活字の盛衰
グーテンベルクの活字印刷以降、文字言語は「もの」になった。
かさや大根やTシャツと同じような物品になった。
というのが前回のお話だった。
前回は言い忘れたけれど、「商品」になったということでもある。
商品になった以上、「品質」がきびしく問われるようになる。
それも安定していることが求められる。
手書き文字は一定していない。
同じことを書いても人によってその形状はずいぶん違うし、同じ人でも気分や体調によって微妙に異なる。
これでは商品として取り引きの対象にならない。
(時々有名作家の手書き原稿がオークションに出ることがあるけれど、あれはまた別の話だ。)
そこへいくと活字はいついかなる時でも不変不動である。
スタンダードを踏みはずさない。
この信頼は大きい。
人々の信頼を基礎としているという点では活字は貨幣に似ている。
貨幣と同じように、活字は知識や情報、歴史や文学、感性や思想の生産、流通、消費を加速する。
そして「活字文化」という権威を確立する。
むかしは自分の書きものが活字になった、といえば少しばかり晴れがましい気持になったものだ。
何だかちょっとえらくなった気分…。
活字の「権威」がなせるわざである。
しかし、ワープロ、パソコンが標準の筆記具になってから活字の権威は著しく低下した。
ふつうの人々が活字と同じ高品質で安定した文字を駆使するようになったのだ。
私が書いたものだって、見かけ上は活字印刷物と変わりない出来ばえになる。
そして、だれでもこのブログのようにネット上に流通させることができる。
かくして活字の権威は失われた。
活字文化がになっていた「教養」の価値は下落し、岩波文化の権威も過去のものになった。
空疎な権威が失墜するのはいいことだけれど、ITやネット技術は言語文化の新たな可能性を開いてくれるのだろうか。
思わぬ副作用はないだろうか。
これから先なにが起こるかわからないけれど、ITネット社会の到来はわたしたちの言語活動にはかりしれない大きな影響を及ぼす。
このことだけは確かだ。
グーテンベルグの印刷革命と同じかそれ以上のインパクトをもたらすにちがいない。
このことはみんな漠然と感じている。
けれど何しろ現在進行中の革命だから、その渦中にあるわたしたちにはかえって全貌がわからない。
あと5百年たてばそれがわかる。
いまグーテンベルグの印刷革命を回顧して、はじめてその意義が明らかになるように。
「そうか、あの時がおれたちの言語活動の転換点だったのか…」と。
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