2019年8月 4日 (日)

「生きる」と「死ぬ」(その4)

「生きる」という語は、人間存在にとってもっとも基本となる動詞である。
だから、関連する語も多い。

たとえば、「生まれる」という自動詞がある。
少し前にお話ししたように、「死ぬ」の対義語である。

「死ぬ」が「生きている」状態から「死んでいる」状態への移行をあらわすのと同じように、「生まれる」も無の状態から「生きている」状態への移行をあらわす動詞である。
移行の方向性は正反対である。

「生まれる」とペアになっている他動詞として「生む」という語がある。
「生む」の連用形は「生み」であり、「海」に通じる。

「生み」と「海」はおそらく同根だろう。
生命の誕生に目を凝らすと、おのずからそうなる。

生き物は生きていくために呼吸しなければならない。
息をしなければならない。

「息」は「生き」に通じている。
この二つの語も起源は共通しているのだろう。

古語では、生まれのことを「あれ=生れ」といった。
どうも関連する語はア行音で始まることが多い。

ア行音はつまり母音である。
母音は呼気が口の中で妨げられることなく出てくるときの音である。

息の活力を感じさせる音である。
息と「生き」のつながりの深さを証明する事実だ。

また、「生き」は「行き」ともつながっている。
「行き」の終止形は「行く」であり、「ゆく」ともいう。
その行き先が天国なら「逝く」という表記をする。

生きることは人生を行くことであり、最終的には天国に逝く。
関連する語が全部つながっているような気がする。

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2019年7月21日 (日)

「生きる」と「死ぬ」(その3)

前回は、「生きる」という動詞について、辞書を頼りに自己流に分類してみた。

まず、はじめに動作動詞。
つまり、「生活する」という動作をあらわしている。

食べて、働いて、寝て、歩いたり走ったりして、時にはけんかもする…。
そうした行為あるいは動作の総体を表現するときに、人は「生きる」ということばを使う。

次に、継続動詞。
単に「生きている」状態の継続を意味する場合である。
「この分だと、あいつは百まで生きるだろう」なんて言い方をする。

第3に、意思動詞。
この場合は、生を単なる無目的な動物的生ではなく、何らかのミッションを果たすために(神さまから)贈られたもの、ととらえる意識が濃厚だ。
その生を継続しようとする意思を他者に向かって表明する、あるいは宣言する場合に使う。
このときの「生きる」は「よりよく生きる」とほとんど同義だ。

最後に、効果動詞。
もっぱら生を比喩的に表現する場合に使う。
「この法律は制定は古いけれどもまだ生きている」なんて言う。
生物的生命とは関係がないけれども、いのちあるもののごとく他者に何らかの効果を及ぼすことができるのだ。

「生きる」という動詞のこんな分類は、どんな教科書にも出ていない。
まったく私の幼稚な思考による分類だ。
だから、無視していただいて差し支えない。

しかし、とにかく「生きる」という動詞は一筋縄ではいかない含蓄の深い語であることだけは分かった。

では、「生きる」と対照的な動詞と考えられている「死ぬ」という動詞についても、同じような分類はできるのだろうか?

「死ぬ」というのは動作動詞だろうか?
「自殺する」というのは動作動詞だけれど、「生きる」は「窓を開ける」や「ごはんを食べる」と同じような具体的な動作や行為をあらわしているのではないことは明らかだ。

やはり、以前もお話ししたように「生きている」状態から「死んでいる」状態への移行をあらわす移行動詞と呼ぶのがふさわしいと思う。

「死ぬ」というのは継続動詞だろうか?
「死んでいる」という状態が継続することはあるけれども、「死ぬ」というのは瞬間的な事態だから、それが継続することはあり得ない。
だから、継続動詞ではない。

「死ぬ」は意思動詞だろうか?
たしかに「死んでやる!」というのは意思の表明だけれど、その意思は「やる」という動詞が担っているから「死ぬ」という部分が意思を示しているわけではない。

「死ぬときは安らかに死にたいものだ」とわたしたちは願う。
これは願望の表明であって、意思と言えないことはないけれど、その意思は「たい」という接尾辞が担っている。
だから、この場合も「死ぬ」という部分が意思を示しているわけではない。
というわけで意思動詞とも言えない。

「死ぬ」は効果動詞だろうか?
「この法律は有効だけれども、この条文はすでに死文化している」という。
つまり、「この条文はまだ生きている」という表現と対をなしている。
だから、効果動詞の側面はある。

このように、「生きる」と「死ぬ」の分類は一致していない。
「生きる」と「死ぬ」は一見対語のように見えるけれども、位相が異なる動詞なのだ。

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2019年7月14日 (日)

「生きる」と「死ぬ」(その2)

一体わたしたちは「生きる」という動詞で何をあらわそうとしているのだろう?
次回じっくり考えてみたい。

という予告で前回は終わった。

とはいったものの、どうやって考えればいいのだろう?
何から手を付ければいいのだろう?

