2018年11月 4日 (日)

命名のミステリー(その3)

旧約聖書の劈頭に、神さまが「光あれ!」と叫んだとある。

しからば、この「光」という名詞、「ある」という動詞は神さまの第一声以前から存在していたのか?
それとも、神さまの第一声と同時に成立したのか?

前回の最後には、そんな深刻な問いに逢着してしまった。

言語学者でない私にそんなことがわかろうはずもない。
いや、言語学者でも果たして適切な答えが出せるかどうか?

なので、みなさんの了解を得てこの問いはさりげなくスルーすることにしたい。
名前の話に戻りたい。

神さまがアダムを創造し、その名付け親になった。
でもその後の名づけは人間・アダムの仕事だ。

かれは神さまから贈られた妻にエバと命名し、さらに夫婦がその子供たち、たとえばカインとアベルの名づけをした。
あとの子孫も以下同様である。

では古事記の世界ではどうか?

まず、聖書のように神さまと人間は断絶していない。

そもそもひとり神だけでは陸地さえ作れない。
イザナギ・イザナミのような夫婦神が人間と同じように生殖行為をして初めてくにが生まれるのだ。

くにだけでなく人間もまた夫婦神の生殖から生まれるもののようだ。
神さまと人間は連続していて、気がつくと神さまがいつの間にか人間になっている。
だから、天皇家だけでなくわたしたちふつうの人間だってアマテラスの子孫だと主張してもおかしくない。

古事記をいくら読んでも、どこから人間の物語なのかはっきりしない。
前にもお話ししたことだけれど、ヤマタノオロチに娘をささげなければいけないと言って嘆いていた足名椎手名椎の老夫婦は果たして神さまなのか人間なのか?

スサノオはかれらを人間のように扱っているが、本人たちは自分を神さまの子供だと思っている。
要するに、古事記の世界では神さまと人間は渾然一体となっている。

また、初代天皇とされるカムヤマトイワレヒコは神さまなのか人間なのか、それとも半神半人の存在なのか?

しかし、古事記はそんなことにこだわっていない。
古事記から見ると、神さまと人間の区別を問う私のほうがナンセンスなのかもしれない。

そんな次第だから、いっぱい登場する神さま(あるいは人間)の名前もだれが名付け親なのかさっぱりわからない。

もともと古事記は「なる」世界だから、創造主も動作主も存在しない。
だから、名付け親も存在しないのだろう。

そんなふうに割り切ってしまえば、気が楽になる。
名前があるからにはどこかに名付け親がいるはず、という私のこだわりは野暮というものだろうか?

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2018年10月29日 (月)

命名のミステリー(その2)

名前があるからには、それに対応する命名者がいるにちがいない。
それはいったいだれだろう?

という素朴な、そして執拗な私の疑問は衰えることを知らない。

前回は旧約聖書と古事記に登場する神さまの名前と土地の名前について、その命名の次第を考えてみた。
当然のことながら、わからずじまいだった。

ヒツジや牛や犬など獣の名前はアダムが命名した。
という創世記の記述だけがわずかな収穫だった。

では、その命名者であるアダムの名前はだれが付けたのだろう?

ふつう人の名前はその両親が付ける。
しかし、アダムにはその親がいないのだ。
しいて言えば土くれが親にあたるのだけれど、土くれが命名するはずもない。

創世記の少し進んだところに、アダムの系図が紹介される。
この節に、「神さまは彼を創造した日に彼をを祝福してアダムと呼んだ」とあるから、これでアダムの命名者は神さまであることがわかり、私はちょっぴり安心した。

ただ、わずかばかりの疑問が残らぬでもない。

邦訳の聖書では、アダムの命名者が神さまであることが明かされるこの箇所に来る前は、彼のことをたんに「人」と訳している。
ただ、訳注で「人」はヘブライ原語では「アダーム」であるとあるから、ヘブライ語聖書では最初から「アダム」として登場するのだろうか?
普通名詞の「アダーム」が固有名詞の「アダム」を兼ねているのだろうか?

