2018年9月 9日 (日)

古事記と神概念(その2)

前回は洋の東西の神概念のあまりのちがいにため息をついた。

そもそもその存在に対して同じ「神=かみ」という日本語を用いていいのだろうかという素朴な疑問も呈した。
もともと翻訳不能なことばをむりやり日本語に訳すのは大きな誤解のもとになる。

だから一神教のその存在に対しては、「ゴッドさま」とか「アッラーさま」と原語をそのまま使うほうがよいのではないか、というへんてこな提案もした。

けれど現実は厳しい。

大きな落とし穴があるにもかかわらず、各種の邦訳聖書でも「神」という訳語を用いているし、遺憾ながらそれが定着してしまっている。

なのでこのブログでも、一神教の至高存在のことを「神」という日本語でこれからも呼ばざるを得ない。
私の苦しい胸の内を察して、どうかみなさんもこの点ご了解をお願いしたい。

ところで、古事記が紹介する神さまの名前だけれど…。

たとえば一番はじめに登場する神さまは「アメノミナカヌシノカミ」。
続いて「タカミムスビノカミ」、そして「カミムスビノカミ」があらわれる。

それぞれ「宇宙の真ん中に存在する神」、「神を生成する神」という意味だろう。
「中心」あるいは「生成」という概念を神格化している。
「アメノトコタチノカミ」、「クニノトコタチノカミ」もそうだ。

この後も次々に数えきれないくらい神さまがあらわれて、いちいち名前がついている。
その名前から推測するに、葦であったり雲であったり風であったり山であったり野であったり、さまざまな自然の事物の神格化なのだ。

概念の神格化と自然の神格化。
日本列島に住む人々の身辺は神さまに満たされている。

そして人は神さまと溶け合っている。
時間的にも空間的にも。

こう考えてくると、キリスト教における神さまの名前、「ヤハウェ」はどういう意味でありどう位置づければいいのだろう?

旧約聖書によれば、神さまは「私はあるというものだ」とモーゼに洩らしているけれども、だとすれば「ヤハウェ」は存在という概念を意味しているのだろうか。
古事記流に「存在」という概念の神格化なのだろうか?

しかし、この解釈は私の大きな誤解かもしれない。
ここまでくるとしろうとの私には手に負えない。
ぜひとも宗教学者のみなさんの知見にすがりたい。

ともあれ、日本では人と神さまが溶け合っている。
これに対して一神教の世界では、人と神さまは断絶している。

神さまは人間の理解も共感も及ばない遠い絶対の存在なのだ。
水と油のように溶け合わない。

ここに西の人々の根源的な不安があるように思える。
その不安をおさえるために、人々はますます「絶対」を求めるのだろう。

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2018年8月26日 (日)

古事記と神概念

人間たちはどこにいるのだろう?

前回は、旧約聖書の創世記と古事記の記述を比較しつつ、そんな素朴な疑問をめぐって考えてみた。
とにかく神さまと人間の関係が対照的なのだ。

聖書やコーランに登場する一神教の神さまと人間はあくまでも断絶している。
人間は神さまの被造物。
一神教の経典はそうはっきり規定している。

しかし、古事記はそうじゃない。
天孫降臨の際、地上に人間がいたのかいなかったのか、なにひとつわからない。
まだ人間は存在せず、低級な神さまたちがうごめいていたのだろうか?

神武東征の際、抵抗したという土蜘蛛や長髄彦は人間だったのだろうか?
長髄彦は自分の妹をニギハヤヒという神さまに嫁がせたというから、神さまと考えてもおかしくない。

一神教の神さまと違って、古事記の神さまは人間と断絶していない。
古事記は神統譜であり、それがそのまま皇統譜につながっている。
神さまの系譜をたどっていたら、いつのまにか人間になっていた、という感じ。