仕方がないから、とりあえず辞書で「生きる」を引いてみる。

まず、「生計を立てる、生活を営む」とある。
「たとえば海に生きる人々」なんて言い方をよく聞く。

これなど、海から生活の糧を得て海の文化を育む人々のことを表現しているのだろう。
この場合の「生きる」は動作動詞に近くなる。

次に、「命を保つ、生存する」とある。
「私は百まで生きるつもり」というのは単純にこの意味だろう。
命の継続そのものに焦点を当てているから、継続動詞と呼んでいい。

「俺なんか生きる値打ちもない」と自嘲するのはどうだろうか?
上の例では、「生」そのものに価値を認めているのだけれど、この例では「使命を持った生」でなければ、値打ちを認めていないようにも聞こえる。

この場合の「生きる」は具体的な動作を表現しているわけではない。
単純に生の継続を意味する動詞でもない。
「使命を持った生」への意思を強く感じる。
そんな術語はないけれど意思動詞と呼んでいいかもしれない。

最後に、「命あるもののように作用する」とある。
一般に命あるものには活力があって、その活力が他の人や事物に働きかける。
「生きたお金の使い方をしよう」などという。
「もう少し工夫すれば、もっと文章が生きてくるのになあ」ともいう。

この場合の「生きる」は動作や継続を表現しているわけではないし、意思をあらわしているわけでもない。
効果動詞と言うべきだろうか?

こうして一応辞書的意味を調べたのだけれど、そこにとどまっていていいのだろうか?
本当に、わたしたちは「生きる」という動詞で何をあらわそうとしているのだろう?

答えが出ないことは分かっていても、わたしたちは「生きることの意味」を問うことをやめられない。
「よりよく生きる」ことを常に願っている。

だとすれば、「生きる」は意思動詞としての性格がもっとも強いのではないだろうか?

ここまで来て、ようやく冒頭の問いに答えを出すことができた。

わたしたちは、「生きる」という動詞で「生」の維持と継続への意思を表明している。
それも単なる無目的の「生」ではなく、うまくいえないけれど何らかの使命を果たすための「生」の維持と継続への意思を表明しているのだ。

人生とはその「使命」を探し求める旅なのかもしれない。

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2019年7月 7日 (日)

「生きる」と「死ぬ」

「切る」と「抜く」というふたつのありふれた動詞について、長々と比較してきた。
前回はこれに加えて、「いぬ」と「ねこ」という身近な名詞についても比較してみた。

いずれの比較でも、音声的特徴から考えて語とその指示対象の関係にはどこか必然的なつながりがありそうである。
ソシュールのテーゼには申し訳ないけれど…。

「生きる」と「死ぬ」というやや深刻な動詞の場合はどうだろう?

「切る」と「抜く」は動作をあらわす動詞だけれど、「生きる」、「死ぬ」は動作動詞とは言えない。
状態動詞というのだろうか?

「生死」という熟語があるから「生きる」と「死ぬ」は対義語のように思うけれども、よく観察すればそうじゃないことがわかる。
たとえば、「彼は6月10日に死んだ」とは言えるけれども、「彼は6月10日に生きた」とは言えない。

「死ぬ」の対義語は「生まれる」だろう。
「彼は6月10日に生まれた」とは言えるのだ。

自動詞の「生まれる」は他動詞の「生む」とセットになっている。
「母は彼を6月10日に生んだ」

一方、自動詞「死ぬ」のほうはセットとなる他動詞が存在しない。
「死なせる」と使役助詞を付加することでなんとか他動詞的な意味をあらわすことができる。

「生きる」と「死ぬ」は対義語ではないけれど、テイル形を用いれば意味的対になる。
「生きている」と「死んでいる」
対照的な状態をきれいに表現できる。

「死ぬ」という動詞は動作動詞ではない。
かといって状態動詞でもない。
「生きている」状態から「死んでいる」状態への移行をあらわす動詞なのだ。

その逆の移行はない。
しかし、無の状態から「生きている」状態への移行はある。

それをあらわすのが「生まれる」という動詞だ。
だから、「死ぬ」の対義語が「生まれる」になる。

残る問題は「生きる」である。
これがなかなか面妖だ。

「生きる」は動作動詞ではないし、状態動詞でもない。
かといって、移行をあらわすわけでもない。

だから、「生きる」には対義語がない。
孤独な動詞なのだ。

一体わたしたちは「生きる」という動詞で何をあらわそうとしているのだろう?

