2017年4月22日 (土)

季節とことば

窓から見下ろす近所の公園の桜。
例年より少し遅い満開も過ぎて、いま、散り始めている。
いまは春だけれど、もう少しこまやかにこの季節を表現するとすればどのようなことばがふさわしいだろう?
春爛漫?
春たけなわ?
もう少し季節が進んで、4月の終わりからGWにかけてになると、初夏の風が吹き始める。
新緑がまぶしくなる。
そうなると、春爛漫にしろ春たけなわにしろ、語感として少し時期遅れだ。
なべて物事には始まりがあり、盛りがあり、終わりがある。
四季もそうである。
しかし、それを言い表すことば遣いはなぜか異なる。
たとえば、春たけなわ、秋たけなわとは言うけれども、夏のピークや冬の底にはこの表現は用いない。
盛夏といい、厳冬という漢語を使う。
たとえば、春のはじめ、まだ冬の気配が濃厚に漂っているころ、わたしたちは早春という語を用いる。
しかし、夏秋冬のはじめのころを、早夏、早秋、早冬とは言わない。
初夏、初秋、初冬という。
逆に初春といえば、お正月のころを意味する。
つまり、「早」は春にしか結合しない。
もうひとつ、同じような例をあげてみたい。
「浅い」という形容詞がある。
「春まだ浅い今日この頃、みなさまお変わりなく…」などと手紙に書いたりする(最近はあまり書かない?)。
しかし、この形容詞は夏秋冬には使えない。
9月初めのころ、「秋まだ浅い今日この頃…」などと手紙に書いたりすると、相手に笑われる。
反対に、「深い」という形容詞は秋にぴったり結びついている。
秋深し 隣は何をする人ぞ
中緯度地方の国々では、移り変わる季節をだいたい4つに均等に区分している。
そして、四季の間に序列を設けていない。
四季のうち、特に夏がえらいというわけではない。
また、季節の好みも人それぞれだ。
私は秋が好きだけれど、夏が大好きという人もいる。
特定の季節に人々の人気が集中しているわけでもない。
それなのに、どうして季節と結びついたことば遣いに違いが生まれるのだろう?
なぜ、「早」は春にしか結びつかず、「深い」は秋にしか結びつかないのだろう?
この疑問を深く掘り下げていくと、季節に対するわたしたちの秘められた感覚が明らかになると思う。
また、逆に「早」や「初」、「深い」や「浅い」という語の原義も明らかになるのではないだろうか?

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2017年4月16日 (日)

季節と色

前々回は、「青年」と並んで「青春」という語にもふれた。
四神思想に基づけばたしかに春は青なんだろうけれど、わたしたちの実感からすれば「緑春」と言いたいところだ。
しかし、青春という語があまりにも定着しすぎているために、いまさら「緑春」と言い換えることもできない。
四神思想によれば、青春のあとに朱夏、白秋、玄冬と続く。
夏は太陽の季節だから、朱夏という表現はよくわかる。
玄冬はどうだろう?
冬は色に乏しく、日照時間も短く夜の帳が早く下りる、という点で黒で象徴するのはわからぬでもない。
白秋と言えば、北原白秋を思い出す。
秋霜烈日、晩秋におく霜の白さで秋を象徴させたのだろうか?
しかし、わたしたちの実感からすれば、錦秋という語のほうが一層しっくりくる。
錦自体は色の名前ではないけれど、錦と言えばわたしたちは赤や金の紅葉が織りなす絢爛たる色模様を連想する。
それが秋のイメージに直結する。
念のため明解国語辞典を開いてみたところ、「錦秋」はなく「錦繍」しか出ていない。
あわてて広辞苑を引いてみると、こちらには「錦秋」が出ていてホッとした。
広辞苑では、「紅葉が錦のように美しくなる秋」とある。
うーむ。
どうやら、本来は特に季節とはかかわりのない「錦繍」であったようだ。
それをどうしても秋の形容に使いたい人がいて、同音であることを幸いに「繍」を「秋」に入れ替えたのが真相であるらしい。
いまでは、「きんしゅう」と聞けば、ほとんどの人が「錦秋」を思い浮かべる。
そもそも私など「錦繍」という語の存在をいまのいままで知らなかった。
ワープロでも「錦繍」は変換候補に出てこない。
「錦繍」としては、庇を貸して母屋を乗っ取られた格好だ。
少し横道にそれてしまった。
秋を白で象徴するのはいかがなものか、というお話だった。
雪の季節、ということを考えれば「白秋」よりも「白冬」のほうがふさわしいかもしれない。
特に雪国の人なら、一層その感じが強いと思う。
いずれにしても、季節と色の結びつきを理屈で理解しようというのは詮ない試みだと思う。
詩的、宗教的な視点から解読すべきものだろう。
しかし、悲しいかな私にはその素養が欠けている。
ともあれ、季節や方位と色、それも基本4色名を結びつける考え方は、四神思想が及ぶ漢字文化圏だけだろうか?
それとも、他の言語圏でも類似の現象がみられるのだろうか?
もしそうだとすれば、人間の思考に及ぼす色覚の役割をもっと本格的に考究すべきだろう。