ということになると、神さまがアダムの命名者だと言っても、親が赤ちゃんに名前を付けるのと同じように考えてはいけないかもしれない。

そういう問題はあるにせよ、神さまがアダムと名付けたということがわかれば、あとは話が早い。

神さまが不憫に思って、彼の肋骨から女を創造した時も、もはや彼女の名はアダムが命名している。
古事記と違って、聖書の世界では神さまと人間ははっきり断絶しているから、いったん人間が誕生すれば神さまは最初の人間だけ命名すればいい。
アダムの配偶者やその子孫たちの名は、いまの私たちがするように親として名付けるのだ。
そして今日に至っている。

人の名ばかりじゃない。
人が誕生してからは、地名も人が命名するのだ。

アダム夫婦の最初の子供であるカインは新しい都市を建設したのだけれど、その都市に自分の子エノクにちなんで「エノク」という名をつけたという。
いまでも西洋では人の名にちなんで都市の名を命名するということがあるけれども、その習慣は創世記のころからあったのだ。

しかし、まてよ?

アダムが命名の能力を獲得する前から、創世記では土地の名が紹介されている。

たとえばエデンの園には4つの川が流れていて、第3の川ヒデケルはアッシリアの東のほうを流れている、と記されている。
これらの川の名、土地の名はアダムが命名したわけではない。
とすると、記述はないが神さまが名付けたのだろうか?

どうも聖書の書きぶりでは、神さまの出現以前からこれらの名があったかのような錯覚を覚えるのだが…。

問題を人の名、土地の名など固有名詞に限らず、普通名詞にまで広げてみればどうか?

たとえば、神さまが天地創造に着手するその時、「光あれ!」と叫んだ。
という記述を読むと、なんだか「光」という語が神さまの出現以前からあったかのような錯覚をおぼえる。

しかし神さまさえ存在しない「無」の状態で、「光」という語だけが存在しているということがあり得るのだろうか?
いやいや神さまが「光あれ!」と叫んだ瞬間に「光」という語が成立した、と解釈すべきなのだろうか?

ここまでくれば、まったくのお手上げである。

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2018年10月21日 (日)

命名のミステリー

身辺の雑事にかまけて、しばらく更新を怠ってしまった。

ことばを訪ねて歩く私の旅はどのへんまで行っていたのだろう?
思い出さなければ。

そうそう、古事記の世界に迷い込んでいたのだった。
古事記が紹介する多彩な神さまの名前をめぐって愚考を重ねていたのだった。

この世のありとあらゆるものに名前がある。
どんな言語圏でもそれは変わらない。

ずっと前から私がこだわっているのは、名前が「ある」ということは、どこかに命名者がいる、ということだ。
それは誰なのか?

聖書を読んでも、古事記をひもといても私の疑問への答えはない。

たしかに、アダムがかれの前に連れてこられた獣たちに次々に命名していくという場面はある。
ヒツジや牛や犬の命名の次第はそれでわかったとしよう。

しかし、「ヤハウェ」という神さまの名はどうなのだ?
「エデン」という楽園の名はどうなのだ?

アダムが命名主でないことだけは明らかだ。
だったら、神さまみずからが「わしはヤハウェじゃ」と名乗りを上げたのか?
「エデン」という地名(?)も神さまが命名したのか?

古事記になると、そのへんますますわからない。
「アメノミナカヌシノカミ」以下のおびただしい諸神の名前も、淡路、伊予、筑紫以下諸国の地名も、命名の次第など何も記されていない。

まるで人間が登場するはるか以前からその名が存在していたかのように、当然のごとく述べられている。
ここでは命名は人間を介さず、予定調和的に行われている。
考えてみれば不思議なことだ。

ひょっとして、命名者にこだわる私のほうがおかしいのだろうか?
古事記は「名前があればそれでいいじゃないの。誰が命名したかなんてどうでもいいじゃない」という態度なのだ。
たしかに日常生活はそれでも問題ないのだけれど…。

