2024年4月14日 (日)

一音節語をめぐって(その23)

は行の最後は「ほ」である。

和語の一音節語としてはまず「穂」がある。
「稲穂」、「槍の穂先」、「麦の穂」など。
現代語では一音節語として使うことはそれほど多くないけれども、一音節語として扱うことができる。

とにかく先端であり先っぽである。
だから、他に抜きんでて優れていることも「ほ」であらわす。
この場合の「ほ」は「秀」という漢字を当てる。
辞書にも「穂は秀と同源」と説明されている。

漢和辞典では「秀」の字音は「しゅう」、訓は「ひいーでる」と出ている。
訓に「ほ」はない。

「秀=ほ」は漢字には無関係の読み方だと思う。
日本語話者が、「穂」の形態から連想してこの読み方を成立させた。

「秀」はこのようにいい意味を持つ字だから、人名にもよく使われる。
「秀雄」とか「俊秀」とか。

ただし人名の場合に限り、豊臣秀吉のように「ひで」と読む。
この読み方も漢和辞書には出ていない。
なぜこのような読みが成立したのだろう?

それから、もうひとつ和語の一音節語として「帆」がある。
「帆=ほ」は漢和辞典にもちゃんと訓として出ている。、

海や船に関係が深いから、若干詩的なことばである。
でも、現代語では一音節語として使うことはそれほど多くない。
「帆を上げる」という言い方があるが、そもそも現代では帆船がほとんどないからこの言い方もすたれている。

「ほ」と読む字音もそこそこあるが、一音節語はない。
「歩行」の「歩」、「保険」の「保」、「哺乳類」の「哺」、「逮捕」の「捕」、「補足」の「補」、など。

これで、は行はおしまい。
は行で印象的だったのは、は行転呼という発音変化である。
「私は」のように、は行転呼以前の表記が守られていることがある。

これにはいろいろな事情があるのだが、わざと昔の表記を使うことが効果的な場合もある。
「やはらかに五穀うるほす春の雨」のように。

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2024年4月 7日 (日)

一音節語をめぐって(その22)

「へ」と聞いてすぐ思い浮かぶのは「屁」。
これは身近な語である。
「へ」は和語の一音節語である。

しかし、漢和辞典で確認すると「屁」には訓がない。
「屁」の本来の字音である「ひ」が転訛すると「へ」になる。
それがたまたま和語の「へ」と合致した。

なので、「屁」は漢語の一音節語である、という誤った理解につながることがある。
どうもややこしい。

「へ」にはもうひとつ謎がある。
青森県東部から、岩手県北部にかけて「戸」のつく地名が多い。
八戸がいちばん有名だけれど、一戸から九戸まである。

この場合の「戸」は「へ」と発音する。
この場合の「戸=へ」は一音節語とみなして良いだろうか?
さらに、和語だろうか漢語だろうか?
いずれも微妙である。

「戸」の地名起源には諸説あるけれども、桓武天皇の頃の坂上田村麻呂の東北遠征と関係があるらしい。
彼が遠征の際、九つの柵を設けたことがもとになっている。

その柵を中心に人が集まり集落ができたのでこの地名がついた。
漢字の「戸」は人や集落を意味するからこの地名は漢語と言えるかもしれない。
いずれにしても、「戸」を「へ」と発音するのはこの地名だけの現象であり興味深い

どうして「戸」を「へ」と発音するのだろう?
漢和辞典で確認すると、「戸」の字音は「こ」、訓は「と」と出ている。
「へ」は音でも訓でもない。

青森県にはほかにも「戸来=へらい」という地名があるから、「戸」を「へ」と発音するのは青森県特有の現象かもしれない。
この点については青森県の人に教えてもらいたいと思っている。

広辞苑には、「戸」が「へ」として出ている。
戸籍のことを言う、と解説にある。
用例として、欽明紀の記述が出ているから、古代には和語の一音節語として使われていたのかもしれない。

それから、助詞の「へ」がある。
助詞は自立語ではないからこのシリーズでは扱っていないが、は行特有の現象と関係があるので少しだけ触れたい。

それは前に触れたは行転呼のことである。
思い出していただきたいが、語中のは行音がわ行に移行する現象である。

助詞の「へ」にもこの現象が起こっていて、この場合の「へ」は現代語では「え」と発音する。
「私は」の「は」も同じであり、「わ」と発音する。
でも表記は、は行転呼以前のままである。