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2017年4月 9日 (日)

ナショナリズムと色彩

少し前に、色彩の選好に関して大がかりな国際共同研究の提案をしたのだけれど、おぼえていらっしゃるだろうか?

どなたもやる気がなさそうなので、私みずから取り組むことにした。
ただし、大規模なものではなくほんのささやかな研究である。

とりあえず、国旗に目をつけてみた。

国旗はある意味ナショナリズムの象徴だから、国旗に採用される色彩についてはその国民の選好が反映されるにちがいないという仮説から出発する。

ネットで「世界の国旗」を検索する。
すぐにお目当ての国旗一覧があらわれる。

圧倒的に赤が目につく。
日の丸もその例にもれない。

赤は命と活力の象徴だから、国旗に採用されるのはまことにもっともだ。
赤は興奮色だから、ナショナリズムを鼓舞するためにも都合がいい。

出征兵士の壮行会でも、友人知人が日の丸に名前を寄せ書きした。
私の家の納戸にもそれがしまってあったことをおぼえている。

赤は血の色でもある。
人々の血であがなった独立を忘れまい、という気概を国旗に込めた国もあるだろう。

次に目につくのは緑である。
国旗における緑は、大地の象徴だろう。

国民国家の基盤は何といっても土地だから、それを象徴する緑が選好されるのもなるほどである。
それにしても、特にアフリカ諸国に多いのは何を意味しているのだろう?

何かと緑と張り合う青だけれど、国旗に関してはそれほど目立たない。
やはり寒色であり鎮静色であることが人々に敬遠されるのだろうか?
その証拠に、青系が採用されても深い青より明るい青、どちらかと言えば水色に近い色彩のほうが多い。

案外がんばっているのが黄色である。
日本では、ややエキセントリックな色としてあまり評判がよくないけれど、国旗に取り入れている国は多い。

国旗における黄色がなにを象徴しているのか分からないけれど、他の色とのコンビネーションがいいのかもしれない。
たしかに緑と黄色のコンビネーションはあざやかである。

赤、緑、黄色、さまざまな青、そして地としての白…。
その組み合わせで、国旗はできている。

灰色、茶色、ピンクは出る幕がない。
鮮度の低いどっちつかずの色彩として、人々に嫌われている。

国民に対して、何らかの価値を強くアピールする。
それが国旗の使命である。
そのために、特定の色彩が動員されている。

赤と緑が人々のナショナリズムを強く刺激する色彩である。
それがこの国旗小研究の結論だ。

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2017年4月 2日 (日)

青と緑(その5)

「青年」という、わりによく使われる漢語がある。
和製漢語ではあるまい。

青という漢字そのものに「若い」という意味がある。
だから、十代後半から二十代の人たちを指して青年という。

和語の「あお」は、その若さをネガティブにとらえて「未熟」という意味をもつ。
だから、青二才なんていう。

緑という漢字には「若い」という意味はないようだ。
しかし、和語の「みどり」は若さを感じさせる。

しかも、青とちがってその若さを肯定的にとらえている節がある。
春になって草木が芽ぶき、初夏になって若葉がそよぐ。
そのみずみずしい生命力を緑が象徴する。

だから、「みどりご」なんてことばもある。

そう思えば、「青年」のかわりに「緑年」という和製漢語をでっちあげてもいいような気がする。
シルバーエイジが中高年を指すのなら、グリーンエイジということばで若い世代をあらわしてもいい。

ところで、わかばマークは緑と黄色で構成されているけれど、緑のかわりに青を使うというアイデアはどうだろう?

「私の運転は未熟だから、後続車の方は気をつけてね」というメッセージを送るのなら、青のほうがふさわしい気がする。
しかし、「いまは未熟だけれど、若いからすぐ上達するので大丈夫!」というメッセージを送りたいのなら、緑でもいいようにと思う。
みなさんのご意見はどうだろう?

