2024年7月14日 (日)

一音節語をめぐって・まとめ(その3)

一音節語の調べ方として50音図の「あ」行から順に下に降りて行くという方法をとった。
そして辞書を参照して一音節語がないかどうかを確かめていった。
一音節語が見つかると、それに少しづつコメントを加えていった。

そこでしみじみ思うのは50音図の便利さである。

各段は母音が共通している。
つまり、口の形が同じである。

各行は頭子音が共通している。
段によって口の形は違うが、共通の個性を持っているように感じる。

たとえば、これは「さ」行のところで書いたけれども、語頭に「さ」行音が来る語にはさわやかな印象を与える語が多い。
また、「な」行や「は」行や「ま」行の各音は柔和な印象を与える語が多い。
だから、女の子の名前によく使われる。

このような各行の個性が強く印象に残った。
このことが分かるのも50音図のおかげである。

これは以前にも書いたことだが、50音図は音や文字の整理法として実によくできている。
日本語を構成する音について母音と子音の分析によって位置づけ、あわせてかな文字を図の中にうまく収納している。

これができるのも、日本語が音節言語(モーラ言語というほうが適切?)であり、仮名文字が音節文字だからだ。
音節言語でなかったら、たとえば英語だったらこうはいかぬだろう。

英語のほか、フランス語やバスク語、ケルト語やスワヒリ語、タイ語などでは50音図に類した言語音や文字の整理法があるのだろうか?
あればぜひご教示いただきたい。

そもそも言語音や文字を整理しようという発想はどこからうまれたのだろう?
文字の習得には教育が必要だから、整理の必要性は納得できる

しかし、音声言語は教育を経ずに自然に習得出来てしまう。
したがって、整理の必要などない。

ウィキペディアによると、50音図はインド、中国起源で10世紀ごろ日本に伝来したらしい。
その頃にも言語学者がいて、音声についても整理の必要性を痛感していたのかもしれない。
あるいは、ことばの神秘に囚われた人が、その解明のために思いついたのかもしれない。

私は解明というほど大げさではないが、日本語への旅のサブトラベルとして50音図の中を旅してきた。
私がこの旅に出たきっかけは、言語経済の原則であった。
言語経済の原則が貫徹されているなら、一音節語が多いはずである。
こうして検証の旅に出たのだった。

しかし旅を終えた今わかったことは、昔はたしかに一音節語が多かったが、時代が下るほど衰退してきた、という言語経済の原則に反する事実である。

しからば、言語経済の原則は破綻したのだろうか?
いやいや、そうではあるまい。

言語経済の原則は依然として言語を支配しているのだが、一音節語の場合はそれを上回る致命的な欠点がある(それについては既述した。)からにすぎない。
その証拠に、世界にどの言語でも多音節語にはそれを短くする略語がある。

たとえばNATO。
これは正しくは北大西洋条約機構という。
でも、長ったらしいからみんなNATOと言っている。
その正式名称を知らない人も多いのではないか?

日本語でも略語は重宝されている。
日本語には漢字があるから、なおさら略語が多い。
たとえば安保理と聞いたり読んだりすれば、誰でもわかる。

テレビは正式にはテレビジョンという5音節の語であるが、誰も正式名称など言わない。
それに関連して私がいつも不思議に思うのは、エレベーターやエスカレーターのことである。

エレベーターは6音節、エスカレーターに至っては7音節もある。
にもかかわらず、「エレベ」や「エスカ」などのような短縮語はない。

何故だろう?
うーむ、やはり言語は一筋縄ではいかない。

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2024年7月 7日 (日)

一音節語をめぐって・まとめ(その2)

まとめの第2は、漢字・漢語が日本語に与える影響の大きさである。

今回の一音節語の旅の手法は、現代語辞典、古語辞典で「あ」から調べていく、という方法であった。
一音節語は当然和語のほうが圧倒的に多いが、その意味は漢字で表現した。
仮名と違って、漢字は意味をあらわすことが出来るからである。