一方で、古事記とほぼ同じころに編纂された諸国の風土記は地名の由来に異常な関心を示している。
各地の里や村の名前がどうして生まれたのかについて、こと細かに記している。
たとえば、ある時船が難破してその積載物である琴が落ちたところだから「琴丘」と名付けた、などのように。

命名者がだれかはともかく、少なくとも土地の名前に対して無関心でなかったことだけはたしかなのだ。

考えてみればそれも当然かもしれない。
名やその由来を知ることは、対象を認知し把握するための第一歩なのだ。
そして、さらに進んで対象を支配することにもつながる。
だからそんなことはされたくないと、表向きは仮名やニックネームで通し、本名は深く秘する文化圏も多い。

政権にとって、土地の名とその由来を把握することはその土地を支配するための第一歩なのだ。
だが、その情熱も私の年来の疑問である命名者はだれか、というところまでは及んでいない。

人間に命名者の資格があることはみんな経験的に知っている。
自分の子供が生まれた時、命名するのはわたしたちなのだ。

しかし、万物を名付けるほどわたしたちはえらくない。

神さまの名前は、おそれ多くてわたしたちが命名することはできない。
土地の名前だって、人間が命名したとは言い切れない。

人間の次元をはるかに超えたところで、厳粛に命名が行われているというシーンを空想してみたりする。

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2018年9月 9日 (日)

古事記と神概念(その2)

前回は洋の東西の神概念のあまりのちがいにため息をついた。

そもそもその存在に対して同じ「神=かみ」という日本語を用いていいのだろうかという素朴な疑問も呈した。
もともと翻訳不能なことばをむりやり日本語に訳すのは大きな誤解のもとになる。

だから一神教のその存在に対しては、「ゴッドさま」とか「アッラーさま」と原語をそのまま使うほうがよいのではないか、というへんてこな提案もした。

けれど現実は厳しい。

大きな落とし穴があるにもかかわらず、各種の邦訳聖書でも「神」という訳語を用いているし、遺憾ながらそれが定着してしまっている。

なのでこのブログでも、一神教の至高存在のことを「神」という日本語でこれからも呼ばざるを得ない。
私の苦しい胸の内を察して、どうかみなさんもこの点ご了解をお願いしたい。

ところで、古事記が紹介する神さまの名前だけれど…。

たとえば一番はじめに登場する神さまは「アメノミナカヌシノカミ」。
続いて「タカミムスビノカミ」、そして「カミムスビノカミ」があらわれる。

それぞれ「宇宙の真ん中に存在する神」、「神を生成する神」という意味だろう。
「中心」あるいは「生成」という概念を神格化している。
「アメノトコタチノカミ」、「クニノトコタチノカミ」もそうだ。

この後も次々に数えきれないくらい神さまがあらわれて、いちいち名前がついている。
その名前から推測するに、葦であったり雲であったり風であったり山であったり野であったり、さまざまな自然の事物の神格化なのだ。

概念の神格化と自然の神格化。
日本列島に住む人々の身辺は神さまに満たされている。

そして人は神さまと溶け合っている。
時間的にも空間的にも。

こう考えてくると、キリスト教における神さまの名前、「ヤハウェ」はどういう意味でありどう位置づければいいのだろう?

旧約聖書によれば、神さまは「私はあるというものだ」とモーゼに洩らしているけれども、だとすれば「ヤハウェ」は存在という概念を意味しているのだろうか。
古事記流に「存在」という概念の神格化なのだろうか?

しかし、この解釈は私の大きな誤解かもしれない。
ここまでくるとしろうとの私には手に負えない。
ぜひとも宗教学者のみなさんの知見にすがりたい。

ともあれ、日本では人と神さまが溶け合っている。
これに対して一神教の世界では、人と神さまは断絶している。

神さまは人間の理解も共感も及ばない遠い絶対の存在なのだ。
水と油のように溶け合わない。

ここに西の人々の根源的な不安があるように思える。
その不安をおさえるために、人々はますます「絶対」を求めるのだろう。

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2018年8月26日 (日)

古事記と神概念

人間たちはどこにいるのだろう?

