2019年2月24日 (日)

「い」と「ゆ」(その2)

前回は芭蕉の句が登場したけれど、よく似た句がまだある。

行く春を近江の人と惜しみける

私はかねがねこの「行く春」を「逝く春」と表記したほうがいいのではないかと思っている。
そのほうが惜春の思いがひとしお深まるような気がするのだが…。

しかし、「逝く」にすると翌年の春が来ないことになってしまう。
これは困る。

とすれば、「往く」はどうか?
辞書には「往」には戻る予定で行く意味合いがあるという。
これなら安心だ。

しかし再来が約束されているようでは惜春の情が切実でない。

どうもうまくいかんなあ。
芭蕉がこの句をひねったとき、表記上の悩みはなかったのだろうか?

ともあれ以上はいずれも漢字使いの問題。
読みはいずれも「ゆく」がふさわしい。
「いく春を」では話にならぬ。

では、なぜ「い」ではなく「ゆ」なのか?
一般に「ゆ」の音は聞く人に柔和で優美な印象を与える。
だから、女の子の名前には好んで用いられる。
「ゆかり」、「まゆ」、「ゆみこ」、「ゆうこ」など。

その音楽的効果が古典や文学作品では喜ばれたのかもしれない。
古代は「い」よりも「ゆ」が優勢だったというから、今よりも柔和な音世界が楽しめた?

ともあれ春夏秋冬という四季は1年を4等分するものだけれど、ことば遣いの上では平等ではない。
このことは少し前にもお話しした。

「春よ来い」
忍従を強いられる冬が長い分、春の到来を待ち望む気持ちはひとしお強い。

やっと訪れた春に対して「早春」という特別なことばがある。
「早夏」とも「早秋」とも「早冬」とも言わない。

桜の季節、野に山に人が繰り出す。
「春たけなわ」という。
「夏たけなわ」とも、「冬たけなわ」とも言わない。
「秋たけなわ」とは言うけれども。

「行く春や」
やがてこの佳い季節が去っていこうとする。
それを押しとどめようもない。

この切ない気持ちを表すために「惜春」という語彙がある。
「惜夏」とも「惜秋」とも「「惜冬」とも言わない。

やはり春は特別扱いされている。

わたしたち生き物にとってはそれが当然なのかもしれない。

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2019年2月17日 (日)

「い」と「ゆ」

大晦日、テレビを見ていると「ゆくとしくるとし」という音声が流れてくる。
ふつうの文字表記をするなら「行く年来る年」だろう。

「行く」という動詞は、「ゆく」とも発音するし「いく」とも発音する。
問題はその使い分けだが…。

かくかくしかじかの場合は「ゆ」と読めという法律があるわけではない。
発音する各人のいわば好みや生理にまかされているのだ。

ということは人それぞれ使い分けの基準を持っているということになるのだが…。
一般的傾向というものはあるのだろうか?

現代の日常会話では「い」が圧倒的に優位に立っている。

人びとは「明日、東京にいく予定です。」という。
「明日、東京にゆく予定です。」という人はきわめて少ない。

しかしテレビでは「ゆく年」と言っている。
わたしたちも「いく年」では何だか感じが出ないと思う。

「行く川の流れは絶えずして」も「ゆく川の…」と読みたい。
「いく川の…」では、格調が低いように感じられる。

「行春や鳥啼き魚の目は泪」という芭蕉の句はこのブログに何回も登場している。
これも「いく春や…」と読んでは台無しになりそう。

辞書には「いく」も「ゆく」も載っている。
しかしその扱いは辞書によって異なっている。

ある辞書では「ゆく」を引くと「いく」を見よ、となっていて語釈はもっぱら「いく」の項で行われている。
かと思うと、別の辞書では「いく」の項には「『ゆく』の口語形」とだけ記されている。