次回じっくり考えてみたい。

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2019年7月 1日 (月)

「切る」と「抜く」(その8)

「きる」の第1音節は軟口蓋破裂音すなわち破壊的な音声だ。
だから、「切る」という破壊的な行為との間には必然的な結びつきがある。

というお話を前回の最後のほうでした。

「切る」という日本語動詞に対応する英語は「cut」だろうか。
私は音声学に詳しいわけではないから、この頭子音を破裂音と呼んでいいのかどうかわからない。
しかし、「切る」と同じように鋭角的な音感を持つ動詞であることは確かだ。

つまり、日本語だけでなく英語でも「cut」という動詞とその指示する行為との間には内容的な必然性があるように思うのだが…。

「ぬく」という動詞は鼻音で始まる。
鼻音は女の子の名前でよく使われるように、やさしい音感がある。
だから、対象の破壊や変形を伴わない行為をあらわすのにふさわしい。

これも前回お話しした通りだ。

「抜く」に対応する英語の動詞は何だろうか?
「抜く」は意味範囲が広いから、和英辞典を見てもいっぱい訳語が出ている。

「切る」と「cut」のようにぴったりした対応語が見つからない。
それでも、いろいろな訳語を見ても「cut」のような鋭角的な響きを持つ語はほとんどない。

たとえば「大根を抜く」にあたる英語動詞は「pull」と出ている。
「cut」とくらべて響きがにぶい。
鋭角的な感じはしない。

つまり、日本語の「切る」と「抜く」との関係は、英語の「cut」と「pull」の間にも成り立つのではないかということだ。

とりあえず日本と英語の比較をしてみたけれど、同じことは中国語でも、フランス語でも、シンハラ語でもいえるかもしれない。
語の音声的な特徴とその意味との関係を世界の諸言語で検証してみてはどうだろう?

ひょっとすると、語の恣意性というソシュールのテーゼに対する有力な反証が見つかるかもしれない。

「いぬ」と「ねこ」という語がある。
ソシュールのテーゼに従えば、「いぬ」を「ねこ」と言ってもいいし「ねこ」を「いぬ」と言ってもいい。

「いぬ」も「ねこ」もおそらく同じ時期に成立した語だと思うけれど、初期状態におけるほんのちょっとした偶然によって、あの動物が「いぬ」と呼ばれるようになり、この動物を「ねこ」と言うようになった…。

私はそうとは思えない。
やはり「いぬ」という名詞とあの動物、「ねこ」という名前とこの動物の結びつきは、偶然の産物ではなく必然的なものだと感じる。

たとえば、中国語の「猫」は鼻音で始まる。
日本語の「ねこ」と同じだ。
おそらく「にゃお」、「みゃお」という鳴き声を写生したものだと思う。

「キャット」や「カット」、「カッツェ」などは鼻音ではないけれど、やはり「にゃお」や「みゃお」とどこか通じるような気がする。
少なくとも「わんわん」よりも近い。

ソシュールは語の恣意性の根拠として、同じ対象でも言語によってまったく違う言い方をしていることを上げている。
しかし上で例をあげたように、違いだけでなく共通性にも注目したい。

語とその対象との関係は恣意的なのか、それとも必然的なのか。
この問いはおそらくことばが地上にある限り続くと思う。

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2019年6月23日 (日)

「切る」と「抜く」(その7)

