2008年6月29日 (日)

活字の盛衰

グーテンベルクの活字印刷以降、文字言語は「もの」になった。
かさや大根やTシャツと同じような物品になった。

というのが前回のお話だった。
前回は言い忘れたけれど、「商品」になったということでもある。

商品になった以上、「品質」がきびしく問われるようになる。
それも安定していることが求められる。

手書き文字は一定していない。

同じことを書いても人によってその形状はずいぶん違うし、同じ人でも気分や体調によって微妙に異なる。

これでは商品として取り引きの対象にならない。
(時々有名作家の手書き原稿がオークションに出ることがあるけれど、あれはまた別の話だ。)

そこへいくと活字はいついかなる時でも不変不動である。
スタンダードを踏みはずさない。

この信頼は大きい。
人々の信頼を基礎としているという点では活字は貨幣に似ている。

貨幣と同じように、活字は知識や情報、歴史や文学、感性や思想の生産、流通、消費を加速する。

そして「活字文化」という権威を確立する。

むかしは自分の書きものが活字になった、といえば少しばかり晴れがましい気持になったものだ。
何だかちょっとえらくなった気分…。
活字の「権威」がなせるわざである。

しかし、ワープロ、パソコンが標準の筆記具になってから活字の権威は著しく低下した。
ふつうの人々が活字と同じ高品質で安定した文字を駆使するようになったのだ。

私が書いたものだって、見かけ上は活字印刷物と変わりない出来ばえになる。
そして、だれでもこのブログのようにネット上に流通させることができる。

かくして活字の権威は失われた。
活字文化がになっていた「教養」の価値は下落し、岩波文化の権威も過去のものになった。

空疎な権威が失墜するのはいいことだけれど、ITやネット技術は言語文化の新たな可能性を開いてくれるのだろうか。
思わぬ副作用はないだろうか。

これから先なにが起こるかわからないけれど、ITネット社会の到来はわたしたちの言語活動にはかりしれない大きな影響を及ぼす。

このことだけは確かだ。
グーテンベルグの印刷革命と同じかそれ以上のインパクトをもたらすにちがいない。

このことはみんな漠然と感じている。
けれど何しろ現在進行中の革命だから、その渦中にあるわたしたちにはかえって全貌がわからない。

あと5百年たてばそれがわかる。
いまグーテンベルグの印刷革命を回顧して、はじめてその意義が明らかになるように。

「そうか、あの時がおれたちの言語活動の転換点だったのか…」と。

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2008年6月22日 (日)

「自分」という呪縛(その2)

文字が生まれ、印刷出版がはじまり、黙読の習慣が定着した。

ということは、書きことばの世界で言語が「もの」になった、ということだ。
ことばが茶碗やにんじんや帽子と同じように、物品になったのだ。

物品になった以上、個人所有が可能になる。
持ち運びや取引ができるようになる。
そして、そのことを秘密にすることもできる。

電車の向かいの席でお嬢さんが文庫本を読んでいるけれど、音読してくれないので彼女が何を読んでいるのか私にはわからない。
何を読み何を考えているかは彼女個人の秘密に属する。

文字に固定された知識や情報、感性や思想…。
これらがみな「個人」を単位として生産され、消費され、貯蔵される時代になったのだ。

もう「みんな」というあいまいでいい加減な、それでいて心休まる集まりは許されなくなった。

「みんな」ではなく「ひとり・ひとり」。
これが、印刷革命以後の人間の存在様式だ。

だから、いまの世では個人や個性が何より尊重される。

所有権や著作権という個人的権利は侵してはならないし、個人情報はみだりに開示してはいけない。
そして学校では、生徒一人ひとりの「個性を伸ばす」ことが最大の教育目標になる。

そういえば、「キャラ」という略語がひんぱんに使われるのも何か関係がありそうですね。

そのかわり自己管理や自己責任がきびしく問われるようにもなった。
もう「みんな」の世界に逃げ帰ることはできない。

「ひとり・ひとり」になった人間は、いやでも「自分」に直面せざるを得ない。
「自分らしさ」なるものを見つけ、それにこだわらなければならない。

アスリートたちが「自分の○○」を連発するのもそのせいだと思う。

しかし、そうまでして執着する「自分」って一体何だろう?

