2017年3月19日 (日)

青と緑(その3)

前回の記事をお読みになった方は、「こいつは青に肩入れしているな」と感じられたかもしれない。

正直に告白するけれど、色とことばを訪ねるこの長い旅のおわりに、私は青の精神性を再発見したような気分になっている。
だから、青にひいきしていると受け取られても否定することはできない。

はじめにお話ししたことだけれど、青と緑は同類である。
逆にだからこそ何かと張り合う関係にある。

好感度からすれば、緑のほうが上かもしれない。
しかし、私のように青に比べて緑は俗っぽい、と感じる人間もいる。

実際のところ、青と緑はどちらの方がえらいのだろうか?
たとえば、任意に100人を選んで「青と緑、どっちが好き?」というアンケートを取ったらどんな結果が出るだろう。

世代によって、男女によって、あるいは国によって違う傾向が出るかもしれない。
興味深い。

青と緑の選好に関して、どなたか大がかりな国際共同研究をやっていただけないだろうか?
あるいはすでにそんな研究がおこなわれているのなら、ご教示を賜りたい。

単に人々の選好だけでなく、青と緑はさまざまな視点から比較研究することができる。
たとえば、他の色との組み合わせを考えてもいい。

他の色との組み合わせといえば、次のような歌がすぐに脳裏に浮かぶ。

「白鳥はかなしからずや、海の青、空のあをにも染まずただよふ」

大空と大海原をひとまとめにした青い大きな空間。
一羽に小さな白い鳥が、その空間を漂っている。

青と白の色彩のコントラストが何とも印象的である。
青の世界に同化できない小さな白鳥は、孤独なのかもしれない。

この青を緑に置き換えた場合、どんな詩ができるだろう?
あざやかな新緑の森の小径を、真っ白なドレスと帽子をかぶった娘が散歩している情景を想像してもいい。

若山牧水なら、緑と白のコントラストから生命の躍動を歌い上げるかもしれない。
そこへゆくと、青と白のコントラストは静謐である。

うーむ、甲乙つけがたい。
結局、人それぞれの好みの問題に帰着する問題かもしれない。

「春を愛する人は…」から始まって四季を比較する歌があったけれど、「青を愛する人は…、緑を愛する人は…」という歌があってもいい。

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2017年3月12日 (日)

宮沢賢治と青

宮沢賢治の童話、それほどたくさん読んだわけではない。
それでも賢治と聞くと、なぜか青色を連想してしまう。

賢治とは関係ないけれど、松本零士さんの「銀河鉄道999」の影響だろうか?

もちろん、メーテルの長い金髪や登場するキャラクターの衣装をはじめさまざまな色があらわれるけれど、何となく青が支配しているような雰囲気がある。

銀河鉄道が疾走する虚空は印象的な濃紺に描かれている。
憂いを含んだメーテルの表情も、青に結びつく。

そうそう、賢治の作品に戻らなくちゃ。

静まりかえった虚空に街灯がひとつ、青白い燐光を放っている。
そんなイメージ。

どうして宮沢賢治とそんなイメージが結びつくのか、自分でもよくわからない。
断片的に読んだ賢治の文章がそんなイメージを育んだのだろうか?

たしかに賢治の作品には色彩語がよく登場するし、その中でも青が主調をなしているような印象がある。
賢治が生まれ育った花巻周辺、北上地方の風土が賢治の心を青く染め上げたのかもしれない。

むかし、私も八月の終わりのころ北上地方を訪れたことがある。
夏だというのにうすら寒かった。

深く青い東北地方の空、その空の色を映す北上川…。
寒色の青が、北上地方によく似合うことが身にしみてわかった。

この色彩と言語シリーズのはじめのほうで、青と緑を比べてみたことがあった。

青は抽象的でその分精神的。
緑は具体的で即物的。

緑色は、そこらへんにある木の葉っぱをちぎることで簡単にその色をみずからの手で確かめることができる。
しかし、青はそうはいかない。

空の青にしろ、海の青にしろつかみどころがない。

空が青いのも、海が青いのも何ひとつ事物の裏付けがあるわけではない。
わたしたちの感覚がそう信じているにすぎない。
ひょっとすると幻かもしれない。

だから、青は精神的なのだ。
だから、青は文学によく似合うのだ。

文学だけでなく、芸術全般によく似合う。
ピカソにも青の時代があった。

そう考えると、宮沢賢治と青の結びつきも納得できる。

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2017年3月 5日 (日)

金色と銀色(その2)