「切る」、「抜く」という動詞は古語辞典にも載っている。
いずれも古い時代から使われている基本動詞である。

古代から使いこなされてきたから、意味の範囲がめっぽう広くなっている。
ちょっと収拾がつかないほどだ。

それでもその原義はどこにあるのだろう、とこのシリーズでは探ってみた。
素朴な時代の人々が使い始めたことばだから、はじめは物理的な行為を指したにちがいない。

そしてその行為が対象の破壊や変形をもたらす激しい行為なのか、破壊や変形を伴わない温和な行為なのかが、「切る」と「抜く」の分かれ道だった…。

そんなふうに考えた。
間違っているかもしれないが、そう考えて多数の用例を思い浮かべてみると腑に落ちる点が多数ある。

「切る」は激烈な行為だからダメで、「抜く」は平和的な行為だからいい、というわけではない。
ものごとには、なんにでも表と裏がある。

「切る」は激烈な行為だけれど、その分痛快であり、いさぎよいとも言える。
「抜く」は平和的な行為だけれど、そこにはずるさも悪知恵も潜んでいる。

「抜け目がない」や「抜け道を探る」なんていう表現には、そんな狡猾さを感じることができる。
また、「まぬけ」や「ふぬけ」、「腰抜け」などという言い方を聞くと滑稽みも感じられる。

さすがに古くからもまれてきた語だけに表現に深みがある。

ところで、この「切る」と「抜く」を置き換えることはできるだろうか?
ソシュールの語の恣意性というテーゼに従うなら、それも可能ということになるが…。


「ハサミでひもを抜く」と言っていいだろうか?
「ビールの栓を切る」ということができるだろうか?

語の恣意性のテーゼに従うならそれでもいいということになるが、わたしたちの感性がそれを許さない。
単にこれまで「ひもを切る」、「栓を抜く」と言ってきたから、という慣習的な理由だけではない。

「きる」は軟口蓋破裂音で始まる。
「きる」と意味的に近接した「たつ=断つ、絶つ」も硬口蓋破裂音で始まる。
要するに破壊的な音声なのだ。

これに対して「ぬく」は鼻音で始まる。
鼻音は女の子の名前でもよく使われる。
柔和な印象を与える音声だ。

音声的に見ても、「切る」が「きる」と発音され「抜く」が「ぬく」と発音される必然性があると思う。

意味と音声記号の関係は恣意的である。
というソシュールのテーゼに対しては反証が多く出されているけれども、「切る」と「抜く」の例もその反証の一つと考えていい。

意味と音声記号の関係は恣意的か必然的か、という問題はギリシャ時代から論争の種になっている。
まだまだ決着はつかない。

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2019年6月17日 (月)

「切る」と「抜く」(その6)

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった…。

川端康成の「雪国」はこんな書き出しで始まる。
「抜ける」という動詞が登場する。

少し前にもお話ししたことだけれど、「切る」と「切れる」、「抜く」と「抜ける」はペアになっている。

「ひもを切る」で「切る」は他動詞、「縁が切れる」で「切れる」は自動詞。
「ひげを抜く」で「抜く」は他動詞、「髪が抜ける」で「抜ける」は自動詞。

要するに、「切る」、「抜く」は格助詞「を」をとるので他動詞。
「切れる」「抜ける」は格助詞「が」をとるので自動詞。

そう思い込んでいたのだが、そう簡単に整理できないかもしれない。

なぜなら、「抜ける」は格助詞「を」をとることもできるのだから。
「国境の長いトンネルを抜けると…」、「狭い路地を抜けると…」

それはともかく、「抜ける」という動詞が喚起するイメージはある「継続」である。
トンネルという長い暗闇空間の継続がある。
その継続を通過する体験は時間的継続でもある。

しかしその継続は無限ではない。
はじまりがあり、終わりがある。

「抜ける」という動詞が指し示すのは、その時間的空間的継続を、おそらくはある忍耐をもって体験することである。
そこには、その継続に対して何らかの主体的働きかけがあるのだろうか?

それとも、動詞でありながら何らのアクションも起こさず、ただひたすら継続の終わりを待つのだろうか?
そうかもしれない。

そういう意味では、「抜ける」は格助詞「を」をとることもできるので自動詞というには疑問符がつく、とさっき言ったばかりだけれど、やはり自動詞的な雰囲気が強い。

そこへいくと、「切る」は主体的意思が鮮明だ。

動詞「切る」の対象もやはり「継続」である。
ひもという空間的的継続をばっさりたち切る。

あるいは42.195キロというマラソンコースも空間的継続である。
そしてそのコースを完走するためには、2時間何分という時間的継続を体験しなければならない。

少し前に、動詞「切る」は対象に対するなにがしかの破壊を含意するというお話をした。
マラソンコースを「走り切る」は、マラソンコースそのものを破壊するわけではないが、自己の力によってこの継続を終わらせようとする主体的意思が鮮明にあらわれている。