ところで、「青年」は若い人々の意味だけれど、どうしても若い男をイメージしてしまうのは私だけだろうか?
青年実業家、ということばもあるけれど若いエネルギッシュな男性の姿しか浮かんでこない。

事実、広辞苑を開いてみると「多く、14,5歳から24,5歳の男子をいう」とある。
明解国語辞典も「単独で使う場合は男性をさすことが多い」と解説している。

やはり、青という寒色系の語彙が女性にそぐわないのだろうか?

「青年」のほかに「青春」ということばもよく使われる。
「青春」と聞くと、男性だけに限らず若い男女を思い浮かべる。
やはり、春という暖色系の語が加わることによって男性オンリーのイメージが打ち消されるのかもしれない。

わかばマークが話題になったので、おまけとしてもみじマークにもちょっとふれておこう。

むかしは赤と黄色の紅葉をイメージさせる配色デザインだった。
しかし、数年前からクローバーにデザインが変更された。

配色もうすみどり、ふかみどり、だいだい、黄色の4色になった。
新しく追加された緑系は、「若さ」ではなく「安全」をアピールするためだろうと私は解釈しているのだが、いかがだろう?

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2017年3月26日 (日)

青と緑(その4)

色は光の中に秘められている…。
くりかえし私はそう言ってきた。

だから、光を分光器にかければ色のスペクトルが得られる。

赤橙黄緑青藍紫。
そんな呪文めいたことばで、わたしたちはスペクトルの順番をおぼえている。

色をあらわす光の波長は連続量である。
だから緑と青は隣り合っているけれど、はっきりした境界はない。

緑の世界があり、緑のようでもあり青のようでもある領域を通過して、青の世界に至る。
光の世界を旅していると、生命を感じさせる緑の世界から、いつのまにか深い青の精神世界に包まれていることに気がつく…。
そんな感じだろうか?

緑の絵の具と青の絵の具を同量まぜあわせると、どんな色になるだろう?

「あおみどり」という色名があるけれど、あんな色になるのだろうか?
実際に絵の具を買ってきて実験してみればすぐにわかることだけれど、あいにくその時間がない。

いずれにせよなんとなくくすんだ感じがして、魅力がない。
緑でもなく青でもないどっちつかずの立ち位置がわざわいしたのだろうか?

緑青、ろくしょうということばもある。
銅の表面に生じるさびである。
どう見ても明るい緑で、青を感じる余地などないのに、どうして青がくっついているのだろう?

青緑といえば、英語ではシアンというそうだ。
シアンに加えて、マゼンダ、イエローというのもある。
パソコンのインクでおなじみだ。

このシアンとマゼンダ、イエローが色材の三原色になる。

シアンとマゼンダを混ぜると青ができる。
シアンとイエローを混ぜると緑ができる。
マゼンダをイエローと混ぜると赤ができる。
そして、三つを混ぜると黒になる。

逆に、こうして生まれた青、緑、赤が今度は光の三原色になる。

青と赤を混ぜるとマゼンダができる。
赤と緑を混ぜるとイエローになる。
緑と青を混ぜるとシアンになる。
そして三つを混ぜると白になる。

色と光の世界にも神さまが仕組んだ予定調和が働いているのだろうか?

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2017年3月19日 (日)

青と緑(その3)

前回の記事をお読みになった方は、「こいつは青に肩入れしているな」と感じられたかもしれない。

正直に告白するけれど、色とことばを訪ねるこの長い旅のおわりに、私は青の精神性を再発見したような気分になっている。
だから、青にひいきしていると受け取られても否定することはできない。

はじめにお話ししたことだけれど、青と緑は同類である。
逆にだからこそ何かと張り合う関係にある。

好感度からすれば、緑のほうが上かもしれない。
しかし、私のように青に比べて緑は俗っぽい、と感じる人間もいる。

実際のところ、青と緑はどちらの方がえらいのだろうか?
たとえば、任意に100人を選んで「青と緑、どっちが好き?」というアンケートを取ったらどんな結果が出るだろう。