金色と銀色には、マンセル値がない。
したがって、色ではない。
物体表面の光学的状態をあらわしているにすぎない…。

色彩学の見地からはそんなふうに片づけることができるかもしれない。

それでも、金色と銀色はわたしたちを魅了する。
金と銀をめぐって、悲喜こもごもの物語が歴史上繰り返されてきたことをわたしたちは知っている。

金と銀は貨幣の姿をとってわたしたちを誘惑する。
装身具や装飾品として、ステイタスを誇示する小道具として用いられる。

ただし、金ぴかや成り金ということばもある。
やりすぎると品を落とす。
その意味であやうい位置にあるということもできる。
その点、黒のほうが高貴さを演出する色としてはうわ手かもしれない。

それはさておき金と銀が人を魅了するのは、とにもかくにも「輝き」を放っているからだ。
「輝き」がなければ、金も銀もただの黄色や灰色と変わらない。

前回もお話ししたことだけれど、「輝き」という現象はわたしたちの「まぶしい」という感覚とセットになっている。
「まぶしさ」を感じなければ、「輝き」という現象も成立しない。

「まぶしい」という形容詞は「まばゆい」ともいう。

この場合の「ま」は、「目」の意味だろう。
目に過剰な光が映えて(はゆる)、まぶしいのだ。

あまりにまぶしいと、わたしたちは目を閉じたり顔をそむけたりしなくてはならない。
その意味で輝きには、攻撃的な性格がある。

まぶしさをもたらす光源は金や銀である。
お日さまである。
あるいは若さであったり美しさであったりする。

その圧倒的な、攻撃的な輝きをわたしたちは直視していられない。
つい頭を下げ、恐縮する身ぶりをとってしまう。
そういえば、時代劇でも殿様が家来に「頭を上げい」と命じている。

金と銀が人々を魅了するからくりがわかったような気がする。

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2017年2月26日 (日)

金色と銀色

金色 銀色 桃色吐息…。

前々回、ちょっと登場した高橋真梨子さんの「桃色吐息」にはこんなフレーズもあった。
桃色を導き出すために、金色、銀色が用いられている。

この作詞上の技巧についても考察したいところだけれど、いまは色がテーマだから残念ながらパス。

金色と銀色について考えてみたい。

色名としては、事物の名を借りて色の名前とするありふれた方式である。
金塊の色が金色だし、虫歯にかぶせた金属の色が銀色である。

問題は、色彩学の体系の中で金色、銀色をどう位置づければいいか、ということだ。

前回、色は光の中に隠れている、というお話をした。
しかし、光のスペクトルの中に金色、銀色はない。
つまり、金色、銀色は固有の波長を有していない。

だとすれば、金色、銀色は色ではないのだろうか?
白や黒は色ではないのだろうか、という疑問とはまた違った意味で疑問が広がる。

金塊に光を当てれば、金色に輝く。
銀の食器に光を当てれば、同じように銀色に輝く。

前回は、「もの」は光と出会うことによって「いのち」を得て、光の中にある「いろ」を顕現させるというメカニズムをお話しした。

しかし、金色や銀色は光のスペクトルの中にはないのだ。
じゃあ、この色はどこから発するのだろう?

金色や銀色が、赤や青や緑などふつうの色とちがうところは「輝き」である。
ここに問題を解くカギがありそうな気がする。

この「輝き」の物理的実体は何だろう?

金属光沢、といって片づけている人が多い。
つまり金属に光を当てた時の反射が「輝き」の実体だというのだ。

じゃあ、黄色に金属光沢を加えれば金色になる?
灰色に金属光沢を加えれば銀色になる?

余りにも安易な考え方と思う。
もう少し、「輝き」という現象を掘り下げねばなるまい。

「輝き」という現象が成立するためには、人間側の「まぶしい」という感覚とセットにならなければならない。
だから、金属だけでなく太陽も輝いているのだ。

そう考えると、「輝き」は物性の問題ではなく人間の認知の問題なのでなないかと思われてくる。

金色、銀色は光のスペクトルには含まれていない。
その意味では色の異端児だ。
そのかわり、人間の認知のあり方や価値観と深く結びついている。

金色、銀色は輝いている。
そして、人々はその輝きに魅せられている。

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2017年2月19日 (日)

色即是空

前にも言ったことだけれど、もしこの世に色がなければどれほど味気ないことだろう。
ひからびた、生気のない、色あせた世界…。

そんな世界にわたしたちは生きたくない。
初期の電気工学者や技術者たちがカラーテレビ開発にかけた情熱がよくわかる。

この世の「もの」には色がある。
というより、色は光の中に隠れている。

「もの」は光によって「いのち」を与えられ、光の中の「いろ」を顕現させるのだ。

そう考えれば、この世に存在する生き生きとした「もの」を「いろ」ということばで言い換えてもそれほど見当外れではない。
こうして、「いろ」は「いのち」ある「もの」をはるかに超えて、この世の「かたち」ある「もの」すべてをあらわすことになる。

