2012年5月19日 (土)

究極の選択(その3)

前々回は突如独裁者があらわれた。
前回はいきなりアンケートをつきつけられた。

発端はともあれ、文字言語と音声言語のどちらか一方を選べ、という究極の選択を迫られたのだ。

こうなると、人はいやでも双方の比較対照をせざるを得ない。
これまで考えてもみなかったことだ。

しかし、考えはじめてみるとこれがきりがない。

話しことばは共同行為、書きことばは単独行為。

音声言語は熱いことば、文字言語は冷たいことば。
音声言語は神聖なことば、文字言語は世俗のことば。

音声言語ははかないことば、文字言語は永遠のことば。

話しことばは自然児、書きことばは優等生…。

などなど、対比はいくらでも思いつく。

その上、選択の決め手は容易に見つからない。
試みに、二手に分かれてディベートをやって見ればいい。
きっと、議論はいつ果てるともなくえんえんと続くだろう。

こんなことでは、独裁者が与えてくれた1か月の猶予期間はあっという間に過ぎてしまいそうだ。

本当にこの独裁者が架空の存在でよかった…。

そもそも、ことばの世界のこのふたりはどんな関係にあるのだろう?

少し前には、ふたりの関係をうんと年の離れた兄弟にたとえたこともあった。
しかし、それにしては上で考えたようにその対比はあまりにも鮮やかだ。

ひょっとすると、このふたりは兄弟なんかではなく赤の他人かもしれない。
他人同士が同じことばの世界で時に手を結び時にいがみ合って共存している、というのが真相かもしれない。

独裁者とアンケートのおかげで、思わぬことを考えてしまった。

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2012年5月13日 (日)

究極の選択(その2)

いまわたしたちは話しことばと書きことばを当たり前のように併用して毎日を暮らしている。

だから、前回のように突然独裁者があらわれてどちらか一つだけを選べと迫られる事態など考えてもみない。

それだけにその究極の選択には、ふだん表には出てこないわたしたちの言語意識があらわになる。

何も独裁者の布告でなくていい。
簡単なアンケートでもいい。

「あなたは書きことば、話しことばのうち、いずれか一方だけ使用を許されるとしたら、どちらを選びますか?」

アンケートなら、まずこんなふうに質問文を提示する。
そして、付属のフェイスシートに性別、年齢、職業、居住地域などを記入してもらう。

集計結果が楽しみだ。

書きことば派、話しことば派、どちらがどれくらいの割合を占めるだろうか?
さらに、性別、年齢、職業、居住地域などによってどのような違いがあらわれるだろうか?

このアンケート構想は対象を日本語集団に限らない。
英語圏、中国語、マレー語、ハンガリー語などさまざまな言語圏で同じようなアンケートを実施すればいい。

そして、結果を横断的に比較分析してみる。
言語圏によって、有意の差があらわれるだろうか?

「文字言語は音声言語のしもべ」
そんな風に伝統的に音声言語優位の価値観を持つ欧米諸語では、話しことば派が多数を占めるだろうか?

漢字で国家としての一体性を確保しているところのある中国では、書きことば派が優位に立つだろうか?

それとも、言語圏や文化圏の違いを超えて、現代文明を支えているのは文字言語だという共通認識が人々の間で出来上がっているのか…?

はたまた、人間を人間たらしめているのは音声言語だという根源的な信念が文明生活を犠牲にすることも辞さないのか?

このアンケートを通じて得られる知見は少なくないと思う。
ひょっとしてもうだれかがやっているだろうか?

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2012年5月 4日 (金)

究極の選択

このブログでは時々ありえない想定をして、みなさんを困惑させることがある。

今回もそんなパターンになりそうなので、あらかじめお詫びしておきたい。

たとえばいま、この国に超独裁者があらわれて次のような布告をしたとする。

「下々の者が話しことば、書きことばを二つながら使用するとはまことにぜいたく千万、これより後はいずれか一方のみ使用を許すこととする。1月の猶予を与えるゆえ、みなの者よくよく考えて役所に届け出るように」

大変な事態になったものだが、人々がどのような割合でどちらを選択するか、これはなかなか興味ある問題である。

みなさんならどちらを選択されますか?
そして、どんな結果を予想されますか?