世代によって、男女によって、あるいは国によって違う傾向が出るかもしれない。
興味深い。

青と緑の選好に関して、どなたか大がかりな国際共同研究をやっていただけないだろうか?
あるいはすでにそんな研究がおこなわれているのなら、ご教示を賜りたい。

単に人々の選好だけでなく、青と緑はさまざまな視点から比較研究することができる。
たとえば、他の色との組み合わせを考えてもいい。

他の色との組み合わせといえば、次のような歌がすぐに脳裏に浮かぶ。

「白鳥はかなしからずや、海の青、空のあをにも染まずただよふ」

大空と大海原をひとまとめにした青い大きな空間。
一羽に小さな白い鳥が、その空間を漂っている。

青と白の色彩のコントラストが何とも印象的である。
青の世界に同化できない小さな白鳥は、孤独なのかもしれない。

この青を緑に置き換えた場合、どんな詩ができるだろう?
あざやかな新緑の森の小径を、真っ白なドレスと帽子をかぶった娘が散歩している情景を想像してもいい。

若山牧水なら、緑と白のコントラストから生命の躍動を歌い上げるかもしれない。
そこへゆくと、青と白のコントラストは静謐である。

うーむ、甲乙つけがたい。
結局、人それぞれの好みの問題に帰着する問題かもしれない。

「春を愛する人は…」から始まって四季を比較する歌があったけれど、「青を愛する人は…、緑を愛する人は…」という歌があってもいい。

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2017年3月12日 (日)

宮沢賢治と青

宮沢賢治の童話、それほどたくさん読んだわけではない。
それでも賢治と聞くと、なぜか青色を連想してしまう。

賢治とは関係ないけれど、松本零士さんの「銀河鉄道999」の影響だろうか?

もちろん、メーテルの長い金髪や登場するキャラクターの衣装をはじめさまざまな色があらわれるけれど、何となく青が支配しているような雰囲気がある。

銀河鉄道が疾走する虚空は印象的な濃紺に描かれている。
憂いを含んだメーテルの表情も、青に結びつく。

そうそう、賢治の作品に戻らなくちゃ。

静まりかえった虚空に街灯がひとつ、青白い燐光を放っている。
そんなイメージ。

どうして宮沢賢治とそんなイメージが結びつくのか、自分でもよくわからない。
断片的に読んだ賢治の文章がそんなイメージを育んだのだろうか?

たしかに賢治の作品には色彩語がよく登場するし、その中でも青が主調をなしているような印象がある。
賢治が生まれ育った花巻周辺、北上地方の風土が賢治の心を青く染め上げたのかもしれない。

むかし、私も八月の終わりのころ北上地方を訪れたことがある。
夏だというのにうすら寒かった。

深く青い東北地方の空、その空の色を映す北上川…。
寒色の青が、北上地方によく似合うことが身にしみてわかった。

この色彩と言語シリーズのはじめのほうで、青と緑を比べてみたことがあった。

青は抽象的でその分精神的。
緑は具体的で即物的。

緑色は、そこらへんにある木の葉っぱをちぎることで簡単にその色をみずからの手で確かめることができる。
しかし、青はそうはいかない。

空の青にしろ、海の青にしろつかみどころがない。

空が青いのも、海が青いのも何ひとつ事物の裏付けがあるわけではない。
わたしたちの感覚がそう信じているにすぎない。
ひょっとすると幻かもしれない。

だから、青は精神的なのだ。
だから、青は文学によく似合うのだ。

文学だけでなく、芸術全般によく似合う。
ピカソにも青の時代があった。

そう考えると、宮沢賢治と青の結びつきも納得できる。

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2017年3月 5日 (日)

金色と銀色(その2)

金色と銀色には、マンセル値がない。
したがって、色ではない。
物体表面の光学的状態をあらわしているにすぎない…。

色彩学の見地からはそんなふうに片づけることができるかもしれない。

それでも、金色と銀色はわたしたちを魅了する。
金と銀をめぐって、悲喜こもごもの物語が歴史上繰り返されてきたことをわたしたちは知っている。

金と銀は貨幣の姿をとってわたしたちを誘惑する。
装身具や装飾品として、ステイタスを誇示する小道具として用いられる。

ただし、金ぴかや成り金ということばもある。
やりすぎると品を落とす。
その意味であやうい位置にあるということもできる。
その点、黒のほうが高貴さを演出する色としてはうわ手かもしれない。

それはさておき金と銀が人を魅了するのは、とにもかくにも「輝き」を放っているからだ。
「輝き」がなければ、金も銀もただの黄色や灰色と変わらない。

前回もお話ししたことだけれど、「輝き」という現象はわたしたちの「まぶしい」という感覚とセットになっている。
「まぶしさ」を感じなければ、「輝き」という現象も成立しない。

「まぶしい」という形容詞は「まばゆい」ともいう。

この場合の「ま」は、「目」の意味だろう。
目に過剰な光が映えて(はゆる)、まぶしいのだ。

あまりにまぶしいと、わたしたちは目を閉じたり顔をそむけたりしなくてはならない。
その意味で輝きには、攻撃的な性格がある。

まぶしさをもたらす光源は金や銀である。
お日さまである。
あるいは若さであったり美しさであったりする。

その圧倒的な、攻撃的な輝きをわたしたちは直視していられない。
つい頭を下げ、恐縮する身ぶりをとってしまう。
そういえば、時代劇でも殿様が家来に「頭を上げい」と命じている。