漢字は意味をあらわすことが出来るから、人名にも多く用いられる。
しかも人名にしか現れない読みが多い。
たとえば、「利=とし」とか「信=のぶ」とか「秀=ひで」のように。
このような読みはどのようにして生まれたのだろう?
こうした疑問も旅の途中できざしたものだ。

今回の一音節語の旅を進めるにあたっても、一音節語は和語に圧倒的に多いにもかかわらず漢字に依存せざるを得なかった。
反面、仮名が漢字・漢語に影響を与えることはほとんどない。
やはり漢字は真名なのだ。

またこの過程で、漢語の2音節以上の語にも言及しざるを得なかった。
漢字の使われ方にもこだわらざるを得なかった。
漢語が日本語の中でいかに大きな位置を占めているかが分かったのも、この旅の副産物だった。

第3は日本語の発音の変遷である。
たとえば「わ」行の「ゐ」や「ゑ」、「を」である。
昔は発音が違っていたので、仮名も違っていた。
現代語では、みな「あ」行の「い」、「え」、「お」と同じになっている。
特に「ゐ」と「ゑ」は表記でも使われなくなっている。

さらに、「は行転呼」という現象が興味深かった。
語中、語尾の「は」行の各音が同段の「わ」行の音に転移するという現象である。
これで助詞の「は」をなぜ「わ」と読むのか、助詞の「へ」をなぜ「え」と読むのか納得がいった。

こうして発音の変遷は、かな遣いにも影響を与えている。
「は行転呼」は平安時代に起こったと言われている。
発音の変化の要因はいろいろあるだろうが、専門に研究している人はいるのだろうか?

なぜこんなことをいうかと言えば、過去に起こったことはこれからも起こり得るからである。
あるときある人が発音を少し変化させた。
それが周囲の人に受け入れられて、やがて一定に言語集団のなかで発音の変化が定着するかもしれない。
それが表記にも影響を及ぼす。
そんな可能性も無きにしも非ずである。

もっとも、その前に言語人口の減少によって日本語そのものが消滅してしまうかもしれないが…。

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2024年6月30日 (日)

一音節語をめぐって・まとめ

時々寄り道をしながらではあったけれども、50音図の旅がようやく終わった。
かれこれ1年かかった。

この旅を始めた動機は、その直前の記事にある「言語経済」からだった。
言語経済が私たちの言語活動の原則だとすれば、発話に要するエネルギーを極力節約しようとするはずだ。
だったら、最少の発話エネルギーですむ一音節語が重要な位置を占めているにちがいない。

こうして一音節語を探る旅に出た。
具体的には、50音図の「あ」から一文字ずつチェックしていった。
その結果はこれまでの旅の記録に記してあるが、この機会に気の付いた点をまとめておこう。

まず第一に、一音節語は古語には多かったが、現代語では衰退している、ということだ。

言語経済の原則に従えば、もっとも身近でよく使う人称代名詞に一音節語が多いことが推定される。
たしかに古語では「あ」や「わ」や「な」のような一音節の人称代名詞が活躍していた。

しかし時代が下るにしたがってそれ少なくなり、現代語では「わたし」、「ぼく」、「きみ」、「あなた」、「おまえ」のような2音節以上の語に取って変わられてしまっている。
このような言語経済の原則に反する変遷が生じたのは何故か?

私が思うには、一音節語の致命的な欠点は偶発的に発生した音と区別がつきにくい、ということである。
たとえば、トイレの空室を確認するときのノックは「トントン」と2回たたく。
偶然何かが当たって生じた音と区別するためである。

こうして一音節語の欠点が次第にあらわになってきて、だんだんすたれていったのだと思う。

人称代名詞に限らず、他の分野でも一音節語は少ない。
それに比べて2音節や3音節の語は非常に多い。
一音節語の欠点をカバーし、言語経済の原則にもそれほど反していないからだろう。