やはり、つきあいの長い音声言語が多数派を占めるのだろうか?

何といっても人類史の大部分は文字などなかったのだ。
それでも結構きげんよく人間たちは暮らしていた。
竪琴をかき鳴らしながら吟遊詩人が語る英雄物語を愉しんで日々を過ごしていた。

問題は文明の停滞、退行に耐えられるかだが…。

それとも、文字言語の力に人類の未来をかけるだろうか?

情報処理、情報伝達技術の進歩によって、文字によるコミュニケーションの不便さも軽減されるかもしれない。
それに技術の進歩も文字なしではありえないのだ。
音声言語でなくテレパシーでコミュニケーションする宇宙人もいると聞く。
それと同じようなものだと割り切れば、話しことばのない生活も案外悪くないかもしれない。

さりとて、話しことばが聞こえない沈黙の社会にわたしたちが耐えられるものかどうか…。

独裁者うんぬんはたわむれの想定だけれども、アンケートのような形ででもやってみる価値はある。
人々の言語意識、言語に対する価値観が浮き彫りにされると思う。

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2012年4月28日 (土)

文字言語の嫉妬

前回わりに簡単に結論が出たように、書きことばは話しことばよりも強い。
何しろ編集権を手中に収めているのだから。

しかし強者である文字言語が弱者である音声言語に注ぐまなざしは複雑だ。

たしかに書きことばから見れば話しことばなんて欠陥だらけだ。
話しことばをテープに取りそれをありのままに文字化したものを読んでみると、そのことがよくわかる。

そのでたらめさ加減に唖然としないではいられない。

それでいて、わたしたちの日常の暮らしの中では話しことばは依然として主役を務めている。
主役の座を降りようとする気配もまるでない。

こんなにも不完全、不正確な音声言語がなぜ、どうしてコミュニケーションの主役を張れるの?
文字言語は内心穏やかでないはずだ。

おれたち書きことばの働きがなければ、人間の文化や文明は成り立たない。
そのことは人間だって分かっているはずなのに、人間たちは話しことばに対して妙になれなれしい。

その反面、自分たち書きことばに対してはどこか距離を置いたような、構えたような態度が見え隠れする。
文化や文明のためにこれほど貢献しているにもかかわらず…。

わたしたちの日ごろの言語生活を内省してみると、この文字言語のひがみもわからぬではない。

たしかに、わたしたちはまるで空気を呼吸するのとおなじように、屈託なく話しことばをやり取りする。
それに対して、手紙であれメールであれブログであれ、文字による表現になるとひと呼吸置いて慎重にならざるを得ない。

話しことばは熱いことば。
書きことばは冷たいことば。

わたしたちはどこかでそう感じている。
たしかに、話しことばは熱い吐息とともに口から発せられる。

音声言語は生命力にあふれたことば。
文字言語は干からびて静止したことば。

そんな風にも思っている。

規範に忠実な優等生が自由奔放にふるまう自然児に対して時として感じる羨望と嫉妬…。
それと同じ屈託が書きことばにもあるのかもしれない。

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2012年4月20日 (金)

自然児と優等生のバトル(その2)

前回の自然児と優等生のバトルは容易に決着がつかなかった。

前回のバトルは、どっちが「えらい」かという価値判断を求めるものだったので、事態が紛糾したのも無理はなかった。

しかし、どっちが「強い」かという事実認定の問題なら、わりにすんなりと結論が出るのではないか?