神武天皇はじめ初期の天皇たちは半神半人的存在だったという印象が強い。

人間は神さまの被造物じゃない。
人間だって死んだら神さまになる。
その証拠に、乃木神社や東郷神社の祭神は実在の人物なのだ。

キリスト教の神さまは世界を創造し人間を作った。
だから、その神さまは「する」神さまである。

でも、古事記の神さまはそうじゃない。
そもそも古事記の劈頭に「高天原になりませる神の名は…」とあるように、神さま自身「なる」存在なのだ。

その神さまが、代を経ていつのまにか人間に「なる」。
その人間も死んだら神さまに「なる」。

何の力も働かず神人渾然一体の世界が生まれる…。

西洋と日本でどうしてこれほどまでに神概念が違うのだろう?
そんな感懐を深くする。

ひるがえって、これほどまでに違う概念を同じ「神=かみ」という日本語で表現していいものだろうか、という素朴な疑問がわいてくる。

「神が天地を創造した初めに…」と旧約聖書の日本語訳は表現している。
しかし、ここに「神」という日本語を持ってくるのは誤解や混乱を招くもとになるような気がする。

キリスト教やイスラムの「神」は、古事記が語る「神」とはまったく別物なのだ。
だから、本当は「神」などと訳さずに、「ゴッドさま」とか「アッラーさま」とか原語をそのまま持ってきたほうがよいのではないか?

でも、それじゃありがたみがない?

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2018年8月19日 (日)

古事記と名前(その3)

人間たちはどこにいるのだろう?

というのが、古事記を読んでの私の素朴な疑問である。

高天原は神々の住処である。
これは分かる。
漠然と空の上のほうにあるのだろう。

高天原のえらい神さまの命を受けて、イザナギとイザナミが協力して国生みをした。
その豊葦原の瑞穂の国を支配するために、アマテラスは孫のニニギノミコトを高千穂の峰に降臨させた。
これも分かる。

ではそのころ、肝心の地上はどうだったのだろう?

もう海も川も山も出来上がっていた。
すでに森や林もあり、さまざまな植物が生い茂っていた。

海にはたくさんの魚たちが泳いでいたことだろう。
ナマコが服従するとは言わなかったので、その口がいまも裂けているという記事も見える。

陸地にもウサギや蛇のほか数多くの動物たちが走り回っていた。
ティラノザウルスやステラノドンもいただろうか?

おや、肝心の人間の姿が見当たらない。
特に古事記のはじめのほうでは、人間は影が薄いのだ。

この点、創世記ははっきりしている。
神さまが天地創造の6日目に作った。

土くれをこねて、自分の姿に似せて、人を創造したのだ。
同時に、地上を支配するよう命を与えた。

あわせて、その人の肋骨から女を作った。
こうしてできた最初のカップルがいまの人類の祖となる。

実にわかりやすいではないか?

人間はどうして生まれたのか?
人間にはなぜ男と女があるのか?
人間は何をすべきなのか?

創世記はみんな答えてくれる。
古事記はこんな深刻な疑問になにひとつ答えてくれない。

天孫降臨のころ、地上に人間はいたのかいなかったのか?
いたとすれば、何をしていたのか?

いくら読んでもよくわからない。

そもそも「オロチに娘が食べられる」と嘆いていた足名椎、手名椎の夫婦は神さまなのか人間なのか?
自分は神さまの子だと名乗っているし、娘のクシナダヒメも神さまを生んでいるので神さまかなとも思う。
しかし、その行状を見る限り、神さまらしいところはひとつもない。

葦原の中つ国は穀物が豊かに育つ土地だとしきりに言われているけれども、その穀物は栽培する人がいなければ育たない。
でも、古事記のどこを探しても当時人間たちが農作業に精を出していたという記述はない。

あるいは、人間がいないのでオオゲツヒメその他の神さまたちが仕方なく鍬をふるったり稲束を背負ったりしていたのだろうか?