私が不思議に思うのは、複合語を別にして多音節語の存在である。
たとえば「みっともない」は6音節である。
一音節語に比べれば、発話エネルギーは格段に大きい。

ここまで来れば明らかに言語経済に原則に反している。
「ぶざまな」という4音節の類似の語もあるが、それに取って代わられるという気配もない。

何か多音節語には言語経済の原則をおぎなってあまりある効用があるのだろうか?
私はそれが何かわからないけれども、現代まで生き残っているからには何らかの効用があるにちがいない。
どなたか教示していただけないだろうか。

ともあれ、言語の問題は言語経済一本やりでは解きほぐせない。
言語の問題は考えれば考えるほど、奥が深い。

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2024年6月23日 (日)

「ん」の居場所(その2)

これで50音図の旅はひととおり終えたのだが…。
何か忘れ物をしている気がする。

そう、「ん」である。
「ん」は母音を持たないから50音図のタテヨコのマトリクスに位置付けることができない。
なので、仕方なく表外字として付け足している。

さすがに私も「ん」の存在を気にかけていたらしく、一音節語シリーズが始まった初期の頃、『「ん」の居場所』のタイトルで投稿している(2023.9.11)。
そこではこんなことを言っている。

・「ん」の音はもともと日本語にはなかった。
・漢字伝来以後、漢字を発音するために「ん」の音と文字が開発された。

なるほど、そんな歴史的経緯を知ると「ん」が表外字として仲間外れにされているのも分かるような気がする。

それから、こんなことも言っている。

・漢語には「ん」を含むものが多いから、日常会話にも「ん」の音はよくあらわれる。
・でも、私たちは音声言語で「ん」の音をちゃんと聞き取っているだろうか?
・脳裏で「研究」や「看板」という漢字を思い浮かべて、そこに「ん」が存在していると思っているだけではないだろうか?

たしかにわたしたちは音声言語では「ん」は直前の母音に吸収されてしまってほとんど聞き取れていない。
漢字の力を支えとして聞き取っていると錯覚しているだけだ。

とにかく、日本語における「ん」は取り扱い要注意だ。

ところで、広辞苑では「ん」というひらがなは「无」の草体だそうだ。
どうしてこの漢字を選んだのだろう?

漢和辞典で調べてみると、この字の字音は「む」であり「無」と同字とある。
なるほど、「ん」は「無」に通じているのだな。

東大寺の南大門に「阿吽」の金剛力士像があるように「ん」は宇宙の終わりをあらわすのだ。
私の50音の旅の終わりにはふさわしいかもしれない。

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2024年6月16日 (日)

一音節語をめぐって(その32)

前回の最後のほうでは、「和」から話が広がって異文化の受入れパターンにまで及んだ。
やや横道にそれたかもしれない。

もう一度「和」に戻りたい。
前回日本文化の例として、和服、和室、和菓子などをあげた。
しかし、日本の絵画を「和画」とは言わない。
洋画に対して日本画である。
あるいは、映画の場合は洋画に対して邦画という。

音楽の場合はどうだろう?
洋楽に対して邦楽という。
でも、それを演奏する楽器は邦楽器といわず、和楽器という。
そしてドレミファソは洋音階、 雅楽のような日本独特の音階は日本音階。
訳が分からない。

同じ文化要素なのにどうして表現が違うのだろう?
「和」と言ったり「日本」と言ったり「邦」と言ったり。
慣用でそうなった、と言ってしまえばそれまでだが…。

文化要素に「日本の」という形容をつける場合、「和」がもっとも一般的だが、絵画や音階のようにあえて「日本」と付けるのは何故だろう?

それから、「邦」と付ける場合は「海外にある邦銀支店」のように海外にあることを意識しているように見える。
しかし、「邦画」や「邦楽」はそうでもないように思う。
こんなことは考えても詮ないことだが…。

それから、「わ」を国号として用いる場合、「和」のほかに「倭」という漢字もある。
「倭」は主に中国や朝鮮半島の人が日本を指して用いた文字だが、日本人自身が「くに」を指すときこの文字を用いたかどうか?
そもそも今のような「国」という観念がない時代だから、どうしていたのだろう?