あらためてそう居直られると、返答に窮する。
歯ブラシや手ぬぐいやたこ焼きのように目に見えるものじゃないからうまく説明できない。

一応、他人とはちがうオリジナリティとかパーソナリティみたいなもの、と言いたいところだけれど、だれかから、どこかからの借りものでない純粋の「自分」なんて本当はどこにも存在しない。

自己意識、というのは生まれてこのかた無数の他人や書物から吹き込まれた「ことば」で出来上がっているのだから。

他人とはちがう「自分」、というのは他人の存在を前提としてしか成り立たない。
一種のパラドクスですね。

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2008年6月15日 (日)

「自分」という呪縛

文字が生まれ、印刷出版がはじまり、黙読の習慣が定着した。

文字の歴史を一行に凝縮するとこうなる。

そして、この一行の中で「個人」や「個性」が成立した。
文字が触媒となって、「みんな」の中から「ひとり」が析出してきたのだ。

そして現代。
「個人」や「個性」がなにより尊ばれる時代になった。

いま私はアスリートたちのコメントに注目している。

「自分の相撲をとり切るだけです!」
「今日は自分の投球ができず、残念です」
「順位よりも自分のスケーティングができたので、満足してます」…。

私はこの種のことば遣いが最近特に増えたように思うのだが、いかがだろう?
私の子供時代は、こんなコメントはあまり聞かなかったような気がする。

このような傾向は日本語話者だけのものだろうか。

それとも、他の言語でも似たような現象がみられるのだろうか。
たとえば、「自分の○○」を英語やシンハラ語や中国語やバスク語ではどう表現するのだろう?

ともあれ、かれらにとっては勝負や記録や順位よりも「自分らしさ」を発揮することが何より大切なのだ。

でも、よく考えてみればこんな「自分」へのこだわりは別にアスリートだけに限らない。

「自分」のことばで語れ。

話しことばであれ書きことばであれ、これがわたしたちの言語表現に求められる最大の心得である。

どこかから、だれかからの借りものでなく、たどたどしくてもいい、「自分」の内部からこみあげてくるものをことばにしなさい。

ここまで言われるといやでも「自分」にこだわらざるをえない。

かくして、わたしたちは「自分」を求め「自分」に執着し「自分」を表現することに躍起になる。

まるで強迫神経症のように…。

文字、そして黙読という自閉的環境がわたしたちを「自分」へと駆り立てるのだ。

文字の王権は今やゆるぎない。
黙読の習慣も「読み」のスタンダードを確立した。

となると、息苦しい「自分」全盛の時代はこれからも当分続きそうですね。

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2008年6月 8日 (日)

音読と黙読(その2)

印刷革命をきっかけとして、文字言語の世界では音読から黙読への移行がはじまった。

というのが、前回のお話だった。

いざ黙読をはじめてみると、音読よりもはるかに都合がいい。
何といっても読みが早くなるし、のどを痛めなくてもすむ。

前回登場したアンブロシウスはきっとのどの弱い人だったのだ。
それに、音読をまわりの人に聞きとがめられるのがわずらわしかったのかもしれない。

声は公共空間に広がるものだ。
だれかが音読していると、居合わせた人々はどうしても聞き耳を立ててしまう。

中にはおせっかいな人がいて、
「ちょっと待った、そのくだり、不審あり!」と異議をさしはさんだりする。

そこでくだんの読み手は、
「これは心外千万。それがしの読みに間違いありと?よいか、そもそもこのくだりは…」
と反論を試みることになり、いつの間にかそこでディスカッションが始まることになる。

つまり、音読は好むと好まざるとにかかわらず、公共的な性質を帯びるのだ。

かといってディスカッションばかりしていては一向に読みが進まない。
そこで、アンブロシウスは黙読を選択したのだと思う。

アンブロシウスならずとも黙読はらくちんだ。

のどは痛めないし余分なエネルギーを使うこともない。
他人に邪魔されることなくマイペースで読み進めることができる。

黙読はまわりの他人をシャットアウトして、書物と自分だけの世界に引きこもることである。

音読が公共的行為なら、黙読は個人的な行為だ。
自閉的な行為、といってもいい。

読み手はこの閉ざされた世界で「自分」を発見する。
「個人」や「個性」はこうして生まれたし、「著作者」や著作権も同じようにして成立した。

声が支える「みんな」の時代から、文字が支える「ひとり・ひとり」の時代へ。

印刷革命と黙読の普及が、人間のあり方に大きな変革をもたらしたのだ。

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2008年6月 1日 (日)