広辞苑で「いく」の項を見ると、「古代から『ゆく』と併存していたが、当時は『ゆく』が優勢。」とある。
そして、語釈は「ゆく」の項で行われている。

これから考えるに古代は「ゆく」のほうが正統的であり、つまり由緒正しい言いかただったようだ。
そして、「いく」はその口語形、やや崩れた形、現代形なのだ。

ことばの「今」に焦点を当てるか、ことばの歴史を重視するか。
辞書による扱いの違いは、その姿勢の差があらわれているのだろう。

わたしたちも格調の高い表現をしたいとき、文学的な表現をしたいときは「ゆ」を用いる傾向がある。
そして日常会話では、「い」ですませる。

「ゆ」は正統性では「い」に勝るけれども、「ゆ」にも泣きどころはある。
音便形では使えないのだ。
「昨日、東京へいった」とは言えるけれども「昨日、東京へゆった」とは言えない。

文法的整合性の点では「い」に軍配が上がりそうだ。

私は別にどちらかをえこひいきするつもりはない。
みなさんそれぞれの価値観に従って使い分けていただければいい(よい?)。

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2019年2月10日 (日)

時間表現の混乱

繰り返しお話ししてきたことだけれど、わたしたちの存在は時間と空間によって定義されている。

このうち、空間は視覚その他わたしたちに備わる諸感覚で認識可能だからなじみ深い。
これに対して時間は目にも見えないし手で触ることもできない。
「概念」として認識するしかない。

だからこの難物を表現し、操作するためにはひと工夫がいる。
その工夫の一つが、空間表現のための語を時間表現に転用することだ。

たとえば、時間の経過を「流れ」あるいは「長さ」という可視的表象に転換してみる。
そして長いものに物差しを当てるような感じで時間の経過を塊として認識する。
年や月や週や日という塊が認識可能になる。

そしてこれらの時間専用の語彙に空間用語をくっつけることで時間の「前後関係」(空間関係の転用!)を表現する。

このことは、これまで「前」や「後」や「先」などをくっつけることで、るるご説明してきた。
その過程でいくつかのおかしな点、変な点、不審な点、不合理な点などが明るみに出てきた。

そのことについてもう少しお話ししてみたい。

大晦日の「行く年来る年」については少し前にお話しした。

だから「来る年」は「来年」と表現する。
しかし、「行く年」は「行年」とは言わない。

「行年」は別に「何のなにがし、行年98。なむあみだぶつ」というときのために使われる。
「行く年」は「去年」あるいはあらたまった席なら「昨年」という。

「行く年来る年」という簡単な例なのに、もう表現上の対称性が崩れている。

年や月や週や日という時間単位にさまざまな限定詞が付く場合、対称性が崩れたり論理性が欠けていたりすることが多い。
なぜだろう?

たとえば、来年のことは「明年」とも言う。
この場合の「明」は「次の」という意味だ。

だから、「明日」という語もある。
しかし、「明週」、「明月」とはなぜか言わない。
日、年という時間単位を週、月に差し替えただけなのに、なぜかうまくいかなくなる。

「昨年」ということばがあるから、「昨日」ということばもある。
「昨」は同じ働きをあしている。

しかし、「昨週」とはあまり言わないし「昨月」とはほとんど言わない。
「先週」、「先月」と言う。

かと思うと、「先週」、「先月」は確定表現だけれど、「先日」、「先年」は不確定表現なのだ。
「週」、「月」を「日」、「年」に差し替えただけなのに。

同じことは「前後」でも起こる。
「前後」は対概念だけれど、「前日」は確定表現、「後年」は不確定表現になる。

このような現象はまだまだあるのだけれど、煩瑣になるのでこれくらいにしておこう。
要は、論理的でないのだ。
でたらめなのだ。

言語現象に数学的論理性や整合性を求めてもせんないことと知りつつ、何か釈然としない。
すべて慣用と割り切っていいのだろうか?

このような混乱の原因を考えるに、空間表現を無理やり時間表現に転用したその無理がたたっているのではないかと私は思っているのだが、みなさんはどうだろう?