前回は、旧約聖書の創世記と古事記の記述を比較しつつ、そんな素朴な疑問をめぐって考えてみた。
とにかく神さまと人間の関係が対照的なのだ。

聖書やコーランに登場する一神教の神さまと人間はあくまでも断絶している。
人間は神さまの被造物。
一神教の経典はそうはっきり規定している。

しかし、古事記はそうじゃない。
天孫降臨の際、地上に人間がいたのかいなかったのか、なにひとつわからない。
まだ人間は存在せず、低級な神さまたちがうごめいていたのだろうか?

神武東征の際、抵抗したという土蜘蛛や長髄彦は人間だったのだろうか?
長髄彦は自分の妹をニギハヤヒという神さまに嫁がせたというから、神さまと考えてもおかしくない。

一神教の神さまと違って、古事記の神さまは人間と断絶していない。
古事記は神統譜であり、それがそのまま皇統譜につながっている。
神さまの系譜をたどっていたら、いつのまにか人間になっていた、という感じ。

神武天皇はじめ初期の天皇たちは半神半人的存在だったという印象が強い。

人間は神さまの被造物じゃない。
人間だって死んだら神さまになる。
その証拠に、乃木神社や東郷神社の祭神は実在の人物なのだ。

キリスト教の神さまは世界を創造し人間を作った。
だから、その神さまは「する」神さまである。

でも、古事記の神さまはそうじゃない。
そもそも古事記の劈頭に「高天原になりませる神の名は…」とあるように、神さま自身「なる」存在なのだ。

その神さまが、代を経ていつのまにか人間に「なる」。
その人間も死んだら神さまに「なる」。

何の力も働かず神人渾然一体の世界が生まれる…。

西洋と日本でどうしてこれほどまでに神概念が違うのだろう?
そんな感懐を深くする。

ひるがえって、これほどまでに違う概念を同じ「神=かみ」という日本語で表現していいものだろうか、という素朴な疑問がわいてくる。

「神が天地を創造した初めに…」と旧約聖書の日本語訳は表現している。
しかし、ここに「神」という日本語を持ってくるのは誤解や混乱を招くもとになるような気がする。

キリスト教やイスラムの「神」は、古事記が語る「神」とはまったく別物なのだ。
だから、本当は「神」などと訳さずに、「ゴッドさま」とか「アッラーさま」とか原語をそのまま持ってきたほうがよいのではないか?

でも、それじゃありがたみがない?

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2018年8月19日 (日)

古事記と名前(その3)

人間たちはどこにいるのだろう?

というのが、古事記を読んでの私の素朴な疑問である。

高天原は神々の住処である。
これは分かる。
漠然と空の上のほうにあるのだろう。

高天原のえらい神さまの命を受けて、イザナギとイザナミが協力して国生みをした。
その豊葦原の瑞穂の国を支配するために、アマテラスは孫のニニギノミコトを高千穂の峰に降臨させた。
これも分かる。

ではそのころ、肝心の地上はどうだったのだろう?

もう海も川も山も出来上がっていた。
すでに森や林もあり、さまざまな植物が生い茂っていた。

海にはたくさんの魚たちが泳いでいたことだろう。
ナマコが服従するとは言わなかったので、その口がいまも裂けているという記事も見える。

陸地にもウサギや蛇のほか数多くの動物たちが走り回っていた。
ティラノザウルスやステラノドンもいただろうか?

おや、肝心の人間の姿が見当たらない。
特に古事記のはじめのほうでは、人間は影が薄いのだ。

この点、創世記ははっきりしている。
神さまが天地創造の6日目に作った。

土くれをこねて、自分の姿に似せて、人を創造したのだ。
同時に、地上を支配するよう命を与えた。

あわせて、その人の肋骨から女を作った。
こうしてできた最初のカップルがいまの人類の祖となる。

実にわかりやすいではないか?

人間はどうして生まれたのか?
人間にはなぜ男と女があるのか?
人間は何をすべきなのか?

創世記はみんな答えてくれる。
古事記はこんな深刻な疑問になにひとつ答えてくれない。

天孫降臨のころ、地上に人間はいたのかいなかったのか?
いたとすれば、何をしていたのか?