般若心経にある色即是空の「色」は、そんな意味だろう。

だから、伊藤比呂美さんは

「色不異空」について、「『ある』は『ない』にことならない」
「色即是空」について、「『ある』と思っているものは じつは『ない』のである」

と訳している。

こうして「色」はセクシュアルな意味をはるかに超えて、この世の存在物そのものまで意味するようになった。

般若心経は、その「色」が「空」なのだという。
「ある」は「ない」のだという。

うーむ。どうしたものだろう?
かくなる上は「空」とは何かを明らかにすべきだけれど、私のように修行の足りない身の上では到底理解できない気がする。

かりに「空」をふつうの意味での「ない」と解釈すればどうなるか?

「色」はセクシュアルな意味も帯びているので、あまり「色」にこだわるとわたしのような凡人は心にさざ波が立つ。
つまり煩悩が生じる。

そこで、般若心経の教えに従って「色」=「空」と観じることによって「色」へのこだわりが消え、苦しみも迷いもなくなる、ということだろうか?

しかし、これは安易にすぎる解釈のような気がする。
悟りの境地はそう簡単には得られないはずだ。

「色」について、「空」についてまだまだ勉強が足りないことを痛感する。

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2017年2月12日 (日)

色と性

少し前に、英語の「ピンク」と日本語の「桃色」はその成り立ちが同じだというお話をした。
どちらも事物に名を借りて、その色の名前としている。

ところで英和辞書によれば、英語の「ピンク」は赤ん坊の肌を連想させ、健康、若さ、活力、純真、新鮮さを象徴するのだそうだ。

日本語では、新芽のように若々しい児、という意味で乳児のことを「みどりご」と呼んだ。
英語の「ピンク」の象徴的意味を日本語は「みどり」に託したのだ。

日本語で青二才というところを英語では「このグリーン野郎!」とののしるなど、色の名前が持つ象徴的意味の諸言語間のずれはまことに興味深い。

そういえば、日本語で「ピンク映画」というところを(最近あまり言わないな)、英語では「ブルーフィルム」という。
日本語話者は、赤ん坊の肌よりも若い女性の肌を連想したのかもしれない。

そういえば、高橋真梨子の「桃色吐息」なんてなまめかしい歌もあったなあ。
「桃色」という色名の象徴的使用が、その雰囲気をかもしだす。

こうして、「ピンク、桃色」にセクシュアルな象徴的意味が込められたのだけれど、日本語では「いろ」という語そのものにセクシュアルな意味がある。
英語の「カラー」に、そんな意味はない。

日本語では「色男」とか「色気」とか「好色」と言ったりする。

漢字の「色」には、その成り立ちからセクシュアルな意味が備わっている。
というよりも、セクシュアルな意味が原義といってもいい。

しかし、漢字伝来が契機になって和語の「いろ」がセクシュアルな意味を帯びるようになったのではあるまい。
漢字の「色」にかかわりなく、和語の「いろ」にはもともとセクシュアルな象徴的意味があったと考えるべきだろう。

ただ、漢字の「色」とちがって、和語の「いろ」がその原義としてセクシュアルな意味を含んでいたということではあるまい。
「いろ」の原義はあくまでも物理的な色彩にあったのだと思う。
あくまでも派生的にセクシュアルな意味を獲得したに違いない。

前回登場した「みず」はさておき、地球上のほとんどの「もの」は、物理的色彩という意味での「いろ」を有している。
その「いろ」を知覚することで、わたしたちは何を感知するだろうか?

そう、「いのち」である。
モノクロームの、色あせた世界にわたしたちは「いのち」を感じない。

世界のさまざまな「もの」は光と出会うことによって「いろ」を発する。
地球上のいのちの源泉であるお日さまの光によって、「もの」の「いのち」は輝きだす。

そして、「いのち」は容易に性と結びつく…。
きっとこのような次第で和語の「いろ」はセクシュアルな意味を獲得したのだ。

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2017年2月 5日 (日)

みずいろの謎

前回お話しした「恋はみずいろ」には、英語バージョンもある。
ヘザーという女性歌手が歌っていて、タイトルは「Love is blue」とフランス語版の直訳になっている。