音読と黙読

文字は兄に対する独立宣言のあと、ほどなく王位についた。

それを見届けたお兄さんは書物・文献の世界からいさぎよく身を引いた。
長兄にふさわしいそれはみごとな引き際だった。

黙読がふつうになるのはそれからである。

前回もお話しした通り、印刷革命までは文字は音声言語の補助的存在として扱われていた。
声に支えてもらうことでようやくことばとしての機能を果たせる、そんな半人前の存在だった。

音読から黙読への移行が始まりかけたときのこと。

「ええ!声を出さずに本を読むやつがいるって?そいつは見ものだ。おい、みんな見に行こうぜ」

という次第で、黙読という「奇妙な」習慣を持つアンブロシウスの家には見物の人だかりができた。
(というエピソードがマクルーハンの「グーテンベルグの銀河系」に紹介されています)

もちろん今でも「声に出して読みたい日本語」なんて本が出版されていて、しばしば音読の効用が説かれ推奨されもする。

しかし、今では音読は特別な状況のもとでしか許されないような雰囲気だ。

電車の中で声に出して本を読んでいると、まわりからだんだん人が立ち去っていく。
アンブロシウスの時代とは逆に音読のほうが奇妙な習慣になってしまったのだ。

図書館という公共施設も黙読を当然の前提としている。
そうでなければ、閲覧室はうるさくてしかたがない。

長く続いてきた習慣は、むかしの人にとっては生き方のモデルだった。
そこからから抜け出すのは、いまのわたしたちが考えるよりはるかに困難なことだった。

書物というのは、声に出さずとも読めるものだ。

という事実に、はじめて気がついた人はだれだったのだろう?
そして、音読というたしかな習慣を捨てて黙読を選択した勇気ある人はだれだったのだろう?

今となっては突き止めるすべもないけれど、かれには「図書館の父」という称号を贈ってもいい。

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2008年5月25日 (日)

文字の独立宣言

前回記事では、文字を言語世界の王に仕立て上げてしまった。

しかし、もちろん文字が生まれた時から王さまだったわけではない。

それどころか、ついこの間までお兄さん(話しことばのことです)の支えなしではとてもひとり立ちできなかった。
それほど頼りなくおぼつかない存在だった。

ごく最近まで、テキストは声に出して読み上げられるのがふつうだった。
声の支えがあって、はじめてことばとしての機能を果たすことができた。

私は、会計監査のことをなぜ英語で「audit」というのか、長い間疑問だった。
オーディットという語はオーディションやオーディオと語源を同じくしている。
つまり、「聞く」というのがもともとの意味だ。
なぜ、会計監査は「聞く」のだろう?

先日、W・J・オングの「声の文化と文字の文化」を読んでいて、多年の疑問が氷解した。

かれはこんなことを言っている。
「少なくとも12世紀まで、財務勘定の監査は、たとえ書類に書かれていても、それを読み上げさせ耳で聞くことによっておこなわれた。」

数字ですら見るだけではだめなのだ。
音声化して聞くことによってはじめてただしく理解できる。

つい最近までわたしたちはそう考えていた。

そんな頼りない存在だった文字が、いつの間にか言語世界の王に成り上がってしまった。
何という出世ぶりだろう。

もちろんきっかけは印刷革命だったにちがいない。

印刷技術の確立によって、文字テキストの高速複製、大量頒布が可能になった。
手書きと筆写の時代には考えられなかったことだ。

その結果、世の中に文字の奔流が始まる。
教育が普及し、リテラシーが向上し、文字が一部の人々の占有から解放される。

その過程で文字はめきめきと力をつけてきた。
いったん普及しはじめるとそのインパクトと情報処理における有用性は音声言語の比ではない。
人々はたちまち文字の虜になった。

そしてある時、文字は兄に告げたのだ。

「兄さん、ぼくはもう一人でやっていける。これからは兄さんの助けはご無用だ。」

文字の独立宣言を兄はどう聞いただろう?

弟の自立を素直に祝福しただろうか?
それとも、胸中複雑な思いが去来しただろうか?