これに対して「走り抜く」には、そんな意思が感じられない。
おのずからこの継続が終わるのを忍耐をもって待つ、という受動的姿勢が明らかだ。

だから、「走り切った」あとは、「やったー」という達成感、爽快感、高揚感がある。
これに対して「走り抜いた」あとには、「やれやれ」というしみじみとした安ど感、解放感がわたしたちを包む。

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2019年6月 8日 (土)

「切る」と「抜く」(その5)

前回は「切る」、「切れる」という動詞に焦点を当てて、さまざまな用例を参照してその原義を探ってみた。

その結果、「切る」という動詞は主体の意志と物理的力によって何者かを破壊するという点に原義があった。
そして、その破壊の結果生じた新しい世界に主体は何ほどかの達成感、爽快感、高揚感を感じることも分かった。

では、「抜く」のほうはどうか?

「抜く」、「抜ける」も基本動詞だから、意味用法は山のようになる。
ここからその原義を探っていくのだが…。

前回もお話ししたことだけれど、もっとも根源的にはやはり物理的行為を指したのだと思う。
「畑から大根を引っこ抜く」

この段階でも、「切る」との違いは明らかだ。
大根は地中から空中へ移動させられたけれども、破壊はこうむっていない。

「切る」ほどの意志の力も、物理的な力も必要ではない穏やかな手段で、それでもわがものにすることができた。
そこには、「切る」ほどの達成感、爽快感、高揚感はないかもしれないがしみじみとした充実感がある。
力の代わりに知恵もしくは悪知恵がある。

「資料を切り取る」と「資料を抜き取る」にもその違いがはっきり出ている。
平穏な手段で機密を手に入れた人は、しみじみとした満足感に浸っていることだろう。
乱暴な方法ではないから、運がよけれが露見することもあるまい。

「切る」にはいやでも力の存在を感じさせられるけれども、「抜く」はその力をできるだけ働かさないようにふるまっているところがある。

たとえば、「ガスを抜く」という表現がある。

場に不穏な空気が充満していて、これを放置すると爆発してしまうというときに「ガスを抜く」。
これによって場の圧力を下げ、爆発を回避する、
つまり力を発揮させないのだ。

「間抜け」とか「気を抜く」という表現には脱力感がにじみ出ている。
その脱力感をうまく利用する人は「抜け目がない」と言われる。

「抜く」、「抜ける」という動詞はなぜか「脱」という文字とつながっている。

「城を抜ける」というのは城を「脱出」することだし、「名簿に私の名前が抜けている」というのは、私の名前が「脱落」していることだ。

「脱ぐ」という動詞は着衣に関する語だけれど、そもそも奈良時代には濁音でなく「ぬく」と発音したらしい。 
ひょっとすると「抜く」と「脱ぐ」は同根なのかもしれない。

困難な事態を打開するためには、「切る」という暴力的な方法と「抜く」という平穏な方法がある。
状況に応じて「切る」と「抜く」をうまく使い分ける人が人生の達人なのかもしれない。

果たして「切る」と「抜く」の違いという難問を、うまく「切り抜ける」ことができただろうか?

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2019年5月26日 (日)

「切る」と「抜く」(その4)

ここ数回、「切る」と「抜く」というふたつの動詞の違いを考えてきた。
それも、根源的、核心的な意味の違いを考えてきた。

その結果わかったことは、「切る」という動詞の背後には、何らかの達成感とこれに伴う爽快感が存在するということだ。

これに対して、「抜く」という動詞の背後にあるのは穏やかな充実感とこれに伴う安ど感である。

このことは多くの用例を参照してみればわかる。

最初に例に出した「42.195キロを走り切る」という表現に、その達成感、爽快感がよくあらわれている。

ほかにも、「札びらを切る」、「見得を切る」なんて言い方がある。
こんな行為をする人はさぞ気分がいいにちがいない。

「思い切る」とは、いつまでもうじうじ考えていないで決断することである。
このシリーズの最初にもお話ししたように、「切る」は「断つ」や「絶つ」ともつながっている。
「切断」という漢語があり「断絶」という漢語もある。

決断の結果はどうであれ、思い切った瞬間は爽快感を感じる。

「あの人は頭が切れる」という表現もある。
そういう人には鋭角的な印象がある。
頭が切れるから、物事をてきぱき処理することができる。
さぞかし気分の良いことだろう。