いくら読んでもよくわからない。

そもそも「オロチに娘が食べられる」と嘆いていた足名椎、手名椎の夫婦は神さまなのか人間なのか?
自分は神さまの子だと名乗っているし、娘のクシナダヒメも神さまを生んでいるので神さまかなとも思う。
しかし、その行状を見る限り、神さまらしいところはひとつもない。

葦原の中つ国は穀物が豊かに育つ土地だとしきりに言われているけれども、その穀物は栽培する人がいなければ育たない。
でも、古事記のどこを探しても当時人間たちが農作業に精を出していたという記述はない。

あるいは、人間がいないのでオオゲツヒメその他の神さまたちが仕方なく鍬をふるったり稲束を背負ったりしていたのだろうか?

創世記では神さまがアダムとイブを創造した。
ここから人間の物語が始まる。

ふたりは結婚し、カインやアベルほかの子供たちを生んだ。
そしてその子たちも次々に子供を生み、子孫が増えていく。

しかし古事記ではいつから人の世になったのかわからない。
そもそも神さまと人間の境界がはっきりしない。

人びとははっきりさせる必要などない、と考えていたのだろうか?
だから、こんな不思議な物語が生まれたのかもしれない。

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2018年8月12日 (日)

古事記と名前(その2)

現に名前があるからには、いつか、だれかが命名したにちがいない。
その命名者や命名の由来はどうなの?

というのが、私のかねてからの幼稚なこだわりである。

しかし旧約聖書は私のそのこだわりに応えてくれなかった。
古事記とて事情は同じだ。

古事記にはいやというほどたくさんの神名が紹介されているけれど、もちろんその命名者がだれかなどまったく言及されていない。
神さまが自然に「成りませる」のだから、その名前も自然に出来上がった、という態度なのだ。

創世記には、神さまが見ている中、アダムが家畜や野獣に次々に名を付けていくシーンが登場する。
いまいる動物たちの名がどのようにして定まったのか、という命名のいきさつが説明されているのだ。

古事記にも、「おろち」や「うさぎ」や「わに=ふか」といった動物たちが登場する。
けれど、動物たちがその名で呼ばれるようになった経緯は何も語られていない。

古事記にせよ日本書紀にせよ、宇宙の生成を語りながら創造者、命名者不在の不思議な物語なのだ。

いや、創造者がいない、と言い切ってしまうのは勇み足かもしれない。

なぜなら、古事記はイザナギとイザナミの夫婦神が協力して国生みをした、と語っているからだ。
だったら、イザナギとイザナミをヤハウェ神と同じく創造神と考えていいのだろうか?

少し違うような気がする。

旧約聖書の神さまはことば一つで光と闇を分け、空と海と陸地を分け、土をこねて動物や人間を創造した。
しかし、イザナギとイザナミは上司であるえらい神さまの命令で国生みをしたのだ。

それもまったく無から創造したわけではない。
上司から授けられた矛で海水をかき回したところ、その矛からしたたり落ちた海水の塩が固まってできたのがおのころ島なのだ。

いわば素材はすでにあって、イザナギとイザナミは多少の労力を加えただけなのだ。
これではヤハウェ神の創業とは同列に扱えない。

それでもこののちイザナギとイザナミは結婚して、淡路島以下数多くの島嶼を生んでゆく。
ありがたいことである。

もちろんそれぞれの島には名がついている。
伊予、筑紫、佐渡などその多くは今日もそのまま使われている。

暗誦者である稗田阿礼や編者の太安万侶の生きた時代には、すでにこれらの名が確立、流通していた。
だから、かれらは何の疑問もなく、その命名者や命名の由来を問うことなく、そのまま記事に盛り込んだのだ。

冒頭の私のこだわりは、しょせんないものねだりかもしれない。

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2018年8月 5日 (日)

古事記と名前

「呼ぶ」という行為の目的語である「な」という抽象存在には汲めども尽くせない深遠な意味がある…。

という述懐で前回は締めくくった。

「な」がなければそもそも「呼びかける」という人間の切実な行為は成り立たない。
そこで再び名、名前に焦点を当ててみたい。

これまで主に旧約聖書創世記の世界をめぐりつつ、「な」の問題を考えてきた。
しかし、このブログでは日本語が大きなテーマのひとつだから、舞台を日本に移して考えることも欠かせない。

さしあたり、記紀が手がかりになるだろうか?