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2008年5月18日 (日)

王者の風格

このところしばらく、文字に対してつらく当たってきたかもしれない。

やれ「差異」と「分断」を持ち込んだとか、
権力と双生児だとか、
悲劇の元凶だとか…。

文字にとってはまことに心外なことにちがいない。

これほど人間たちのために身を粉にして働いているというのに、何という忘恩の徒!

文字はそう思っているだろうか?

いやいやそんなことはあるまい。
いまや文字は言語世界の「王」として君臨しているのだ。

文化、文明、文学…。
という漢字、漢語が示すように人間の精神活動の大半がかれの支配下にある。

だから王さまらしく、きっと鷹揚に構えているにちがいない。
文字の前では、私の評言などごまめの歯ぎしりみたいなものだから。

なんだかんだと言っても、いま私たちは深く文字に依存している。
ここで文字にそっぽを向かれてしまったら、生きていくことさえ難しい。

口でどんなにすてきなことを言っても、文字にしなければ見向きもされない。
だからどうしても人に伝えたいこと訴えたいことがあれば、みんな書きことばで表現する。
小説であれ論文であれブログであれ…。

だいぶ前に、本当に大切なことは文字にしてはいけないという観念がある、というお話をした。
しかし、本当に大切なことはやっぱり文字にしなければならない。

口約束だけでも法律的にはりっぱな契約だけれども、契約書という文書がなければだれも相手にしてくれないのだ。

いま文字はわたしたちの世界の「王」として君臨している。

王は尊敬され、畏敬され、敬遠され、嫌悪される。
それが王の宿命でもある。

私のようなしもじもの者が王さまに向ける両義的なまなざし。
それを何ごともなかったかのように悠然と受け流すのが王者の風格というものだ。

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2008年5月11日 (日)

文字のはじまり

人間はどうして文字という劇薬を発明してしまったのだろう?

というのが、前回のテーマだった。

そして、いい加減な推理をしてみたのだけれど、このテーマはもう少し順序立てて考えたほうがよさそうだ。

まず人間のはじまりにさかのぼろう。

その動物は、だんだん足腰が強靭になりやがて後ろ脚だけで常時立って歩けるようになった。
これが人間のはじまり。

その結果、前脚つまり手が歩行という業務から解放され、ものをつかんだり運んだり細工をしたり気に入らない奴を殴ったり、いろいろな行動ができるようになった。

そして、その影響が口にも及ぶ。

四足歩行の時代、口はものを食べるだけでなく運搬作業や子供の衛生管理、そして敵を攻撃するという仕事もこなさなければならなかった。

直立二足歩行の完成とともにその仕事を手が引き受けてくれるようになったものだから、口は一気にひまになった。

ひまつぶしというわけではないが、「じゃあ、ことばでもしゃべってみるか」ということで発話機能を付け加え、かくして人間の音声言語が成立した。

ここまではいいですよね?

一方、手はというと歩行という下積みの地味な仕事から解放されてうれしくてしかたがない。
なんでもやってみたいのだ。

指でやわらかな砂地を何気なくなぞってみる。
あるいは、枯枝で土をひっかいてみる。

すると、そこにはなにやらおもしろい図形表象があらわれる。
まだまだ単純な頭だが、それでも感動したことだろう。

あとは時間の問題ですね。
シンプルな図像がやがて「絵」と呼ばれるほどのものになり、それがコミュニケーションにも使えることに気がつけば文字が生まれるのは自然のなりゆきだ。

無文字社会だって時間さえかけて気長に待てばオリジナルの文字が生まれたと思う。
なにしろ文字のインパクトは強烈だから、地球上の数か所で先行して生まれた文字の伝播のほうオリジナル文字の誕生よりも早かったにすぎない。

こうしてふりかえってみると、直立二足歩行の効果が口に伝わっては音声言語を生み、手に及んでは文字言語を生んだ、ということになる。

そう、足はことばの生みの親だったのだ。

前回記事では、人間の際限のない欲望が文字の発明をうながしたようなお話をしたけれども、どうやら間違っていたようだ。

文字は人間の欲望など関係なく、直立二足歩行の結果としておのずから成立した。
そして人々がそのはかり知れない有用性にあとで気がついてその虜になった。

きっと、そういうことなのだ。
前回の結論とは順序が逆になりましたね。

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2008年5月 4日 (日)