 

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2019年2月 2日 (土)

春とことば

明日は節分、あさってはいよいよ立春。

春を待ち望む気持ちは、他の季節に比べてひとしお切実である。
四季は1年を4等分しているけれど、ことば遣いの上では決して平等ではない。
春は特別扱いを受けている…。

というのが前回の結論らしきものだった。
北半球の中緯度地方以北の諸言語でも、春に対する言語上の特別扱いは観察されるだろうか?
もしそのような現象が見つかれば、私の仮説は補強されるのだが。

中欧・北欧諸語、アイヌ語、ギリヤーク語、イヌイット語など北方少数民族の言語も調べてみたいのだが、あいにくその能力がない。

仕方ないので、とりあえずもう少し日本語だけで補強を試みてみよう。

季節のはじめのころを指して、「初」の文字がつくことが多い。
初夏、初秋、初冬など。

しかし、春だけは早春という。
もちろん、「初春」ということばもあるが、これはふつうお正月のころを指す。
やはり春だけが異なった扱いなのだ。

早春のころ、わたしたちは友への手紙を「春まだ浅い今日このごろ…」と書きはじめる。
(ライン世代では、こんな習慣は絶滅したかもしれないが…)

「夏まだ浅い」とも「秋まだ浅い」とも「冬まだ浅い」とも書かない。
やはり春だけを特別扱いしている。

それから、春がきざしはじめた時期をとらえて「春先」という特別なことばがある。
夏先とも秋先とも冬先とも言わない。
わたしたちは春に対してだけ特にきめこまかくその進行のプロセスを言い分けている。

考えてみれば、北半球中緯度以北に住む生命体にとって、春は再生の季節である。
生命が祝福される季節なのだ。

そこに住む人びとにとって、春を特別扱いしたくなる心持は普遍的なのもと思う。
それが、ことば遣いにもあらわれないはずがないと思うのだが。
どなたか、この点について中欧・北欧諸語、アイヌ語、ギリヤーク語、イヌイット語などの言語を調べていただけないだろうか?

もちろん、私のいいかげんな仮説に対しては反証はいくつもある。たとえば…。

季節のおわりのころを指して、「晩」の文字がつくことが多い。
晩春、晩夏、晩秋、晩冬など。
この点では、四季平等である。

しかし晩春は「暮春」とも言う。
暮夏とも暮冬とも言わない。
だからここでも春は特別扱い…。

と言いたいところだけれど、実は「暮秋」ということばが辞書には出ている。
あまり使わないことばだが、ワープロの変換候補にもちゃんとある。
春だけ特別扱いとは言えないのだ。

上で「浅い」という形容詞は春にだけ似合うといったけれれど、それならば「深い」という形容詞は同じように秋にだけ似合う。
晩秋のころ、わたしたちは友への手紙を「日ましに秋が深まってまいりましたが…」と書きはじめる。
決して春だけが特別というわけじゃない。

こんな話をある日本語サークルでしたところ、だれかが「冬だって特別扱いされているじゃないか」と言い出した。
たとえば、「冬支度」ということばがあるが、「春支度」とも「夏支度」とも「秋支度」とも言わない。

なるほど、たしかにその通りだ。

してみると私の冒頭の仮説は、多数の反証によってみごとに覆されたことになるのだろうか?
あなたはどう思われますか?

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2019年1月20日 (日)

「行く」と「来る」

「行く」と「来る」は人の空間移動をあらわすのが原義だと思う。

原義はそうだけれども、基本動詞だから時間関係にも、社会関係にも、心理表現にも援用される。
だから、辞書の「行く」、「来る」の項は記載がいっぱいだ。

ふたたび原義に立ち戻ると、「行く」と「来る」は正反対のベクトルを有する移動表現である。
「行く」は発話者のいまいるところあるいは拠点を離脱して遠ざかる行為である。
「来る」は発話者のいまいるところあるいは拠点に向かって接近する行為である。

