイメージしてしまうのは私だけだろうか?
青年実業家、ということばもあるけれど若いエネルギッシュな男性の姿しか浮かんでこない。

事実、広辞苑を開いてみると「多く、14,5歳から24,5歳の男子をいう」とある。
明解国語辞典も「単独で使う場合は男性をさすことが多い」と解説している。

やはり、青という寒色系の語彙が女性にそぐわないのだろうか?

「青年」のほかに「青春」ということばもよく使われる。
「青春」と聞くと、男性だけに限らず若い男女を思い浮かべる。
やはり、春という暖色系の語が加わることによって男性オンリーのイメージが打ち消されるのかもしれない。

わかばマークが話題になったので、おまけとしてもみじマークにもちょっとふれておこう。

むかしは赤と黄色の紅葉をイメージさせる配色デザインだった。
しかし、数年前からクローバーにデザインが変更された。

配色もうすみどり、ふかみどり、だいだい、黄色の4色になった。
新しく追加された緑系は、「若さ」ではなく「安全」をアピールするためだろうと私は解釈しているのだが、いかがだろう?

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2017年3月26日 (日)

青と緑(その4)

色は光の中に秘められている…。
くりかえし私はそう言ってきた。

だから、光を分光器にかければ色のスペクトルが得られる。

赤橙黄緑青藍紫。
そんな呪文めいたことばで、わたしたちはスペクトルの順番をおぼえている。

色をあらわす光の波長は連続量である。
だから緑と青は隣り合っているけれど、はっきりした境界はない。

緑の世界があり、緑のようでもあり青のようでもある領域を通過して、青の世界に至る。
光の世界を旅していると、生命を感じさせる緑の世界から、いつのまにか深い青の精神世界に包まれていることに気がつく…。
そんな感じだろうか?

緑の絵の具と青の絵の具を同量まぜあわせると、どんな色になるだろう?

「あおみどり」という色名があるけれど、あんな色になるのだろうか?
実際に絵の具を買ってきて実験してみればすぐにわかることだけれど、あいにくその時間がない。

いずれにせよなんとなくくすんだ感じがして、魅力がない。
緑でもなく青でもないどっちつかずの立ち位置がわざわいしたのだろうか?

緑青、ろくしょうということばもある。
銅の表面に生じるさびである。
どう見ても明るい緑で、青を感じる余地などないのに、どうして青がくっついているのだろう?

青緑といえば、英語ではシアンというそうだ。
シアンに加えて、マゼンダ、イエローというのもある。
パソコンのインクでおなじみだ。

このシアンとマゼンダ、イエローが色材の三原色になる。

シアンとマゼンダを混ぜると青ができる。
シアンとイエローを混ぜると緑ができる。
マゼンダをイエローと混ぜると赤ができる。
そして、三つを混ぜると黒になる。

逆に、こうして生まれた青、緑、赤が今度は光の三原色になる。

青と赤を混ぜるとマゼンダができる。
赤と緑を混ぜるとイエローになる。
緑と青を混ぜるとシアンになる。
そして三つを混ぜると白になる。

色と光の世界にも神さまが仕組んだ予定調和が働いているのだろうか?

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2017年3月19日 (日)

青と緑(その3)

前回の記事をお読みになった方は、「こいつは青に肩入れしているな」と感じられたかもしれない。

正直に告白するけれど、色とことばを訪ねるこの長い旅のおわりに、私は青の精神性を再発見したような気分になっている。
だから、青にひいきしていると受け取られても否定することはできない。

はじめにお話ししたことだけれど、青と緑は同類である。
逆にだからこそ何かと張り合う関係にある。

好感度からすれば、緑のほうが上かもしれない。
しかし、私のように青に比べて緑は俗っぽい、と感じる人間もいる。

実際のところ、青と緑はどちらの方がえらいのだろうか?
たとえば、任意に100人を選んで「青と緑、どっちが好き?」というアンケートを取ったらどんな結果が出るだろう。

世代によって、男女によって、あるいは国によって違う傾向が出るかもしれない。
興味深い。

青と緑の選好に関して、どなたか大がかりな国際共同研究をやっていただけないだろうか?
あるいはすでにそんな研究がおこなわれているのなら、ご教示を賜りたい。

単に人々の選好だけでなく、青と緑はさまざまな視点から比較研究することができる。
たとえば、他の色との組み合わせを考えてもいい。

他の色との組み合わせといえば、次のような歌がすぐに脳裏に浮かぶ。

「白鳥はかなしからずや、海の青、空のあをにも染まずただよふ」

大空と大海原をひとまとめにした青い大きな空間。
一羽に小さな白い鳥が、その空間を漂っている。

青と白の色彩のコントラストが何とも印象的である。
青の世界に同化できない小さな白鳥は、孤独なのかもしれない。

この青を緑に置き換えた場合、どんな詩ができるだろう?
あざやかな新緑の森の小径を、真っ白なドレスと帽子をかぶった娘が散歩している情景を想像してもいい。

若山牧水なら、緑と白のコントラストから生命の躍動を歌い上げるかもしれない。
そこへゆくと、青と白のコントラストは静謐である。

うーむ、甲乙つけがたい。
結局、人それぞれの好みの問題に帰着する問題かもしれない。

「春を愛する人は…」から始まって四季を比較する歌があったけれど、「青を愛する人は…、緑を愛する人は…」という歌があってもいい。

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