漢和辞典で「倭」を調べてみると、「したがうさま」、「うねって遠いさま」という字義が出ている。
あまりいい意味とは言えない。
だから日本人自身は使わなかったのではないか?
もっとも「和」よりも先に「倭」が入ってきたのなら使うしかないが…。

もうひとつ大事なことは古語では「わ」が人称代名詞として使わていた、ということだ。
現代語では一音節語として「わ」を人称代名詞として使うことはないが、「わが友」「我が国」としてその片鱗は残っていいる。

少し前、わ行については「ゐ」以下は問題にしなくていい、といったけれど、「を」について一言だけ。
「尾」や「緒」は広辞苑では「お」の項に出ているが、古語辞典では「お」の項にはなく、「を」に出ている。
つまり、むかしの発音は「お」ではなく「を」だったということか。

こうしてあれこれ調べてみると、面白いことがわかるものだ。

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2024年6月10日 (月)

一音節語をめぐって(その31)

ようやく最後の「わ」行にたどり着いた。
50音図も最後のほうになると特殊である。

「わ」行も「や」行と並んで、「わ」以外は「あ」行と同じ発音である。
ただし「や」行と違うのは、「わ」行の「い」、「え」、「お」には「ゐ」、「ゑ」、「を」という別のかながある、ということである。

しかし、「ゐ」と「ゑ」は現代表記では用いない。
だから、その場所を空欄にしている五十音図もある。

大昔は、あ行の「い」や「え」とは違った発音だったらしい。
だから、「ゐ」や「ゑ」という仮名ができた。
しかし時代が下るにつれてあ行音との混同が進み、違いが判らなくなった。
そして今、「ゐ」と「ゑ」は姿を消した。

しかし「を」はしぶとく残っている。
「ブログを書く」のように、助詞の表記として健在である。
これは歴史的かな遣いとの妥協の産物である。

妥協を排して表音主義という現代かな遣いの原則に従えば「ブログお書く」になるはずだが、習慣は恐ろしいもので今ではこう表記すると幼児っぽく思われてしまう。

それから、わ行はは行のところで触れた「は行転呼」の受け皿でもある。
助詞の「は」もその一例である。

「を」と同じく、これも現代かな遣いの例外である。
「私わブログお書く」では間違いとされる。

というわけで、「ゐ」以下は問題にしなくていいから、「わ」だけを見ておこう。

まず思いつくのは「和」である。
「平和」とか「中東和平」などという熟語は最近新聞等でよく目にする。

これは漢字の熟語だけれど、「和を結ぶ」のように一音節語としても使われる。
字音が一音節語として使われるのも珍しい。

「和」には「やわらぐ」、「なごむ」という意味があるから、人名としてもよく使われる。
「和子」、「和彦」などはよくある名前だ。
特に終戦後に生まれた子によくつけられた。

この場合の「和」は「かず」と読む。
「利ーとし」の場合と違って、なぜ「かず」と読むのかその理由がよくわからない。

それから、「和」は訓として「やまと」とも読む。
「大」をつけて「大和」とも表記する。
大和国いまの奈良県だけでなく、漠然と日本全体のこともいう。
今では、日本全体を意味することのほうが多い。

漢語に対して和語と言ったりする。
国語辞典に対して漢和辞典とも言う。
この場合、単に日本を指すだけでなく、「まじりけのない日本」というニュアンスを感じる。
つまり漢字伝来以前の、中国文化に影響される前の日本を意味している。
本居宣長たちがあこがれた時代である。

そのほかにも日本文化を代表するものとして和食、和服、和室、和菓子などがある。
西洋文化が入ってきて、洋食、洋服、洋室、洋菓子が一般的になってもまじりあうことはない。
そのジャンルはいまも健在である。