しかし、歌詞の中身はかなり改変されているようだ。

色名が五つも出てくる。
青、灰色はいいとして、赤、緑、黒が追加されている。

赤は泣きはらした目。
緑は嫉妬する気持ち。
黒はひとりさびしい長い夜。

赤、黒はわかるが、なぜ緑が嫉妬する気持ちをあらわすのだろう?
そう思って、英和辞書を引いてみるとたしかに「嫉妬深さを暗示する」とある。

日本語では「あお」が担っている未熟の意味が英語では「green」が担っていることと思い合わせれば、「green」には結構ネガティブな意味が含まれているようだ。

日本語と英語では、青と緑の役割が反転しているようでおもしろい。

ところで「みずいろ」について考えてみたい。

どの言語でもそうだけれど、基本色名以外は事物の名を借りて色名とするのが普通だ。
日本語なら、だいだい色、鼠色、茜色、藍色などのように。

「みずいろ」もその方式だけれど、だれでも知っているように水は無色透明だ。
色がないのに、どうして色名として通用しているのだろう?

辞書で「みずいろ」を引くと、「うすい青色」と出ている。
そして、わたしたちもその意味で用いている。
「みずいろ」と聞くと「うすい青色」を思い浮かべる。

しかし、コップの中の水をいくら凝視してもそんな色は見えない。

「みず」と「うすい青色」は、どんなメカニズムで結びついたのだろう?
やはり水面に映る空の青からの連想だろうか?

しかし海面や湖面、池の水面をよくよく見るととても「うすい青色」には見えない。
青黒かったり、暗緑色だったりする。

同じ事物の名を借りて色名とするのでも、この点でだいだい色や鼠色などとは根本的に異なる。
どうして、事実とかけ離れた「みずいろ」が堂々とまかり通るのだろう?

「みず」の「いろ」は「みずいろ」じゃないのに、「うすい青色」を指してわたしたちは「みずいろ」という。
どこかで巧妙なすりかえが行われている。

あるいは、物理的な色彩とはかかわりなく、わたしたちの意識の中で何らかのメカニズムによって「みず」と「うすい青色」の観念連合が成立したのかもしれない。

だとすれば、そのメカニズムが謎である。

言語におけるこの手の謎やすりかえは、色名以外の分野でも行われている。
以前このことにふれた記憶があるのだけれど、ずいぶん昔のことなので内容は忘れてしまった。

(「恋はみずいろ」の英訳詩については、penさんのブログを参考にさせていただきました)

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2017年1月29日 (日)

恋はみずいろ

覚えてる?
むかし、ヴィッキーの「恋はみずいろ」って曲、はやったよね?

何、それ? そんなの知らないーだって?

そうか、無理もない。
この歌がはやったのは1960年代の後半だったんだ。

月日は流れ、わたしは残る…。
ふと、そんな詩句を思い浮かべてしまう。

私もずいぶん歳をとってしまった。

それはさておき、「恋はみずいろ」というタイトルは、もちろん邦訳である。
フランス語の原題を直訳するなら、「恋は青」または「恋はあおいろ」だ。

訳者は、これはまずい、と思ったにちがいない。

青は寒色で鎮静色だし、日本語の「あお」には英語の「ブルー」に影響されて憂鬱の意味さえ含まれている。
恋に舞い上がる若者の心が憂鬱なはずがない。

だから、青の明度をうんと上げて「みずいろ」と訳したのだ。

英語の「blue」には憂鬱の意味があるけれど、フランス語の「bleu」にはその意味はないのだろうか?

青い、青い、恋は青いわ
空のように

と、ヴィッキーは機嫌よく歌っている。

恋に舞い上がる乙女心は、晴れ上がった青空にまで昇るよう。
その気持ちは日本語話者にもわからぬではない。

しかし、やはり「青」という色名を前面に打ち出すのはためらわれる。

灰色、灰色、恋は灰色
私の心は泣くわ
あなたが行ってしまうと

とも彼女は歌っている。

ここで灰色という色名を持ち出すのは、日本語話者と共通した感覚だ。

こうして分析してみると、恋に燃える若者の心持は洋の東西で共通しているようだ。
やはりネックは「あお」という色名なのだ。

訳者は、「みずいろ」と意訳することによってこの場を切り抜けた。

では、日本語話者なら恋する若者の気持ちを何色にたとえるだろう?

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めし はじめなり

と藤村は歌っている。

やはり恋には暖色系の心温まる色がふさわしい。
ならば、「恋はくれない」あるいは「恋はももいろ」と訳すべきだろうか?

さすがにそこまで原題から離れるわけにもいかないかな?