今回のバトルの発端になったのは、NHKニュース番組の文字表記だった。

画面に登場する人物が何かを話し、それが画面下に文字として表記される。
つまり話しことばから、書きことばへの変換である。

その変換の過程で、必ず「編集」が行われる。

「あのー」とか「えーと」とかの「無意味な」(と書きことばが判断した)間投詞は削られる。
重複や繰り返しも容赦なく削られる。

その一方で、明らかに抜けていることばをカッコつきで「親切に」付け加える。

勝手に言い換えたりもする。
発言者が「野田総理は…」と言っているのに、画面下の文では「野田首相は…」と表記されている。

どうやらテレビや新聞などマスコミでは総理大臣のことを首相と呼びならわす慣例が出来上がっているようだ。
だから実際の発言を無視し、むりやりマスコミの習わしに従わせる。

そんなこんなで、あげくの果てに登場人物の発言とは似ても似つかない文章が画面下にあらわれることになる。

だからと言って、「勝手におれの話を変えてもらっては困る」というクレームを話しことばが書きことばにつけた、という話は聞いたことがない。

編集権はあくまでも書きことばにある。

さてその逆、つまり文字言語から音声言語への変換の場合はどうか?

結婚式で来賓が祝辞を述べるとき、卒業式で校長先生が式辞を述べるとき、かれらは背広の内ポケットからおもむろに奉書紙を取り出して、これを朗読する。

書きことばを一字一句忠実に音声言語に変換する。
たまにアドリブが加わることがあっても、原則として話しことばによる「編集」はあり得ない。

音声言語の優位を主張する立場から、書きことばは話しことばのしもべと言われることもある。
しかし、「編集」という視点から見たとき、話しことばは明らかに書きことばのしもべと言わざるを得ない。

話しことばは書きことばの編集権にたてつくことのできない弱い立場にある。

かくしてどっちが「強いか」の問題はわりに簡単に結論がでた。
しかし、「強い」ことが即「えらい」につながらないところに、ことばの世界の奥深さがある。

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2012年4月13日 (金)

自然児と優等生のバトル

広々としたことばの平原を自由に駆け回る自然児、何とかこいつを馴致しようと必死で追いかける優等生…。

話しことばと書きことばの関係を、前回はそんなふうにイメージしてみた。

ところで話しことばと書きことばは、結局のところどっちのほうが「えらい」のだろうか?

聖書によれば、ことばは人類誕生よりはるか以前、天地開闢の時すでに在った。
なにしろ、神さまは「光あれ」という「ことば」を発して天地創造を始めたのだから。

これに対して、文字の歴史はどんなにさかのぼっても1万年に届かない。

かりに音声言語と文字言語とは兄弟の関係にあるとすれば、文字言語ははるかに年の離れた弟だ。
長幼の序を尊重するならば、音声言語のほうがうんとえらいことになる。

しかし、この単純な結論は世の常識と少しずれているような気がする。
自然児と優等生とでは、優等生のほうがえらい、とするのが世間一般の受け止め方だ。

もう少し別のたとえ方をするならば、文字言語は謹厳実直な先生、音声言語は自由奔放な生徒、ということになるだろう。
学校では先生のほうがえらいに決まっている。

一方で、本当に大切なことは文字では伝えられない、という観念もいまだに根強く残っている。

聖書にせよ、コーランにせよ、お経にせよテキストの形にはなっているものの、朗読、朗唱することによってはじめてありがたみが出る。

なにしろ「聖」の文字は「口」と「耳」でできているのだ。
「目」や「手」によって神聖なことばを伝えることはできない、という人々の意識があらわれている。

もともと文字は市場における取引の備忘のために発明された、という説もあるくらいだ。
そんな世俗の文字に神聖なことばはふさわしくない。

とすれば、やはり音声言語のほうがえらい、という結論になる…。

と結論を急ごうとすると、またしても文字言語派から反論の火の手があがる。

人間にとって文化、文明は必須のものだけれど、そもそも「文」は書きことばをあらわしているのだ。
「文」がなければ、人間はいつまでたっても悲惨な野蛮状態から抜け出ることはできないじゃないか!

かくして、「どちらがえらい?」のバトルは容易に決着がつかない。

そもそも文字言語と音声言語のどちらがえらいかなんて比較に何か意味でもあるの?