異なる文化が出会うときに生じるパターンはふつう置換、折衷、共存と言われている。
キリスト教がそれまでの既存宗教を一掃してしまったのは、置換の見本である。
折衷はふたつの異なる文化要素が融合し、どちらでもない新しい文化が成立することをいう。

これに対して、日本の異文化の受け入れ方はそのどちらでもない。
仏教が入ってきても神道も健在である。
漢字が入ってきても仮名という日本語専用の文字を作りそれを併用している。
このようなパターンは世界でも珍しいほうかもしれない。

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2024年6月 2日 (日)

一音節語をめぐって(その30)

「ら」行のその他の音について、一挙に片づけてしまおう。


まず、「り」である。
もちろん和語の一音節語はない。

一方、漢字の字音は多い。
日本語で一番よく使われるのは「利」である。
「利益」、「金利」、「勝利」、「営利」、「鋭利」などよく出て来る。

日本では「大久保利通」など人の名前にもよく使われる。
私の父の名前にも入っている。

漢和辞典によれば「利」は訓として「きーく」が出ている。
「気が利く」、「洗濯が利く」、「口を利く」などという。

しかし人名の場合は「とし」と読む。なぜ「とし」と読むのだろう?

漢字の「利」には「するどい」という意味がある。
「するどい」はむかしの和語では「とし」ともいう。

また、「とし」には「はげしい」、「すばやい」、「かしこい」という意味もある。
名前に使われてもおかしくない。

つまり、人名の「とし」の読みは「利」の意味から取ったものなのだ。
漢字の字音とは何の関係もない。
日本人の名前にはそんな漢字が多い。

次に「る」である。
日本語では形容詞の終止形の語尾として使われるが、もちろん一音節語ではない。

「り」と違って、字音もほとんどない。
思いつくのは「流」と「僂」くらいだろうか。
「僂」は日本語ではほとんど使われない。

「流」には「りゅう」という字音もある。
「観世流」とか「急流」とか言う。
こちらのほうが一般的かもしれない。

「れ」に至っては、どの辞書にも字音すら出ていない。
漢和辞典にも「れ」はない。
「怜」と「麗」があるだけだ。
こんな音節は珍しい。
きっと語中や語尾に必要な音節として開発されたのだろう。

それに比べれば、「ろ」はまだましである。
「路」や「露」は新聞でよくお目にかかる。
「道路」や「暴露」という熟語がよく出て来る。
「露」は「ロシア」の漢字略号としても使われている。

舟をこぐ「ろ」は和語っぽいけれど、これも字音である。
「櫓」という漢字である。

漢字伝来以前にも日本列島には舟はあったはずである。
その頃は何と呼んでいたのだろう?
それとも「かい」しかなかったのだろうか?

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2024年5月26日 (日)

一音節語をめぐって(その29)

次の「ら」行も特殊である。
そもそも和語では「ら」行の音が語頭に来ることがない。
したがって「ら」行の一音節語はない。

これで話を済ませると楽ちんなんだけれど、そうはいかない。
語頭に限らず「ら」行音を含む和語は他の行に比べて圧倒的に少ない。
「れ」に至っては辞書には和語も漢語もひとつもない。
「ら」行音は日本語の中では異端なのだ。

どうして異端なのだろう?

現代語では「ら」行音はよく出て来る。
「もっと論理的に話せよ」とか「練習に行かなくちゃ」とか「早く食べろ」とか言う。

最初の二つの例は漢語である。
漢語には「ら」行音を含むものが多いから、漢語・漢字を受け入れ使いこなすなかで「ら」行音が増えていった。
三つ目の例は和語だけれど、この「ろ」は動詞の活用語尾として働いているに過ぎない。

いずれにしても「ら」行音は他の行に比べて日本語の中では主流ではない。
異端の地位に甘んじている。

一音節語はないけれど、一応各音をレビューしてみよう。

まず「ら」である。
広辞苑では「拉」と「羅」が出ている。
「拉致」や「羅列」、「網羅」はよく目にする。
しかしすぐ思いつく「裸」は出ていない。

明解国語辞典には、「等」と「裸」と「羅」が出ている。
「羅」は共通しているが他は違う。

辞典はことばを調べる拠り所なのだから、こんなことでは困る。
各社の採用基準はどうなっているのだろう?