創世記では神さまがアダムとイブを創造した。
ここから人間の物語が始まる。

ふたりは結婚し、カインやアベルほかの子供たちを生んだ。
そしてその子たちも次々に子供を生み、子孫が増えていく。

しかし古事記ではいつから人の世になったのかわからない。
そもそも神さまと人間の境界がはっきりしない。

人びとははっきりさせる必要などない、と考えていたのだろうか?
だから、こんな不思議な物語が生まれたのかもしれない。

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2018年8月12日 (日)

古事記と名前(その2)

現に名前があるからには、いつか、だれかが命名したにちがいない。
その命名者や命名の由来はどうなの?

というのが、私のかねてからの幼稚なこだわりである。

しかし旧約聖書は私のそのこだわりに応えてくれなかった。
古事記とて事情は同じだ。

古事記にはいやというほどたくさんの神名が紹介されているけれど、もちろんその命名者がだれかなどまったく言及されていない。
神さまが自然に「成りませる」のだから、その名前も自然に出来上がった、という態度なのだ。

創世記には、神さまが見ている中、アダムが家畜や野獣に次々に名を付けていくシーンが登場する。
いまいる動物たちの名がどのようにして定まったのか、という命名のいきさつが説明されているのだ。

古事記にも、「おろち」や「うさぎ」や「わに=ふか」といった動物たちが登場する。
けれど、動物たちがその名で呼ばれるようになった経緯は何も語られていない。

古事記にせよ日本書紀にせよ、宇宙の生成を語りながら創造者、命名者不在の不思議な物語なのだ。

いや、創造者がいない、と言い切ってしまうのは勇み足かもしれない。

なぜなら、古事記はイザナギとイザナミの夫婦神が協力して国生みをした、と語っているからだ。
だったら、イザナギとイザナミをヤハウェ神と同じく創造神と考えていいのだろうか?

少し違うような気がする。

旧約聖書の神さまはことば一つで光と闇を分け、空と海と陸地を分け、土をこねて動物や人間を創造した。
しかし、イザナギとイザナミは上司であるえらい神さまの命令で国生みをしたのだ。

それもまったく無から創造したわけではない。
上司から授けられた矛で海水をかき回したところ、その矛からしたたり落ちた海水の塩が固まってできたのがおのころ島なのだ。

いわば素材はすでにあって、イザナギとイザナミは多少の労力を加えただけなのだ。
これではヤハウェ神の創業とは同列に扱えない。

それでもこののちイザナギとイザナミは結婚して、淡路島以下数多くの島嶼を生んでゆく。
ありがたいことである。

もちろんそれぞれの島には名がついている。
伊予、筑紫、佐渡などその多くは今日もそのまま使われている。

暗誦者である稗田阿礼や編者の太安万侶の生きた時代には、すでにこれらの名が確立、流通していた。
だから、かれらは何の疑問もなく、その命名者や命名の由来を問うことなく、そのまま記事に盛り込んだのだ。

冒頭の私のこだわりは、しょせんないものねだりかもしれない。

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2018年8月 5日 (日)

古事記と名前

「呼ぶ」という行為の目的語である「な」という抽象存在には汲めども尽くせない深遠な意味がある…。

という述懐で前回は締めくくった。

「な」がなければそもそも「呼びかける」という人間の切実な行為は成り立たない。
そこで再び名、名前に焦点を当ててみたい。

これまで主に旧約聖書創世記の世界をめぐりつつ、「な」の問題を考えてきた。
しかし、このブログでは日本語が大きなテーマのひとつだから、舞台を日本に移して考えることも欠かせない。

さしあたり、記紀が手がかりになるだろうか?

古事記でも、創世記と同じく宇宙開闢から話ははじまる。
しかし、始原、神さまがことばを発することで宇宙創造が始まった、とは語られていない。

「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天の御中主の神…」
といきなり神さまの名前の紹介から始まる。

はじめに「高天原」という場所を指す語があらわれるけれども、これは創世記における「エデン」に対応する場所だろうか?