そんな声が聞こえるのも無理のないことだけれど、この言語表現のふたつの形態とその関係を考える上では、それはそれで役に立つバトルだと思う。

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2012年4月 6日 (金)

自然児と優等生

前回、ラカンの難解文と格闘する中でふと浮かんできたのが、書きことばと話しことばの対照だった。

文字言語と音声言語の対照は、たとえばNHKテレビのニュース画面を見ていても実感することができる。

民放のテレビ画面における文字の跳梁については、このブログで言及したことがある。
もうずいぶん昔のことだから、みなさんご記憶にないのも無理はないけれど…。

本当なら、そのあと民放との対照でNHKについても触れるはずだったのが、なぜか話があさっての方向に飛んでしまったので、そのままになってしまった。

あれから何年も経て、思いがけなくもとの地点に戻ってくることになった。
感無量と言わざるを得ない。

あのとき、言いたかったのはこういうことである。

全部が全部というわけではないが、NHKのニュース画面では登場人物の発言が画面下に文字として表示される。
この場合の声による発言とその文字化された表示を比べてみると、文字言語と音声言語の特性のちがいにあらためて深い感慨をもたざるをえない。

画面下の文字表現は、登場人物の発言をありのままに文字化したものではない。
そんなことができるはずがない。

一口にいって、話しことばはでたらめだ。

話しことばはしばしば言いまちがいをする。理屈に合わないことを言う。
話しことばは重複が多いかと思えば、肝心なことを抜かしてしまったりする。
意味のない「あのー」とか「えーと」などの間投詞がひんぱんに混じる。

こんな話ことばを聞きながら、書きことばはぽつりとつぶやく。
「まったく話しことばって奴はどうしようもないな…」

そして、こつこつと「編集」をする。

足らざるところを補い、重複を削除し、不適切なことばを言い換え、話の筋が通るように整え…。

しかるのち、ようやく画面下に変換された文字言語が表示される。
なるほど書きことばによる「編集」のおかげで、文字言語としての体をなしている。

「どう、これなら文字言語として恥ずかしくないでしょ」
書きことばが胸を張っているさまが目に浮かぶ。

あらためて音声言語と文字言語の対照を思う。

話しことばはなにものにも縛られない自然児なのだ。
気まぐれで、でたらめで、それでいて生き生きとしている。

書きことばは「規範」を何よりも尊ぶ優等生だ。
お行儀はいいけれど、融通がきかず堅苦しい。

NHKのニュース画面を見ていると、荒野を自由に走り回る自然児とそれを追いかけて何とか型にはめようとする優等生の姿がつい目に浮かぶ。

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2012年3月30日 (金)

「わける」と「わかる」(その3)

前回は、図書館から借りてきたジャック・ラカンの『エクリⅠ』(宮本忠雄ほか訳)のさわりを、ため息まじりでご紹介した。

前回の例文を、ここに再録しておこう。

「自己からの他人に対する時間性をおびた問い合わせとしてのソフィズムの真理、集合的論理の基本的形式としてのあらかじめする主観的な確言」

たしかに日本語の語彙と文法を用いて書かれているのだけれど、この日本語訳文が伝えようとしている「意味」が本当に「わかる」日本語話者はどれだけいるだろう?

おそらく10人のうち、9人は「わからない」というだろう。

ことばが人から人へメッセージを伝えることを本旨とするなら、この例文はことばとして価値がない、ということになるのだろうか?

しかし、そうでもなさそうだ。

げんに、日本でも訳書として出版され図書館の蔵書におさまっていることを考えれば、本としての価値が認められていることになる。

ただし、その価値は文字言語の形態をとっている場合に限られるのではないだろうか?

はたして人は、話しことばとして上のような例文を口にするだろうか?
原著者であるラカンも、訳者である宮本忠雄さんたちも、講演や座談の場で上のような例文をそのまま話すとは思えない。

もし、例文の通りに話し始めたとしたら、聞き手から待ったがかかるにちがいない。

「ちょ、ちょっと待って。それ、どういう意味?」

そうなると、ラカンも宮本さんも注釈とかみくだきを始めないわけにはいかない。

「つまり、ここで言いたいのはこういうことなんだ…」

文字言語と音声言語が行われる場。
その場を支配している力学は対照的だ。

音声言語の場では、聞き手が主導権を握っている。
「わかる」ために聞き手が求めることを話し手は無視するわけにはいかない。

反対に文字言語の場では、書き手が主導権を握っている。
書き手は読み手が自分の水準まではい上がってくることを求めることができる。

書き手にとって都合がいいことに、難解な本は難解であるがゆえにありがたがられるという倒錯的な現象もある。

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2012年3月23日 (金)