「等」は比較的よく使う。
特に法律文では逃げ道あるいはぼやかす意味で愛用される。
「国の機関等に対する処分等の適用除外」などと使う。

この「等」は「とう」と読む。
漢和辞典には訓は「など」と出ている。

では、「これ等」や「彼等」の「ら」はどうなのだろう?
新明解漢和辞典には訓として出ているが、一般的には訓とは認識されていないように思う。
その証拠に、「漢字林」という別の漢和辞典では訓として出ていない。

明解国語辞典によれば、この「ら」は接尾辞として機能している。
「彼等」のほかにも、「どちら?」、「いくら?」の「ら」も接尾辞である。
中国語ではこのような使い方はしない。

結局のところ、この「ら」は字音なのか訓なのか?
よくわからない。

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2024年5月19日 (日)

一音節語をめぐって(その28)

「い」を飛ばして「ゆ」である。
「ゆ」の一音節語としてよく使われるのは「湯」である。
水を沸騰させたものである。

英語では「hot water」という。
そのほかの欧米語でも似たようなものだと思う。
つまり、「湯」を水のカテゴリーとして認識している。

そこへいくと日本語や中国語は違う。
あくまでも水と湯は別物なのだ。
だから、別のことば、別の文字が用意されている。
世界の認識の仕方はことばに反映されるのだ。

日本語で湯は熱い水のことを意味するけれども、そこから派生して風呂や温泉のことも意味する。
「龍の湯」とか「太平の湯」とか「湯の街」と言ったりする。
英語では「hot spring」とここでも二語で表現するが。

辞書にはほかにもいくつか出ているが、現代語では使わない。
それから、正式な語ではないが、「ゆ」は「や」と「よ」の間に位置するので「野党」と「与党」の間にあってどっちつかずのあいまいな政治的立場を揶揄して「ゆ党」と呼ぶことがある。

以上は和語の話だけれど、「ゆ」の字音を持つ漢字として、「油」、「喩」がある。
「油」は「原油」や「油田」として今でもよく使われる。

しかし、「喩」は字が難しいので「比喩」くらいしか使わない。
いずれも一音節語ではない。

さて、「え」を飛ばして「よ」である。
「よ」と言えばまず「世」である。
「世の中」、「世に問う」、「明治の世」、「人の世」、「浮き世」などと言ったりする。

非常に多義的な語である。
だから、「世をはばかる」のように「よ」を含む慣用句も辞書には40近く出ている。

原義は何だろうか?
要するに人が生きる時間空間を包みこむ何かをまとめて「世」と表現しているのではないか?

広辞苑には、「語源的には節(よ)と同じで、限られた時間の流れを意味する」との解説が載っている。
「源氏の世」、「平家の世」などの言い方はよく使われる。

してみると、時間的な意味が源なのか?
いやいや、辞書には「人が集まって生活しているところ、またそこの人々」という語釈も出ている。

とにかく多義的な語だから何が原義で何がそこからの派生なのかも判然としない。
こういう語は扱いにくい。

「よ」を漢字で表記すると「世」になる。
辞書には「代」も一緒に出ている。
「君が代」、「第73代首相」のあの「代」である。

時間的には共通する意味もあるが違う部分もある。
「代」のほうは、「代替わり」というように「いずれ代わる」という意味を含意している。
「世」にはそんな意味はない。
だから、「世」のほうがよく使われる。