だから、「私は京都に行く」とは言えても「私は神戸に来る」とは言えない。
「来る」のは私以外のだれかなのだ。

ややこしいのは類義語で「訪れる」という動詞の存在だ。
「私が松江を訪れた時」と言うときは「行く」という意味だし、「彼がわが家を訪れた時」は「来る」の意味になる。

「訪れる」は一見「行く」「来る」と似ているけれども、「移動」という概念が欠落している点で「行く」「来る」とは決定的に異なる。

「訪れる」は「来訪」という事態そのものに焦点が当たっていて、「移動」という概念が欠落している代わりにその事態に対する「驚き」、「喜び」、「悲しみ」などの心的反応を引き出す力がある。

冒頭にお話しした通り、「行く」と「来る」はしばしば時間関係に援用される。
この点は「訪れる」も同様である。

「春が来る」とも言うし「春が訪れる」とも言う。
しかし、「春が来た」というよりも「春の訪れ」というほうが、待ち望んだ春の到来に対する人々の「よろこび」が一層深く含意されているような気がしないだろうか?

何度もお話ししているように、時間は目に見えないし、手で触れることもできない。
だから私たちはその変化を無理やり可視化し、擬人化して何とか認識しようとする。

だから空間移動のための語彙が時間変化に転用される。

「月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり…」
芭蕉はこんなふうに歳月を擬人化した。

英語でも、springがcomeするのだから、時間の擬人化が行われていると言える。
他の多くの言語でも普遍的な現象なのだろうか?

「春が来た 春が来た どこに来た?」
「春よ来い 早く来い 歩き始めたみよちゃんが…}

「しのび音もらす 夏は来ぬ」

「秋来ぬと 目にはさやかに見えねども…」

「冬が来る前に もういちど あの人と…」

ともあれ「来る」という動詞は四季と相性がいい。
季節は人の形をして遠くからやってくるのだ。

そしてやがてどこかへ行ってしまう。
ただ、「行く」は「来る」とは違って季節との相性の点で若干濃淡がある。

「春が行く」はよく言うけれども、「夏が行く」、「秋が行く」、「冬が行く」とはあまり言わない。

「行春や鳥啼き魚の目は泪」
「行春を近江の人と惜しみけり」
これらの句は有名だけれど、他の季節が「行く」のを題材にした文学作品はあまりないのではないか?

人の形をした春が老いてどこか遠くへ過ぎ去ってしまう、その哀惜の念は他の季節よりもひとしお深いのだろうか?
四季は1年を4等分しているのだけれど、人間心理の上では春は別格なのかもしれない。

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2019年1月14日 (月)

空間表現と時間表現

大晦日、年があらたまる直前にテレビは「行く年来る年」をやる。
たしかに今年がまさに行こうとしている感覚がある。
2018年が遠ざかっていく実感がある。

「行春や鳥啼き魚の目は泪」という句もある。
季節が行き過ぎてしまうという感懐にわたしたちはとらわれる。

かと思えば「来週」と言ったり「来月」と言ったり「来年」と言ったりする。

年や月という時間単位が人間のように行ったり来たりするはずもないのに、わたしたちはこのような表現を自然に受け入れている。

時間は空間とともにわたしたちの存在にとって不可欠な要素だけれども、時間は目に見ることも手で触ることもできない。

だから認識することが難しい。
そして言語によって表現することも難しい。

そこでわたしたちは、空間表現のための語彙を時間表現に転用することになる。

「行く」や「来る」という空間移動をあらわす動詞を時間表現にも適用する。
あるいは時の経過を「流れ」という空間表象に仮託する。

「流れ」に仮託することで「上流」、「下流」という概念が自然に生まれる。
だから、時代を「下った」り「さか上った」りする。
この場合は上下という空間関係が時間関係に転用されている。

上下は対概念だけれども、前後と同様に価値は平等ではない。
もちろん「上」のほうに価値優位性がある。

ただしこの価値優位性は時間関係に転用された時は認められない。
この点も前後関係と同じである。

結局のところ、時間関係においても価値優位性を主張できるのは「先」だけのようだ。

その「先」にしても、前回お話ししたよう過去と未来をめぐって混乱の様相を呈している。
もともと空間関係を表現するための語彙を強引に時間関係に持ち込んだ無理がたたったのかもしれない。