(「恋はみずいろ}の訳詩についてはpenさんのブログを参考にさせていただきました)

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2017年1月22日 (日)

色と四神思想

野原にひとり、南中するお日さまに向かって私はまっすぐ立っている。
左右に両手を水平に伸ばして…。

こんなイメージがこれまで何度か登場した。
というのは、わたしたちが住んでいるこの世界を秩序づけるための出発点になるイメージだと思うからだ。

こんな人体構造が、世界を4つに分割する。
「わたし」を原点にして前、後、右、左。

3次元的には、頭のほうが上、足のほうが下。
という垂直軸も加えなければいけない。
宗教的にはこの垂直軸のほうがむしろ重要かもしれないけれど、この先話がややこしくなるのでとりあえず前後左右の水平面に限定して話を進めよう。

野原に直立している私と方位を対応させるなら、前が南、後が北、左が東、右が西にあたる。

南には朱雀がいる。
西には白虎がいる。
北には玄武がいる。
東には青龍がいる。

4方位が、それぞれ動物に、そして色に対応している。
その色が見事に日本語の4つの基本色名になっている。

四神思想は中国からもたらされたものだ。

だとすれば、基本4色の成立もその影響だろうか?
それとも、いずれも和語だから在来の基本4色が渡来した四神思想とたまたま合致したのだろうか?

いずれにせよ、わたしたちの人体構造の特徴が空間を4分割することにつながった。
もしわたしたちの身体が3角形や5角形をしていたら、世界を3分割、5分割する発想があってもおかしくない。

そして、人体構造に由来する4という数字は、空間だけでなく時間の分割にも適用される。
つまり、季節変化を有する中緯度地方の国々の言語ではどこでも季節を春夏秋冬の4つに分割している。
1年を3つや5つの季節に分割している言語はない。

時間や空間を4つに分割するというのは、やはり人体構造に即して自然なのだと思う。

南、夏、赤。
西、秋、白。
北、冬、黒。
東、春、青。

という連想は、北半球に住むわたしたちにとって違和感がない。

そう考えれば、基本色名が4つではなく3つや5つ、6つの言語にはどこか無理があるのかもしれない。

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2017年1月15日 (日)

色の名前(その5)

とにもかくにも、だれが何と言おうと日本語の基本色名は、白、黒、赤、青の4種類に決まっている。

少ない。
白と黒を色彩でないとすれば、なんと赤と青の2種類だけになる。
色の世界の単純化は、ここに極まる。

ともあれ、白と黒も色名であるとしてこの基本色名グループをさらにグループ分けしてみたい。

語構成に着目すれば、どの語も2音節からなっている。

「しろ」と「くろ」は第2音節が「ろ」で共通している。
また、「あか」と「あお」は第1音節が「あ」で共通している。

つまり、「白」と「黒」、「赤」と「青」がサブグループとしてまとまっている。
「白」と「黒」は色相がない、「赤」と「青」は色相がある、という点でも共通している。

一方、「しろ」は「しろし」、「しるし」につながっている。
つまり、はっきりしている、きわだっている、という意味を含んでいる。

そして「あか」は「あかる」、「あかり」につながっている。
つまり、明るくなり物事がはっきり見えてくる、という意味を含んでいる。

この点では、「白」と「赤」がひとつのサブグループを形成している。

反対に「くろ」は「くらし」につながっている。
つまり、明かりが不足してものごとがはっきり見えない様子を指している。

また「あお」は「あはし」につながっている。
つまり、ものごとが淡い、漠然としているという意味を含んでいる。

要するに、「黒」や「青」は光が不足していてものごとがよく見えずぼんやりしていることをあらわす点で、これまたひとつのサブグループを形成している。

感覚、色覚が未発達な古代人は、視界が「はっきりしている」か「ぼんやりしている」かをまず分類に基準にしたのかもしれない。

こうして二元的かつ対立的なサブグループが出来上がった。
しかし、白と黒、白と赤のように同じグループの中でも反対色の関係が存在する。

四色相関関係図はなかなか複雑だ。
しかし、関係が複雑だからこそ世界を構成する4つの基本的要素といえるのかもしれない。

四色相関関係図をじっと眺めていると、複雑な関係だけれど4色が緊密に結びついていることが分かる。
この関係の中に、たとえば緑や黄色、茶色などほかの色が紛れ込んできても居場所がないように感じる。

緑や黄色や茶色は基本4色に肉薄しているとはいえ、しょせん音感的にも資格がない。
「みどり」は3音節だし、「き」や「ちゃ」は1音節だ。
基本4色の2音節と同じグループには入れない。

何といっても基本4色は別格なのだ。

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