よく冷えたおいしいビールをほめるときに、「このビールには切れがある」という言い方をする。
ビールという液体が切れるとはなんとも不思議な表現だけれど、わたしたちはこの表現をなんの違和感もなく理解できるし、その感覚を共有することができる。
不思議な現象だけれど、それも「切る」という動詞の原初的な力のなせるわざだ。

他動詞「切る」、自動詞「切れる」は基本動詞だから、実に多様な使われ方をする。
上例のほかにも、まだまだ意味用例がある。

「ハンドルを右に切る」という。
ハンドルを切断するわけではないが、そういう言い方をする。
直進の継続をそれによって断つことになるのでそういう言い方をするのだろうか?

カードをシャッフルすることをカードを切ると言うし、その中の最強カードを「切り札」と言ったりする。
切り札を場に投入した人はさぞかし気分がいいことだろう。

蓄えていた砂糖がなくなったとき「砂糖が切れた」という。
存在がそこで断たれるから、こういう言い方をするのだろうか?

みんなが沈黙する中で、突然誰かがしゃべりだす。
こんなとき「口火を切る」という。
これもそこで長く続いた沈黙が断たれるからだろうか?

「明日の朝は冷え込んで最低気温は零度を切るでしょう」と気象予報士が言う。
何らかの限界、節度を越えた時にも「切る」という動詞が用いられる。

思いつくままに「切る」の用例を考えてみた。
ここでは「切る」の原義にこだわったのだけれど、もっとも根源的、核心的な意味がどうやって拡大し、現在の多様な用例に広がっていったのだろう?
そのプロセスを研究している人はいるのだろうか?

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2019年5月19日 (日)

「切る」と「抜く」(その3)

前回は、ふたたび言語の起源の周辺に迫る決意表明をした。
しかし前回と同じ方法をとっては芸がない。

そもそも言語の起源に挑戦する!なんて大風呂敷をひろげるから収拾がつかなくなるのだ。

そこで今回は、もう少しつつましくアプロ―チしたい。
つまり、言語一般の起源なんていわず、対象を絞り込みたい。

さしあたりわたしたちになじみ深い日本語に絞り込みたい。
しかも日本語全般でなく、動詞に絞り込みたい。
さらに動詞全般でなく、「切る」と「抜く」というたったふたつの動詞に絞り込みたい。

絞りに絞って、ここまで絞ったらさすがにみなさんにもお許しいただけると思う。

さて、「切る」と「抜く」だけれど…。

「走り切る」と「走り抜く」のように、事実としては同じことを表現していても、微妙にニュアンスの異なる場合がある。

ゴールにたどり着いたとき、マラソン走者は無意識のうちにどちらかのことばを口にする。
そのときのかれの心のありようがどちらかの表現を選択させる。
そしてまたその心のありようが無意識のうちに聞き手にも伝わるのだ。

話し手と聞き手の間で行われる無意識の心のコミュニケーション。
そこでは、語のもっとも原初的、核心的な意味が働いていると思う。

だから、これらの動詞のもっとも原初的、核心的な意味用法に迫りたい。

これらの動詞が成立した時、人びとは「き・る」あるいは「ぬ・く」という音節の組み合わせでどのような行為を指そうとしたのか、どのような状況で発話しようとしたのかを知りたい。

途方もない企てだけれど、少しずつ考えを積み重ねてゆくしかあるまい。

むかしは万事素朴だったから、「切る」も「抜く」も物理的、具体的動作を指す語として誕生した。
これは論証抜きの直感的判断だけれど、みなさんにも同意いただける思う。

木を切って火を起こす。
獲物の肉を切って家族に分け与える。
あるいはイモの根っこを抜いて栄養を取る。

そうやって、人は命をつなぐ。

この段階での「切る」と「抜く」の違いと言えば、「切る」はなにがしか事物の破壊を伴うのに対して、「抜く」は事物の原型を温存したままわがものにする、という違いがあると思う。

事物の破壊には程度の差はあれ強い意志の力が必要だ。
そして、その意志が達成された時、人は何らかの爽快感を感じる。

一方、「抜く」のように破壊を伴わない行為は、心穏やかにできる。
爽快感はない代わりに、しみじみとした充実感がある。

強い意志力、決断力か心の穏やさか?
爽快感かしみじみとした充実感か?

「切る」と「抜く」のもっとも原初的、核心的な差異はここにあると思う。

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