ところで、わたしたちがよく用いる時間単位として、「年」、「月」、「週」、「日」がある。
それぞれの語の前に「先」がついた時の不思議な現象を前回の最後に触れた。

もちろん「先」だけでなく、さまざまな語が時間単位の前につく。
冒頭でふれた「来」がそうである。

ただ、行く年来る年とは言うけれども、「来年」の反対を「行年」とは言わない。
「行年」とは人の死亡時の年齢のことである。

このほかにも、「今」、「去」、「前」、「次」、「翌」、「昨」などの語が次々に思い浮かぶ。
「翌」や「昨」は、時間表現専用の語彙かもしれない。
その意味で貴重なものだ。

ともあれ、これら多くの語を「年」、「月」、「週」、「日」と組み合わせて、わたしたちは時間関係を表現する。
そうすることで、こまやかな時間表現が可能になる。

その場合の結合の相性などにも興味深い現象がみられるのだけれど、この点についてはずいぶん昔にお話ししたような記憶があるので、ここでは省略させていただきましょう。

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2019年1月 6日 (日)

「先」を持ち込むと…(その2)

「前」と「後」という単純な、しかしよく考えてみれば一筋縄ではいかない対概念の中に「先」を持ち込むことで、事態は一層紛糾した。

そのため、昨年はお手上げという情けない状態で1年を締めくくることになってしまった。

しかし、前後関係は「前」と「後」を見つめているだけでは解明できない。
「先」を持ち込まないと思考が広がらないのだ。
だから、このような締めくくりもやむを得ない。

お手上げではあるが、これに懲りずにもう少し愚考を重ねてみたい。

空間関係に関しては、「前」は「先」とほぼ同じ意味と言っていい。
「二人は前になり後になりして歩いて行った」という文の「前」は「先」と互換性がある。

しかし、時間関係になるとそうはいかない。
「先のことなどだれにもわからない」という文の「先」を「前」と入れ替えることはできない。

この場合の「先」は発話時点から見て未来を意味している。
これに対して、「前」は過去を意味するのだ。

それじゃあ時間関係では「先」は常に発話時点の未来を意味しているのかと言えばそうではない。
何と過去を意味することもあるのだ。

その証拠に、わたしたちは「先日は失礼しました」と言う。
「先月」というのは、今でいえば2018年12月のことなのだ。

一体どう考えればいいのだろう?

「前」は発話時点を基準として、絶対的な過去をあらわしている。
「先」は特に基準を設けず、相対的な順序関係をあらわしている。

そう整理すればいいのだろうか?

たしかに「ごはん先にする? お風呂先にする?」という言い方は、特に基準時点を設けていない。
順序関係が主題である。

そして、ここに強引に前後関係という物差しを持ち込むと「先」は過去ということになる。

しかしこのような整理では、「先」が未来を意味する働きのメカニズムが依然として見えない。

私がうすうす感じているところでは、「先」は空間関係における「前=先」のオリエンテーションを時間関係に投映しているのではないだろうか?

時間関係における「前」は過去しか意味することはできない。
それに代わって、「先」が時間的な前途つまり未来を意味するのだ。

まことに時間表現における「先」は絶妙なはたらきをしている。

それだけではない。
「先」は不思議なふるまいをする。

つまり、「先日」、「先年」と言えば、時点が特定できない過去を意味している。
それなのに、「先週」、「先月」と言えば時点が明確に特定されてしまうのだ。

同じように時間単位の前に「先」がくっついているだけなのに、意味の違いが生まれるのはなぜ?