古事記でも、創世記と同じく宇宙開闢から話ははじまる。
しかし、始原、神さまがことばを発することで宇宙創造が始まった、とは語られていない。

「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天の御中主の神…」
といきなり神さまの名前の紹介から始まる。

はじめに「高天原」という場所を指す語があらわれるけれども、これは創世記における「エデン」に対応する場所だろうか?

解説によれば、「エデン」は「平原」を意味するらしい。
そして、「快楽」という語と同音になるらしい。
要するに「楽園」、「パラダイス」なのだ。

「高天原」にも「神々の楽園」というイメージはある。
だから、固有の「地名」とは言い切れない。
「天のほう」という普通名詞的な意味合いだと思う。

その高天原に次々に神さまがあらわれてくる。
まるで深い深い底のほうから泡が立ち昇ってくるように。

創世記では、世界の創造に神さまの「意思」が働いたことが明確に語られているけれども、古事記にはそんな「意思」はどこにも見あたらない。

だれかの、何かの「意思」が働いわけではなく、自然に「成りませる」のだ。
どこにも「責任」がない。
日本人に「責任」の感覚が希薄なのはそのせいかもしれない。

ともあれ、こうして高天原に次々に神さまが自然に生成されてにぎやかになってくる。

キリスト教と違って多神教の世界だから、神さまを識別するために個別の名前が欠かせない。
だから古事記は神さまの名前をいちいち紹介している。

神さまにはそれぞれ名前がついているので、人々にとっては「呼びかけ」の手がかりができたことになる。

ただ、当時の人びとにとって天の御中主の神以下たくさんの神名がどれほど流布していたのだろう?
たしかに朝廷に勤務する人々や諸豪族には知られていたかもしれないが、お百姓さんたちがその名を唱えることなどなかったと思う。

高天原の神さまたちには、聖書の唯一神のような圧倒的な存在感はない。
多くの一般庶民にとっては影の薄い存在だったと思う。

だからその「な」も、神統譜や皇統譜を作成する上での識別記号以上の意味は持っていなかったのではないだろうか?

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2018年7月21日 (土)

「呼びかけ」の本義(その5)

5月の鳥取県智頭町訪問がきっかけとなって、土地の名前から人の名前、はては神さまの名前についてまでつたない考えを重ねてきた。

2010年の秋にも小諸から小淵沢まで小海線を南下する列車の旅がきっかけになって名前をめぐる愚考が始まった。
それからえんえんと約1年にわたって考え続けてきた。

ことばの世界をめぐる私の旅は、何度も同じところに立ち戻っている。

しかし、残念ながら何ひとつ成果はなかった。
今回も同じ結末になりそうな気がする。

けれど、考え続けることが無駄だとは思わない。
名前の命名者を問い、起源や由来を問い続けることで、名前、名、「な」が言語現象で持つ重要な要素であることがますます明らかになるからだ。

これまで主に固有名詞について考えてきたけれども、名前はもちろん普通名詞にもその他の品詞にも波及する。
たとえば、「座る」や「走る」といった動詞は行為や動作の「名前」なのだから。

「な」の視点からすべての語を見直してみれば、何らかの発見があるかもしれない。
私の旅もいつかそこまで行ければいいのだが…。

ところで、名前は「呼ぶ」という動詞と密接につながっている。

考えてみれば、「名を呼ぶ」という行為はわたしたち人間にとって実に多様で深い意味を持っている。
このことは英語の「CALL」でも事情は同じだ。

2010年に始まった名前シリーズの中でも「呼びかけの本義」と題したサブシリーズがあった。

そこでもお話ししたことだけれど、「呼ぶ」あるいは「呼びかける」という行為は何らかの意図のもとで行われる。
そしてその意図の中には、呼びかけの対象を支配してやろうという権力的な意思が潜んでいることも少なくない。