これは発音通りに表記する、という現代かな遣いの原則の例外である。
私たち日本語話者はこの表記にすっかり慣れてしまっているが、日本語学習者には難しいかもしれない。

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2024年3月31日 (日)

一音節語をめぐって(その21)

「ひ」については、まず和語を考えてみた。
それで、横道にそれて「にほんとにっぽん」まで飛んでしまった。

残された問題がある。
まず「灯」。

明鏡国語辞典では独立の項目として扱われているが、広辞苑や明解国語辞典では「火」になかに含まれてしまっている。
(「灯」とも書く、という注記がなされている。)

「灯」は「火」の一形態として扱うべきか、それとも「火」から独立した語として扱うべきか?
どちらにも一理あって判断はむずかしい

それから「霊」。
この意味を「ひ」の項目で扱っているのは、広辞苑だけである。

漢和辞典では、「霊」の訓読みは「たま」しか出ていない。
また、ほかの国語辞典では「霊」を「たま」の項目で扱っている。

「霊」を「ひ」の項目で扱っているのは広辞苑だけである。
広辞苑ではその用例も挙げているので間違いではないのだろうけれど、このあたり辞書ごとの個性の違いがわかって面白い。

さて、日本語で「ひ」と読む漢字は多い。
否定の「否」、非常の「非」、皮膚の「皮」、被害の「被」、批判の「批」、比較の「比」、悲恋の「悲」、王妃の「妃」、肥料の「肥」、飛翔の「飛」、秘密の「秘」、費用の「費」、石碑の「碑」などなど。

これらは今でもよく使う。
しかし、漢語の一音節語はない。

次の「ふ」には、漢語の一音節語がある。
「麩」である。
すき焼きでよく使うあの「麩」である。
私は今まで「麩」は和語だと思っていた。

「麩」と「麩」の漢字はいつごろ日本にやってきたのだろう?
「麩」の歴史を調べなくてはなるまい。

「ひ」に負けず劣らず「「ふ」と読む漢字は多い。
しかし、「麩」を除くとあとの「ふ」は漢語の意味成分でしかない。
不調の「不」、譜面の「譜」、普通の「普」、符号の「符」、富豪の「富」、夫婦の「夫」、婦人の「婦」、父兄の「父」、府警の「府」、付録の「付」、綿布の「布」、扶養の「扶」、訃報の「訃」、勝負の「負」、腐敗の「腐」などなど。

和語は「ひ」では重要な語が多かったが、「ふ」になると途端に影が薄い。
現代語では和語の「ふ」の一音節語はない。

こうして音節の比較をすると、面白い事実が次々に見つかる。

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2024年3月24日 (日)

「にほん」と「にっぽん」(その3)

いまから19年前、このブログに「にほん」と「にっぽん」、という投稿をしたことがあった。
このブログをはじめて間もないころである。
要旨は次の通り。

・他の語と違って、「日本」という国号は文字表記が先行して発音は後回しになった。
 だから、天武天皇は「やまと」と発音したかもしれないし、いまに至るまで「にほん」と「にっぽん」の間で揺れ動いている。

・現代の日常会話を観察してみると、「にほん」と発音している人のほうが多い。
 「にほん」のほうが「にっぽん」に比べて発話エネルギーが少なくてすむからこれは言語経済の理にかなっている。

・ただし、「にほん」に比べて「にっぽん」のほうが正統である、という意識は多くの日本人が共有している。
 これは、「日本」とつく会社名の英文表記、紙幣や切手の「Nippon」の表記を見てもわかる。

・多くの日本語話者にとって、「日本」という表記が大事であって、その発音はどちらでもいい、と思っている。

このような認識は20年近く経った今もまったく変わっていない。
つまり、日本語が続く限りこの現象は変わらないと思う。
だから、この問題についてこれ以上追究しない。
けれど…。

もう一度だけ、「にほん」を観察してみよう。
「にほん」は「日本」という漢字表記の読みの一つである。
したがって字音である。

素直に字音で読むならば「にちほん」になる。
「にっぽん」というのは、それの促音便化したものである。
ここまでは自然である。

しかし、「にち」という字音を略して「に」と発音することが許されるのだろうか?
「日」を「に」と訓むのは「日本」の場合だけである。
きわめて特殊な読みというほかない。

「にほん」とアメリカの関係は「にちべい」関係である。
「にべい」関係とは言わない。

「にほん」と韓国の関係は「にっかん」関係である。
「にかん」関係とは言わない。

単独では「にほん」というが、複合語になると本来の字音である「にち」あるいはその促音便に戻っている。
このことからも、「日」を「に」と読むのは極めて異例というほかない。