解説によれば、「エデン」は「平原」を意味するらしい。
そして、「快楽」という語と同音になるらしい。
要するに「楽園」、「パラダイス」なのだ。

「高天原」にも「神々の楽園」というイメージはある。
だから、固有の「地名」とは言い切れない。
「天のほう」という普通名詞的な意味合いだと思う。

その高天原に次々に神さまがあらわれてくる。
まるで深い深い底のほうから泡が立ち昇ってくるように。

創世記では、世界の創造に神さまの「意思」が働いたことが明確に語られているけれども、古事記にはそんな「意思」はどこにも見あたらない。

だれかの、何かの「意思」が働いわけではなく、自然に「成りませる」のだ。
どこにも「責任」がない。
日本人に「責任」の感覚が希薄なのはそのせいかもしれない。

ともあれ、こうして高天原に次々に神さまが自然に生成されてにぎやかになってくる。

キリスト教と違って多神教の世界だから、神さまを識別するために個別の名前が欠かせない。
だから古事記は神さまの名前をいちいち紹介している。

神さまにはそれぞれ名前がついているので、人々にとっては「呼びかけ」の手がかりができたことになる。

ただ、当時の人びとにとって天の御中主の神以下たくさんの神名がどれほど流布していたのだろう?
たしかに朝廷に勤務する人々や諸豪族には知られていたかもしれないが、お百姓さんたちがその名を唱えることなどなかったと思う。

高天原の神さまたちには、聖書の唯一神のような圧倒的な存在感はない。
多くの一般庶民にとっては影の薄い存在だったと思う。

だからその「な」も、神統譜や皇統譜を作成する上での識別記号以上の意味は持っていなかったのではないだろうか?

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2018年7月21日 (土)

「呼びかけ」の本義(その5)

5月の鳥取県智頭町訪問がきっかけとなって、土地の名前から人の名前、はては神さまの名前についてまでつたない考えを重ねてきた。

2010年の秋にも小諸から小淵沢まで小海線を南下する列車の旅がきっかけになって名前をめぐる愚考が始まった。
それからえんえんと約1年にわたって考え続けてきた。

ことばの世界をめぐる私の旅は、何度も同じところに立ち戻っている。

しかし、残念ながら何ひとつ成果はなかった。
今回も同じ結末になりそうな気がする。

けれど、考え続けることが無駄だとは思わない。
名前の命名者を問い、起源や由来を問い続けることで、名前、名、「な」が言語現象で持つ重要な要素であることがますます明らかになるからだ。

これまで主に固有名詞について考えてきたけれども、名前はもちろん普通名詞にもその他の品詞にも波及する。
たとえば、「座る」や「走る」といった動詞は行為や動作の「名前」なのだから。

「な」の視点からすべての語を見直してみれば、何らかの発見があるかもしれない。
私の旅もいつかそこまで行ければいいのだが…。

ところで、名前は「呼ぶ」という動詞と密接につながっている。

考えてみれば、「名を呼ぶ」という行為はわたしたち人間にとって実に多様で深い意味を持っている。
このことは英語の「CALL」でも事情は同じだ。

2010年に始まった名前シリーズの中でも「呼びかけの本義」と題したサブシリーズがあった。

そこでもお話ししたことだけれど、「呼ぶ」あるいは「呼びかける」という行為は何らかの意図のもとで行われる。
そしてその意図の中には、呼びかけの対象を支配してやろうという権力的な意思が潜んでいることも少なくない。

「呼びかけ」はあやうく、きわどい行為なのだ。
前回紹介した「わが名をみだりに称えてはならん」という十戒の教えはそのあたりを意識したのかもしれない。

それでも人々は救済を求めるとき、名を呼ばずにはいられない。
「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」と旧約聖書の創世記にも記されている。
解説によれば、この場合の「呼ぶ」は「祈る」ということらしい。

そういえば、仏教でも仏の名号を称えること、つまり称名が推奨されている。
特に浄土教では南無阿弥陀仏を称えることが極楽浄土に生まれ変わるための必須の行とされているとのこと。