「呼びかけ」はあやうく、きわどい行為なのだ。
前回紹介した「わが名をみだりに称えてはならん」という十戒の教えはそのあたりを意識したのかもしれない。

それでも人々は救済を求めるとき、名を呼ばずにはいられない。
「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」と旧約聖書の創世記にも記されている。
解説によれば、この場合の「呼ぶ」は「祈る」ということらしい。

そういえば、仏教でも仏の名号を称えること、つまり称名が推奨されている。
特に浄土教では南無阿弥陀仏を称えることが極楽浄土に生まれ変わるための必須の行とされているとのこと。

主の名を呼ぶ、仏の名号を称えるなど「名を呼ぶ」ことは宗教の違いを超えて救済を求める人々に共通するふるまいらしい。

このように「名を呼ぶ」ことは人々にとって切実な行為である。
神聖な行為である。
同時に危険をはらんだきわどい行為でもある。
実に両義的な行為なのだ。

神さまの領域だけでなく、人間の世界でも本当の名は秘しふだんはニックネームで呼び合う習慣を持つ民族がある。
「呼ぶ」という行為、その行為の目的語である「な」という抽象存在には汲めども尽くせない深遠な意味がある。

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2018年7月15日 (日)

神さまの名前(その4)

これまでおもに旧約聖書の創世記に拠りつつ、そこに登場する土地の名前や人の名前について、だれが名付けたのかとか命名の由来とかについてえんえんと愚考を重ねてきた。

ここまで来た以上、その土地や人を作った張本人である神さまの名前についても知らんふりをするわけにはゆくまい。

神さまに名前があるのかどうか?
土地や人と同じように、神さまにも固有名詞が必要かどうか?

むずかしい深刻な問いである。

手許にある中央公論社版の旧約聖書では「わたしはお前の神ヤハウェである」とみずから名乗りを上げている(出エジプト記20章2節)。

しかし、新共同訳では「わたしは主、あなたの神」としか言っていない。
数種類ある日本語訳では、ヤハウェという固有名詞を明示しないのが大勢であるようだ。

ヘブライ語の原典にはたしかに「YHWH」(ヘブライ文字をローマ字に翻字)とあるけれども、この部分をどう訳すのか、どう処理するかは複雑な歴史的経緯もあって困難な問題らしい。

いずれにせよ、私ごときには手に負えない。

神さまに名前があるのかどうか?
その名が「ヤハウェ」なのかどうかはわからないけれども、テキストをすなおに読む限りあるような気がする。

創世記(新共同訳)にも、「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」とある(4章26節)。
中央公論社版では「名を呼ぶ」とは礼拝することである、と解説されているけれども、礼拝の際に何らかの固有名詞を称えたのではないだろうか?

人間にとって、固有名詞は事物にたどり着くための手掛かりである。
たとえ相手が唯一の神さまであっても、すがりつくためには手掛かりがほしい。

だからモーゼは、イスラエルの人たちから「その神の名は何か」と聞かれたらどうしよう?と神さまに問いかけたのだ(出エジプト記3章14節)。

モーゼの問いに対して、神さまは「わたしは『ある』というものだ」と答えている。
たしかに「ヤハウェ」というのは「存在」という意味らしいから、それなりに筋が通った答えと言えるかもしれないけれども、モーゼにとっては何だかはぐらかされたような気分だったろう。

それはともかく、神さまは「わが名をみだりに称えてはならん」とも言っている(出エジプト記20章6節)。
わざわざそんな訓戒をたれるということは、逆に言えば神さまの名を称えるという風習が存在していたということだ。

やはり、神さまには名前があったような気がする。
もしそうだとすれば、また私の悪い癖で「じゃあ、その名はだれが付けたのだ?」という疑問が頭をもたげてくる。
困ったものである。

それとも、神さまの名はわたしたちがふだん考える「ある」とか「ない」とかを超越した次元の問題なのだろうか?

 

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