どうしてこのような異例の読みが生じたのだろうか?
単に言語経済上の理由だけだろうか?
わからない。

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2024年3月17日 (日)

一音節語をめぐって(その20)

「ひ」は和語でも漢語でも語るべきことは多い。
まず和語から考えてみよう。

氷のことを「ひ」とも言う。
現代語ではないけれども、古語では「氷=ひ」を一音節語に使っている。
いまでも「氷雨」、「氷室」などということはある。

氷があれば、「火=ひ」が恋しくなる。
これはとても大事なことばだ。

人間の生存にとって不可欠なものだ。
火の使用を人間であることのメルクマールにしているくらいだから。

当然日本列島人も漢字伝来以前から火を使っていた。
だから和語に「ひ」があるのもよくわかる。

ギリシャ神話では、火はプロメテウスの贈り物とされている。
日本神話は火の起源について何も語っていないが、起源をうんぬんする必要すらなかった。
ことばと火は日本列島に住む人々にとって、古代から考えるまでもなくあって当然のものだった。

「日=ひ」は「火」と繋がりがありそうな気がする。
プロメテウスも天上から火を盗んできたのではなかったか?

あかあかと燃える太陽は人間に「火」を連想させる。
「日本」という国号もそんなところから発想を得たのではないだろうか?

ところで、「日本」という国号は和語だろうか、漢語だろうか?
「本」は字音読みで問題ない。

けれど、「にち」という字音を「に」と略して発音することは許されるのだろうか?
微妙である。
国号という、ある意味根本的な語彙がこんなにあいまいなことでいいのだろうか?

国史「日本書紀」にはもちろん「日本」が出てくるが、同じ時代に編纂された「古事記」には「日本」は登場しない。
この頃はまだ「日本」を国号とするという共通認識がなかったのかもしれない。

そもそもこの国号が生まれた当時、たとえば天武天皇は「日本」を「やまと」と訓んでいたかもしれない。
つまり、発音と表記は分けて考えなければいけない、ということだ。

表記は後世に伝わるけれども、発音はわからない。
だから、「日本」という漢字を何と発音していたか何もわからない。

中国の史書には日本列島の人々が「倭」という表記を嫌って「日本」を採用したという経緯が書かれているが、真相はわからない。
日本人自身もそれまでは自分たちの国のことを「倭=わ」と呼んでいたのだろうか?

そもそもこの時代の人々にとって、「くに」はどんなイメージだったのだろう?
もちろん日本列島の地図など知る由もない。
各人が「くに」についてそれぞれ違うイメージを持っていて、統一された「くに」の意味などなかったのかもしれない。

ともあれこの時代までさかのぼってみると、わからないことだらけである。

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2024年3月10日 (日)

一音節語をめぐって(その19)

な行の次はは行である。
は行の各音を眺めてみると発音上のおもしろい現象がたくさんある。

まず、は行には半濁音がある。
半濁音はは行にしかない。

半濁音は外来語の発音、表記によく使われるがそれだけではない。
語中の促音の後にもよくあらわれる。
たとえば、「葉っぱ」や「菜っぱ」、「こっぱみじん」のように。

それから、「は行転呼」という現象がある。
語中のは行音がわ行音に転移する現象のことである。
たとえば、「障り=さはり」や「前=まへ」、「遠し=とほし}を今では「さわり」、「まえ」、「とおし」と発音するようになっている

ただし、助詞の「は」と「へ」だけは発音は「わ」と「え」になっているが、表記はは行転呼以前の状態を踏襲している。
このため、現代語では語中には行音があらわれることはない。

へえー、そうなんだ!
私はこれまで意識していなかったけれど。

さらに、発音の変遷もある。
たとえば奈良時代には「母」のことは「ふぁふぁ」と発音したらしい。

こうした発音の変遷は、は行音だけではないし日本語だけでもない一般的な現象である。
でも、発音の変化がなぜ起こり、なぜその言語全体に広がっていったのか、そのメカニズムがよくわからない。

「ことばは変化するものだ」というのは経験的事実だろうけれども、それでとどまっていていいものだろうか?
「なぜ?」をもっと追求してほしい。

さて、は行の一番初めは「は」である。
前のな行の各音と違って「は」にはりっぱな一音節語がいくつもある。
よく使われるのは「歯」である。
前にもお話ししたように「歯」は、関西方言では「はあ」のように声調的に発音される。