主の名を呼ぶ、仏の名号を称えるなど「名を呼ぶ」ことは宗教の違いを超えて救済を求める人々に共通するふるまいらしい。

このように「名を呼ぶ」ことは人々にとって切実な行為である。
神聖な行為である。
同時に危険をはらんだきわどい行為でもある。
実に両義的な行為なのだ。

神さまの領域だけでなく、人間の世界でも本当の名は秘しふだんはニックネームで呼び合う習慣を持つ民族がある。
「呼ぶ」という行為、その行為の目的語である「な」という抽象存在には汲めども尽くせない深遠な意味がある。

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2018年7月15日 (日)

神さまの名前(その4)

これまでおもに旧約聖書の創世記に拠りつつ、そこに登場する土地の名前や人の名前について、だれが名付けたのかとか命名の由来とかについてえんえんと愚考を重ねてきた。

ここまで来た以上、その土地や人を作った張本人である神さまの名前についても知らんふりをするわけにはゆくまい。

神さまに名前があるのかどうか?
土地や人と同じように、神さまにも固有名詞が必要かどうか?

むずかしい深刻な問いである。

手許にある中央公論社版の旧約聖書では「わたしはお前の神ヤハウェである」とみずから名乗りを上げている(出エジプト記20章2節)。

しかし、新共同訳では「わたしは主、あなたの神」としか言っていない。
数種類ある日本語訳では、ヤハウェという固有名詞を明示しないのが大勢であるようだ。

ヘブライ語の原典にはたしかに「YHWH」(ヘブライ文字をローマ字に翻字)とあるけれども、この部分をどう訳すのか、どう処理するかは複雑な歴史的経緯もあって困難な問題らしい。

いずれにせよ、私ごときには手に負えない。

神さまに名前があるのかどうか?
その名が「ヤハウェ」なのかどうかはわからないけれども、テキストをすなおに読む限りあるような気がする。

創世記(新共同訳)にも、「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」とある(4章26節)。
中央公論社版では「名を呼ぶ」とは礼拝することである、と解説されているけれども、礼拝の際に何らかの固有名詞を称えたのではないだろうか?

人間にとって、固有名詞は事物にたどり着くための手掛かりである。
たとえ相手が唯一の神さまであっても、すがりつくためには手掛かりがほしい。

だからモーゼは、イスラエルの人たちから「その神の名は何か」と聞かれたらどうしよう?と神さまに問いかけたのだ(出エジプト記3章14節)。

モーゼの問いに対して、神さまは「わたしは『ある』というものだ」と答えている。
たしかに「ヤハウェ」というのは「存在」という意味らしいから、それなりに筋が通った答えと言えるかもしれないけれども、モーゼにとっては何だかはぐらかされたような気分だったろう。

それはともかく、神さまは「わが名をみだりに称えてはならん」とも言っている(出エジプト記20章6節)。
わざわざそんな訓戒をたれるということは、逆に言えば神さまの名を称えるという風習が存在していたということだ。

やはり、神さまには名前があったような気がする。
もしそうだとすれば、また私の悪い癖で「じゃあ、その名はだれが付けたのだ?」という疑問が頭をもたげてくる。
困ったものである。

それとも、神さまの名はわたしたちがふだん考える「ある」とか「ない」とかを超越した次元の問題なのだろうか?

 

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2018年7月 8日 (日)

土地の名 人の名(その14)

前回はやや尻切れトンボに終わった感がある。

名あるいは名前のことを考え始めると、疑問ばかりがどんどんふくらんでいって収拾がつかなくなるのだ。
困ったものである。

それでも懲りることなく、また気を取り直して考えはじめる。
今回もどうやらそんな雲行き。

創世記によれば人類の始祖である人間はアダムという。

この名は神さまが命名した。
創世記5章2節にそう明記されている。

ところが、事態はそうすっきりとは片付かないのだ。

この人のことをどう呼ぶべきか?
少なくとも7種類ある日本語訳の間でずいぶん異同がある。

はじめはこの最初の人間のことを単に「人」と呼んでいる。
この点はどの訳でも共通しているようだが、叙述が進むにしたがってこの人の呼び方にさまざまなバリエーションが生じてくる。