文字という劇薬

世の中で文字ほど便利で頼もしくありがたいものはない。

このことはだれもが骨身にしみて感じている。

だいいち、文字がなければこのブログも成り立たないのだし…。

しかし世の中のありがたいものの多くと同じように、文字も劇薬である。
しかも習慣性があって、使えば使うほどこの薬への依存は深まっていく。

そういえば文字中毒、活字中毒なんてことばもありますね。

前回記事では、「権」をキーワードに文字の劇薬性を考えてみた。

「権利」、「権威」、「権力」…。
これらはみな文字の土台の上に存在している。

人間の悲劇は文字の誕生とともに始まったといっていい。

では、どうして人間はそんな劇薬を発明してしまったのだろう?
というのが、ここでの私の素朴な疑問である。

音声言語の長い歴史に比べれば書きことばなど言語表現の手段としてはまったくの新米である。
それに歴史上無文字社会はいくらもあった。

それでも人々はきげんよく暮らしてきた。
声と歌と記憶に支えられた牧歌的な時代を気楽に過ごしてきた。

話しことばだけでも、生きるためには十分すぎるくらいだった。
話しことばだけでも、他の動物たちがうらやむようないい暮らしができた。

それなのに、人間は文字を発明した。
一体何が不満だったのだろう?

ただ生きるだけではつまらない。
もっともっといい暮らしがしたい。
そのためにはもっと確実に効率的に情報処理をしなくちゃ…。

そういうことだったのかもしれない。
まったく人間の欲望にはきりがありませんね。

しかし世の中、いいことづくめはない。
文字を手に入れたのと引き換えに、わたしたちは「精神」や「自我」という厄介なしろものを抱え込んでしまった。
以後、これがわたしたちの悩みの種になる。

おそらく、文字のない時代や社会にはこんな観念はなかったはずだ。
その場所にはただ神さまだけがいた。

文字化され形を与えられることで「精神」や「自我」は現実の力を得る。
別に漢字表記に限った話ではない。
「Geist」でも「ego」でも同じことだ。

文字さえなければ、人々は歌って踊って何も考えず楽しく暮らせたはずなのに…。

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2008年4月27日 (日)

文字と「権」

文字にはなぜか「権」という漢字がよくにあう。

少し前に文字と著作権の関係についてお話をしましたね。
文字の登場があの牧歌的な時代に分断をもたらしたことを…。

文字が「みんな」から「だれか」を切り離し、かれに「著作者」という特権的な地位を与えてしまった。
そして選ばれたかれはその他大勢の「読み手」に対して権利を主張しはじめるのだ。

テレビを見ていると、よく有識者のコメント、というのにお目にかかる。

そして、カメラに向かってコメントを述べる「有識者」の背後にはたいてい本や資料がぎっしり詰まった書棚が映っている。

いわゆるハロー効果というやつですね。

本や資料というのは要するに文字の集合体だ。

そこからはまぶしい「権威」の光線が放出されている。
その光背が有識者とそのコメントの正当性を保証する。
有識者が大和川の河原で所見を述べたのでは格好がつかないのだ。

もちろん、文字は権力とも仲が良かった。
ヒエログリフの時代からそうだった。

文字は実用的、即物的な必要から生まれた。
文字の最古の使用例は徴税記録であり、税として徴収した穀物の在庫記録である。

そして支配者は文字を占有する…。
文字と権力は双生児と言ってもおかしくない。

くりかえすけれども、文字は仲良しだった人々の間に「差異」と「分断」を持ち込んだ。

書く人と書けない人に。
インテリと無学な人々に。
そして支配者と被支配者に。

「権」という漢字がそのことを象徴している。

どうしてこんなことになってしまったのだろう?
ひょっとして文字の性質そのものの中に原因があるのだろうか?

漢和辞典によれば「権」の本義ははかりに使う「おもり」のことらしい。
つまり、ものの軽重をはかり価値を判定する機能がある、ということだ。
そうすると、そのあとには分別と序列化が待っている。

文字にそうした性質がある以上、それが用いられる場面で「差異」や「分断」が生まれるのは避けられないのかも知れない。

決して文字が望んでそうしたわけじゃない。
やむなくこんな重荷を背負ってしまった文字が哀れといえば哀れである。

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