とにかく「先」の不思議に振り回された年末年始だった。

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2018年12月23日 (日)

「先」を持ち込むと…

前と後は対になったことばである。
でもその価値は対等じゃない。

このことは「前」をめぐる語構成の現象を見ても明らかだ。
つまり、「前」には「男前」、「板前」、「腕前」など他の語の後について新たな語を形成することが多い。
しかし、「後」にはそんな現象が見られない。

その理由として私は「後」に対する「前」の価値優位性を考えてみた。
そう、「前」と「後」は対語だけれどその価値は対等ではないのだ。

といいつつ、前回は私みずからがこの仮説に対して疑念を投げかけた。
つまり、「前後」が時間関係に転用された時でも「前」の価値優位性は保たれるのか、ということである。

時間関係に転用された時、「前」は過去を、「後」は未来を意味する。
未来に向けて生きている人間にとって、「前」が「後」よりも価値が勝っているとは到底感じられないのだ。

何だか話がややこしくなってきたけれど、ここに「先」という語を持ち込むと事態はさらに紛糾する。

「前後」と同じく「先」も「後」の対語をなしている。
また「前後」と同じく空間的位置関係にも時間的前後関係にも用いられる。

「10メートル先にお寺が見えるでしょう?」という場合は空間的位置関係を表現している。
「運賃は先にお支払いください」は時間的前後関係をあらわしている。

「前後」の場合、空間関係に関しては「前」に価値優位性が認められるけれども時間関係についてはそうは言えない、というお話をした。

では、「先後」の場合はどうだろうか?

冒頭でふれた「前」の語構成上の特徴は「先」には見られない。
その点では、「先」は「後」に対して価値優位性を持っているとは言えないように思う。

これに対して時間関係の場合はどうか?

「先手を打つ」、「後手を引く」という言い方がある。
また「先んずれば人を制す」ということわざもある。
後輩は先輩に対して頭が上がらない。

これらの例を見ると、時間関係では逆に「先」が「後」に対して価値優位性を主張できるような気がする。
「前後」と「先後」では価値関係が反転しているのかもしれない。

「前」も「先」も「後」の反対語である。
空間関係を表現する場合、「前」も「先」もほぼ同じ方向を指す。
「10メートル前」も「10メートル先」も同じ意味である。

しかし、時間関係ではどうだろうか?
「5年前の話」と「5年先の話」は明らかに正反対の意味である。

ここでは、「前」は過去を「先」は未来を意味している。
その点では、「先」は「後」と同じ働きをしている。

ところが、実はそうとも言えない。

たとえば、「梅雨のあとさき」という小説のタイトルがある。
この場合、梅雨という基準時点から見れば「あと」は未来を「さき」は過去を意味している。
つまり、この場合の「さき」は時間関係における「前」と同じ意味なのだ。

「前」、「後」に加えて「先」を持ち込むと、事態は二転三転してわけがわからなくなってしまう。
どうすればいいのだろう?

もはやお手上げである。

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2018年12月16日 (日)

「前」の謎(その3)

「前」と「後」のことだけれど…。

これまでお話ししてきたように、「前」は他の語の後ろにくっつくことが多い。
そして、新たな意味を持ったことばを生成する。

しかし、「後」にはそのような現象が見られない。
その原因として、私は「前」の価値優位性を考えてみた。

「前」と「後」は対になったことばだけれど、その関係は平等じゃない。
「前」のほうが価値が高く、「後」は価値が低い。

基本的に、人間は前のめりで生きているのだ。

「前」、「後」は人間の空間的オリエンテーションを表現するのが原義だと思う。
しかし、この語は時間的関係を表現するためにも用いられる。

「夜明け前」、「朝飯前」の「前」は、時間的前後関係をあらわしている。
そして面白いことに、この場合の「前」は基準時点から見て過去のことを言っているのだ。

空間とちがって時間は目に見えないものだから、イメージしにくい。
そこで、邪道かもしれないけれど「流れ」という空間的表象に仮託して考えてみたい。

時間の「流れ」のある特定地点に発話者がいる。
発話者は時間の流れから超越しているわけではなく、時間とともにいわば下流に向かって移動せざるを得ない。

その移動に焦点を合わせれば、「前」というのは空間観念で言えば下流側である。
まっすぐな道を歩んでいくのと同じことだ。

しかし、その発話者が「三日前にあの人に会った」と言うとき、その「前」は上流側を意味している。

つまり空間的な「前」と時間的な「前」は、指示する内容が反転しているように思われる。
そうではないだろうか?