「わける」と「わかる」(その2)

「内容は何でもいいんですが、とにかく難しい本はありませんか?」

先週の日曜日、図書館に行って相談係のおばさんにそう訊ねてみた。

「とにかく難しい本ねえ…。ちょっと待って。」

そう言って書庫に消えたおばさんがしばしののち持ち出してきた分厚い本が、いま私の手許にある。
書名はジャック・ラカン『エクリⅠ』(宮本忠雄ほか訳)。

任意のページを開いてみよう。たとえば次のような文がある。

「自己からの他人に対する時間性をおびた問い合わせとしてのソフィズムの真理、集合的論理の基本的形式としてのあらかじめする主観的な確言」

この本は、全編がこんな調子なのだ。

うーむ、たしかに難しい。
これほど分からない本も珍しい。

相談係のおばさんの判断は実に正しかった。

上の文はたしかに日本語の語彙と文法を用いて書かれているのだけれど、少なくとも私には何を言いたいのか了解不能である。
つまり、分からない。

印象としては、手がかり足がかりのないつるつるの壁が目の前に立ちはだかっている感じ。

前回、わたしたちは「分ける」ことができるから「分かる」のだ、というお話をした。

「手がかり足がかりのないつるつるの壁」は分けるための手だてがない。
だから分からない。

原文はフランス語だそうだ。
フランス語のネイティブが原文を読む場合、少しはましなのだろうか?

日本語訳文と違って、ひとつひとつの語彙の中に手がかり足がかりをつかむことができるかもしれない。
ひとつひとつの語彙の歴史と伝統の中に、手がかり足がかりを発見できるかもしれない。

日本語訳文に移し替えるとき、そのような語彙の歴史と伝統が切り離されてしまう。
だから、ますます分からなくなる。

日本語訳文と言ったけれど、この文では抽象的な漢語の含有率が高い。
漢語はたしかに日本語の語彙として認められているけれども、ありていにいえば中国語である。

わたしたち日本語ネイティブにとっては、和語よりも距離のある語彙である。
このような漢語の羅列が「分からなさ」をいやましにする。

だからといって、上の文を無理矢理やまとことばだけで言いあらわそうとすると、神主さんの祝詞のようになってしまって、なおさらのこと分からなくなる。

上の文は、ひとつのことばを他の言語に翻訳するときの限界を露呈している。

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2012年3月16日 (金)

「わける」と「わかる」

前回記事では、「分節する」というふだんあまり使うことのない漢語を用いた。

この語は平たく言えば、つまり和語で言えば「分ける」ということである。

天地開闢の時、この世界は時間も空間も未分化のカオスだった。

「これでは人間たちも立つ瀬があるまい」

そう考えた神さまは、世界を「分ける」作業に着手した。

手始めに「昼」と「夜」を分け、「天」と「地」を分けた。

分けた証拠に、それぞれことばを与えた。
名付けをした。

さらに、「地」を「海」と「陸」に分け、「陸」を「野」と「山」に分け…。

こうして、神さまがえんえんと「分ける」作業をしてくれたおかげで、ようやく人間の居場所が定まった。

世界に秩序が生まれ、わたしたちにとって世界は認識可能なもの、つまり「分かる」ものになった。

わたしたちは「分ける」から「分かる」。
直面する対象や事態をうまく「分けられない」ときは「分からない」と口にする。

漢語を用いて言いかえれば、「分類する」という行為と「理解する」という認識レベルの関係が、同じ語の他動詞形と自動詞形というかたちでうまく言いあらわされている。

そこへいくと、英語では「分ける」という意味に当たる語(たとえばdivide)と、「分かる」という意味に対応する語(たとえばunderstand)とは、日本語のような類縁関係をもっていない。
語形を見るかぎり、「分ける」という意味の他動詞と「分かる」という意味の自動詞は次元を異にしている。

英語における「分かる」と「分ける」の関係は日本語ほど「分かり」やすくはないようだ。

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