欧米語には「よ」にどんぴしゃりの訳語がない。
時間的な意味としては、timeやlifeがそれに近いかもしれない。

空間的な意味としては、worldというまったく別の語が近い。
でも、日本語のようにどちらの意味も含めて「よ」ということはない。

とにかく「よ」は扱いにくいけれど、もうひとつ「よ」がある。
漢字で書くと「予」や「余」である。
この「よ」は一人称である。

「予の言うことが聞けぬのか!」とか「余の刀を持ってまいれ」とか言う。
時代がかった一人称なので時代劇でよくきく。

でも、現代語でも使える。
夏目漱石などは自分のことを「余」と言ったりしている。
私だってふざけて使うことはある。
漢語では「予定」とか「余裕」はよく使うけれどももちろん一音節語ではない。

それから「夜」はふつう「よる」と読むけれども、「よ」と発音することもある。
「夜を徹して」とか「月夜」とか「真夜中」とか言う。

「や」と発音することもできる。
「暗夜」とか「夜半」とか「徹夜」とか言う。

とにかく「や」行は特殊でややこしい。

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2024年5月12日 (日)

一音節語をめぐって(その27)

「や」行はやや特殊である。

そもそも現代語では「や」行の「い」と「え」は音韻的に「あ」行の「い」と「え」と同じである。
「や」行で有意味な音節は、「や」、「ゆ」、「よ」だけである。
だから、五十音図では「や」行の「い」と「え」の欄は空欄にすることもある。

日本語の音節は頭子音と母音でできているが、「や」行の「い」と「え」は頭子音を欠いているので、「や」行全体を半母音と呼ぶことがある。

それにアルファベットはすべての文字に大文字、小文字の区別があるけれども、日本語のかなで小文字があるのは「つ」と「や」、「ゆ」、「よ」だけである。
「つ」の小文字は促音の表記に、「や」、「ゆ」、「よ」の小文字は拗音の表記に用いられる。

もちろんこれは戦後の表記である。
昔は促音も拗音も大文字で表記した。
したがって、「や」、「ゆ」、「よ」の小文字はなかった。

さて、「や」の一音節語はまず「矢」である。
「矢」は古代から有力な武器として用いられてきた。
昔の武将の絵には、たいてい弓矢が描かれている。

矢は「攻撃性」、「速さ」、「鋭さ」を象徴しているから、これらを含意する慣用句も少なくない。
「矢でも鉄砲でももってこい!」、「光陰矢の如し」、「矢もたてもたまらない」、「矢の催促」など。

それから「八」がある。
もともと数詞であるが、たんに8を意味するだけでなく古代では数が多いことあらわした。
「八雲立つ出雲八重垣…」のように。
「八百万の神々」、「うそ八百」もそのような意味だろう。

「谷」は低湿地の地形を意味する。
いまは主に地名に残っている。
関東はこんな地形が多かったのか、「や」のつく地名が多い。
「渋谷」、「四谷」、「千駄ヶ谷」、「阿佐ヶ谷」などのように。

関西では「や」という地名はない。
「たに」という。

一音節語ではないが、接尾語の「や」もある。
「坊や」、「ばあや」、「ねえや」などのように。

「坊や」を除いて今はほとんど死語になっているが、母は子どもの頃の「ばあや」について話していたことを思い出す。
血縁関係はないが、乳をやったり子供の世話をする人のことである。
「乳母」とも言う。

以上は和語だけれど、広辞苑には「や」と読む漢字が、「夜」、「野」の二つが出ている。
「夜間」、「野外」など日常的にわりとよく使うが、一音節語ではない。

「夜」は意味はひとつだけれど、「野」はふたつある。
ひとつは「の」である。
野原のように、広々と開けたところである。

もうひとつは「や」である。
「官」との対比を意識している。
政府と離れたところを意味している。
「在野」も「下野」もその意味の熟語である。
「野党」は政府の反対勢力である。

政府が正統という意識のせいか、多少軽蔑のニュアンスも含まれている。
「野卑」とか「粗野」ということばはそんな意味で使われている。
「野人」などという語には、洗練されていないという意味がある。

一方で何物にも縛られない自由奔放さにあこがれる意味もある。
もともと「や」は政府と違って広々と開けたところなのだ。

ことばはなかなか一筋縄ではいかないものである。

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