「彼」という代名詞を用いる場合、「男」という普通名詞を用いる場合、あるいは「アダム」という固有名詞を用いる場合など。
また、「アダム」という固有名詞の初出箇所も異なっている。

それぞれの訳書ごとにしかるべき考えがあって使い分けているのだろうけれど、では、それはどのような基準によっているのだろう?

ヘブライ語で表記された原始創世記では、この点どう表現されているのだろう?
神さまの創造のはじめから「アダム」(にあたるヘブライ語)で、統一されているのだろうか?

こんな幼稚な疑問は原書に当たればすぐ氷解することは分かっているのだが、いまからヘブライ古語を勉強するのも億劫だし…。

前回もお話ししたように、神さまが命名したのはアダムだけである。
奥さんのエバの名はアダムが付けた。

解説によるとエバは「いのち」の意味だそうだ。
そもそも「アダム」の語も、「土」あるいは「人」の意味だというから、初期の固有名詞は普通名詞の流用から始まったのかもしれない。

少し前に命名主はだれかを問題にした「エデン」という地名も、「平原」という意味だという。

固有名詞は個体識別の用を果たせばいいいのだから意味は不要なはずだけれど、やはり意味とのつながりは切ることができないようだ。

だとすれば、アダム、エバ夫婦の間に生まれた人類最初の子供であるカインとアベルの名も何らかの意味を持っているのではないかと思われる。

アダムとエバはどんな思いでこの子たちの命名をしたのだろう?
悪い癖でまたしても詮索したくなってくる。

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2018年7月 1日 (日)

土地の名 人の名(その13)

年のせいか、どうでもいいようなことに変にこだわる癖がつてきた。

エデンという地名にしろ、アダムという人名にしろ、だれがどういういきさつでそんな名を付けたのか?
なんて、多くの聖書読みは気にもとめないにちがいない。

うんうん、そうか、と素直にすんなりと読み進めていくにちがいない。

それにこんなことにこだわってもいいことは何一つない。
前回の最後に書いたように、カオスに落ち込んでいくのが関の山だ。

それでもことばが世界を作っているのだから、その「ことば」の実体である「名前」にはこだわらざるを得ない。

固有名詞であれ普通名詞であれ、はたまた動詞や形容詞や助詞であれ「名前」がある以上、いつかだれかが何らかのいきさつでこの世に送り出したのだ。

私はその瞬間を凝視したい。

だから今日もまた(人から見ると)つまらないこだわりが続く。

おさらいをしておこう。
神さまは天地創造の6日目に土くれ(アダマー)から人(アダーム)を創造した(1章26、27節、2章7節)。
そして、その人をアダムと命名した(5章3節)

また神さまは女も創造した(1章27節、2章22節、5章2節)。
ただ、女の名はすでに世にあったアダムがエバと付けた。

解説によればエバとはいのちの意味だそうだ。
アダムもまた土や人の意味を持つというから、この世の初期には普通名詞から移行する形で固有名詞が成立したのだろうか?

さて、時移り世界最初のこの夫婦は世界最初の赤ちゃんを産んだ(4章1節)。

カインというこの赤ちゃんの名前はだれが付けたのか創世記は触れていない。
だが、「この子の名前、どうしようかねえ」と、いまと同じくアダムとエバが知恵を絞って命名したと考えるのが自然だろう。