時間に関して「前」という場合でも、「後」に対して価値優位性を保てるのだろうか?
疑問を感じざるを得ない。

空間的に前に進むことは、未来に向かって進むことである。
これから行くところである。
だから、視界は開けている、見えているけれども未知の領域である。

一方、時間的に「前」というとき、それは過去を意味している。
既知の領域であり、経験済みのことであり、いまさら変えようがない領域である。

「これからは前を向いて歩いていきます!」と言うとき、この「前」は未来を意味している。
三日前、1年前の「前」ではない。

時間的に未来を指示しようと思えば、「前」の対語である「後」を使わざるを得ない。
「三日後にお会いしましょう」、「十年後の自分を想像してみなさい」と言うように。

時間的関係に関しては「前」は「後」に対して価値優位性を主張できないと思う。
前回のお話は少し修正する必要がありそうだ。

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2018年12月 9日 (日)

「前」の謎(その2)

日本語には「前」という語を付加することによって新しい意味を獲得する複合語が多いけれども、その場合「前」はどのような機能を果たしているのだろうか?

というみずから発した疑問について、前回は苦しまぎれの解釈を試みた。
その解釈に用いたのは、「前」という語の有する価値優位性だった。

男に「前」という価値優位性を付加することによって、多くの女性を引き付ける「男前」が生まれる、という理路はわれながらよく納得できる。

しかしうぬぼれてはいけない。
他の例ではそんな解釈は通用しない。

たとえば、「板」と「板前」はどうなのだ?
「男前」は「男」の一部だけれど、「板」と「板前」は全然別物だ。

たしかに「板」には料理、調理というメタファーがあるから「板前」と関係がないわけではないが、「板」のうちの優れたものが「板前」であるわけじゃない。

この場合は「前」の価値優位性など関係なく、「板」を「前」にして仕事をする人、と解釈したほうが素直かもしれない。
つまり、「江戸前」、「人前」と同じく「前」の原義に回帰した解釈だ。

では、「腕」と「腕前」は?

この場合は「板前」のような原義回帰的解釈は通用しない。
「腕前」は技量という意味だから、「腕」の機能に着目した語である。
当然、技量は人によって優劣があるから、「前」を付加することによって機能を意識させようという戦略だろうか?

ついでだから、「当たる」と「当たり前」は?
うーむ、これは解釈がむずかしい。

そもそも「当たる」という動詞と「前」がどのように結びついてるのか?

「当たり前」という語には「スタンダード」というニュアンスが感じられる。

一方、「当たる」という動詞は何らかの「インパクト」を含意している。
「目当て」や「心当たり」という派生的名詞もその「インパクト」の変形だ。

「インパクト」に「前」を付加することで、どういう理路で「スタンダード」とつながるのだろう?
残念ながら、私には「思い当たる」アイデアがない。

ここはやはり「当たり前」という語の成立史をひもとくしかないのだけれど、どこかに参照文献でもあるのだろうか?
「当たり前」すぎて、だれもやっていないかもしれない。

ネットで検索すると、当然という漢語を同音ということで「当前」と書くことがあり、これを訓読みすることで「当たり前」になったとする説が出ている。

拍子抜けするほど安易な成立史だけれど、本当なのだろうか?
本当だとすると私が「インパクト」や「スタンダード」を持ち出して苦吟したことなどまるで意味のないことになる。
つまりこの場合は「前」の機能などまったく関係ない、ということだろうか?

この説の真偽は古くからの使用例を丹念に検討するしかないけれど、残念ながら私にはその時間と根気がない。

ともあれ、「前」の果たしている機能、役割は一筋縄では解明できない、ということだ。

もう一度、「名」と「名前」に戻ってみよう。
上にあげたいくつかの例とちがって、「前」がくっついても「名」と「名前」は意味は変わらない。

したがって、ここでの「前」の役割は、やはり多音節化によって意味の明瞭性が高まり、その結果おのずから役割分担が定着した、ということなのだろう。

他にも同様の例があれば、この解釈の説得力が高まるのだが…。

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