金と銀が人々を魅了するからくりがわかったような気がする。

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2017年2月26日 (日)

金色と銀色

金色 銀色 桃色吐息…。

前々回、ちょっと登場した高橋真梨子さんの「桃色吐息」にはこんなフレーズもあった。
桃色を導き出すために、金色、銀色が用いられている。

この作詞上の技巧についても考察したいところだけれど、いまは色がテーマだから残念ながらパス。

金色と銀色について考えてみたい。

色名としては、事物の名を借りて色の名前とするありふれた方式である。
金塊の色が金色だし、虫歯にかぶせた金属の色が銀色である。

問題は、色彩学の体系の中で金色、銀色をどう位置づければいいか、ということだ。

前回、色は光の中に隠れている、というお話をした。
しかし、光のスペクトルの中に金色、銀色はない。
つまり、金色、銀色は固有の波長を有していない。

だとすれば、金色、銀色は色ではないのだろうか?
白や黒は色ではないのだろうか、という疑問とはまた違った意味で疑問が広がる。

金塊に光を当てれば、金色に輝く。
銀の食器に光を当てれば、同じように銀色に輝く。

前回は、「もの」は光と出会うことによって「いのち」を得て、光の中にある「いろ」を顕現させるというメカニズムをお話しした。

しかし、金色や銀色は光のスペクトルの中にはないのだ。
じゃあ、この色はどこから発するのだろう?

金色や銀色が、赤や青や緑などふつうの色とちがうところは「輝き」である。
ここに問題を解くカギがありそうな気がする。

この「輝き」の物理的実体は何だろう?

金属光沢、といって片づけている人が多い。
つまり金属に光を当てた時の反射が「輝き」の実体だというのだ。

じゃあ、黄色に金属光沢を加えれば金色になる?
灰色に金属光沢を加えれば銀色になる?

余りにも安易な考え方と思う。
もう少し、「輝き」という現象を掘り下げねばなるまい。

「輝き」という現象が成立するためには、人間側の「まぶしい」という感覚とセットにならなければならない。
だから、金属だけでなく太陽も輝いているのだ。

そう考えると、「輝き」は物性の問題ではなく人間の認知の問題なのでなないかと思われてくる。

金色、銀色は光のスペクトルには含まれていない。
その意味では色の異端児だ。
そのかわり、人間の認知のあり方や価値観と深く結びついている。

金色、銀色は輝いている。
そして、人々はその輝きに魅せられている。

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2017年2月19日 (日)

色即是空

前にも言ったことだけれど、もしこの世に色がなければどれほど味気ないことだろう。
ひからびた、生気のない、色あせた世界…。

そんな世界にわたしたちは生きたくない。
初期の電気工学者や技術者たちがカラーテレビ開発にかけた情熱がよくわかる。

この世の「もの」には色がある。
というより、色は光の中に隠れている。

「もの」は光によって「いのち」を与えられ、光の中の「いろ」を顕現させるのだ。

そう考えれば、この世に存在する生き生きとした「もの」を「いろ」ということばで言い換えてもそれほど見当外れではない。
こうして、「いろ」は「いのち」ある「もの」をはるかに超えて、この世の「かたち」ある「もの」すべてをあらわすことになる。

般若心経にある色即是空の「色」は、そんな意味だろう。

だから、伊藤比呂美さんは

「色不異空」について、「『ある』は『ない』にことならない」
「色即是空」について、「『ある』と思っているものは じつは『ない』のである」

と訳している。

こうして「色」はセクシュアルな意味をはるかに超えて、この世の存在物そのものまで意味するようになった。

般若心経は、その「色」が「空」なのだという。
「ある」は「ない」のだという。

うーむ。どうしたものだろう?
かくなる上は「空」とは何かを明らかにすべきだけれど、私のように修行の足りない身の上では到底理解できない気がする。

かりに「空」をふつうの意味での「ない」と解釈すればどうなるか?

「色」はセクシュアルな意味も帯びているので、あまり「色」にこだわるとわたしのような凡人は心にさざ波が立つ。
つまり煩悩が生じる。

そこで、般若心経の教えに従って「色」=「空」と観じることによって「色」へのこだわりが消え、苦しみも迷いもなくなる、ということだろうか?

しかし、これは安易にすぎる解釈のような気がする。
悟りの境地はそう簡単には得られないはずだ。

「色」について、「空」についてまだまだ勉強が足りないことを痛感する。

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