カインという名がどのような意味を持っているのかはわからない(もちろん固有名詞だから、意味などなくてもかまわないが)。

アベル殺害事件の後、カインは結婚して子供を作った(4章17節)。
そしてその子をエノクと名付けた(と思う)。

その次にわりに重要な記述がある。
カインは町を建設しその町を息子にちなんでエノクと名づけたというのだ(4章18節)。

つまり人類最初の町の名は人名にちなんで命名されたのだ。

このような例は近代史にもある。
レニングラードやスターリングラードなど。
もっともこれらはソ連崩壊後もとの名前に戻ったけれど。

アメリカのワシントンもそうだろう。
愛知県豊田市もそうかもしれない。

しかし、本来土地の名は人の名に優先するのが自然だと思う。
ワシントンだって、もともとその姓は一族が発祥した土地の名からとられているのだ。

日本だって、比企の庄から勃興したから比企一族を名乗る、三浦の郷から出たから三浦一族を名乗るなど、土地をベースに姓が形成されているのが普通だ。

それはさておき、創世記ではカインが町を建設し息子にちなんでエノクと名付けたあと、ノアに至るまでえんえんと系図が紹介される。
さまざまな名前が登場する。

創世記は何も書いていないが、最初の人間アダム以外はいまと同じように親たちがあれこれ悩んで名前を考えたのだろう。

エノク、イラデ、メホヤセル、メトサエル、レメク、ヤバル…。

何をヒントにこのような名を考えたのだろう?
創世記執筆者の生きていた時代にこんな名が多かったのだろか?

「卑弥呼」と同じくみな単名である。
いまのような姓と名の組み合わせじゃない。

大昔はみなそうだったのだろうか?
単名で間に合ったのどかな時代だったのだろうか?

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2018年6月25日 (月)

土地と名前(その8)

前回は最後のほうで少々いじけてしまった。

でも、だれも何も言わない以上、いじけるだけの値打ちはあるのではないか。
そう開き直ってみたい気もする。

それというのも、名あるいはことばが創世記が語る天地創造ではとても重要な役割を果たしているからだ。

まず、神さまが「光あれ!」ということばを発したから光が生まれ闇が生まれた。
そして神さまは光を昼と呼び闇を夜と呼んだ。

つまりそこで時間が誕生し、時間の分節が始まったのだ。
「朝となり夕となって、一日が終わった。」

創造の二日めに神さまは「大空あれ!」と言った。
すると、そうなった。
そして大空を天と呼んだ。

つまりそこで空間が生まれ、空間の分節が始まったのだ。
あとはみなさんご案内の通り。

時間が生まれ、空間が生まれ、時空間の秩序が生まれたのはすべてことばのわざによる。
創世記はそう語っているのだ。

地名もまたことばである以上、私がエデンの園やそこを源流とする4本の川の名の由来を問題にするのは少しもおかしくない。
何といってもこの世で最初の固有名詞なのだから(少なくともキリスト教世界では)。

ついでだから、この際人名についてもこだわってみたい。

神さまは創造のプロセスで植物を作り動物を作り、最後にみずからに似せて人間を作って世界の支配権を与えた。

その最初の人間の名はアダムと言った。

人は赤ちゃんが生まれるとその子に名前をつける。
どんな名前にしようか?けっこう思い悩むものである。
私にもそんな経験がある。

アダムの名付け親はもちろん創造主の神さまである。
神さまもそれなりに悩んだのだろうか?

このあたり、旧約聖書の言語であるヘブライ語とその日本語訳との関係が問題になってくる。

日本語訳の聖書では、最初は単に「人」となっていて「アダム」という固有名詞が登場するのは4章の終わりないし5章のはじめからである。

解説によれば「アダム」は「人」の意味ということだから、ヘブライ語で書かれた原創世記では神さまがアダムを創造した時からずっと同じ語で通してきたことになる。

ならば5章第3節で、神さまがアダムと命名したという記述はどのような意味を持つのだろう?

多くの日本語訳の間にも異同がある。

ある訳では、5章3節でアダムの命名が初出するのに、すでに4章25節でアダムの名が明記されている。
別の訳では、同じ個所はまだ「人」と表記されている。

こうして考えれば考えるほど、混乱は深まってくる。
まるで宇宙開闢のときの混沌のようだ。

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