次によく使われるのは「葉」である。
「葉」は関西方言でも「は」であり、なぜか声調的にはならない。

それから、「刃」もある。
「包丁の刃」、「のこぎりの刃」」などという。
これも声調的にはならない。
こうしてさまざまな現象は記述できるけれども、その現象の原因となるメカニズムに踏み込めないのがくやしい。

こうして現象を記述している間に、面白いことに気が付いた。
「葉」はりっぱな一音節語だけれども、「葉っぱ」という言い方もある。
日常的にはこちらのほうがよく使う。

そう考えるとほかにも同様の例が少なくない。
「菜」には「菜っぱ」、「根」には「根っこ」,「田」には「田んぼ」など。
「名」には「名前」、「野」には「野原」、「値」には「値段」など。
それから幼児語であるけれども、「お目め」、「お手て」という言い方もある。

りっぱな一音節語があるのに、音をつけ足してわざわざ多音節化している。
そして、そちらのほうがよく使われている。

たしかに一音節語は言語経済の原則にかなっているが、日本語話者にとっては言いにくいのだろうか?

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2024年3月 3日 (日)

一音節語をめぐって(その18)

「に」も「ぬ」も現代語の一音節語はない。
和語にも漢語にもない。

ただ一つ、「荷」はいまも使うかもしれない。
「これで肩の荷が下りた」、「この仕事はあいつには荷が重い」などのように。

古語にまで目を向ければ、「丹」という色名がある。
赤い色である。

それくらい。
「ぬ」に至っては、古語にもあまりない。

なぜだろう?
「に」や「ぬ」は言語音として使いにくい音なのだろうか?

それに比べると、「ね」はいくらかましである。

まず「値」」がある。
「値段」という湯桶読みのほうが一般的だが、一音節語としても使える。
「ものの値」とか「値が張る」などのように。

それから「根」もある。
「木の根」という。
「木の根」から連想して「根を張る」という言い方もある。

やや文学的な表現だが、「音」もある。
「虫の音」とか「音色」とかいう。

あと辞書にはいくつか出ているが、無視してかまわない。

「の」も少ない。
わずかに「野」くらいか。

それも一音節語としては使いにくい。
「野原」のほうが一般的である。

人の姓としては割合よく用いられている。
「野村」とか「北野」とか「西野」とか。
日本人の人名には地形をあらわす語がよく取り入れられているのでそのせいだろう。

総じてな行音は「な」を除いて、一音節語が少ない。
な行音は鼻音だから、他の音に比べてインパクトが弱いからだろうか?

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2024年2月25日 (日)

「遠野物語」をめぐって

柳田国男の「遠野物語」は有名である。
しかし白状するけれども、私はその序文しか読んでいない。

柳田の文章はくねくねしていて、私はあまり好きではない。
しかし、この序文はいい。
繰り返し何度も読んだ。
特に次のようなくだりがいい。

笛の調子高く歌は低くして側にあれども聞きがたし。
日は傾き風吹きて酔いて人呼ぶ者の声も淋しく
女は笑い児は走れどもなお旅愁をいかんともする能わざりき。

私がこの文を気に入ったのは、たぶんこれが文語体で書かれているからだろうと思う。
これが今のような口語体で書かれていたら、少し間の抜けた印象を与えると思うのだが、いかがだろうか?

柳田はもちろん口語体でも書いている。
その証拠に、柳田のフォークロアの処女作である「後狩詞記」の自序は口語体で書かれている。
発表されたのは明治42年、「遠野物語」の1年前のことである。
おそらく柳田はその効果を狙って意識的に文語体を選んだのだと思う。

明治末期と言えば、日本語の書きことばが揺れていた時代である。
言文一致運動が明治半ばから始まり、この時代はまだ進行中であった。

漱石は小説としての処女作「吾輩は猫である」(明治38年発表)の時から一貫して口語体で書いている。
一方で鴎外は最初期の作品「舞姫}(明治23年)や翻訳{即興詩人」(明治35年)を文語で発表している。

つまりこの頃の著述家は文語体でも口語体でも書けたのである。
その分、いまよりも表現の幅が広かったかもしれない。

一方で、これまで文語でしか読んだことのなかった読者の反応はどうだったのだろう?
漱石や鴎外や柳田の読者なら漢文学の素養はあったことと思う。

でも、口語体は漢文脈とはまるで違う。
戸惑いがあったかもしれない。

「あれ、これまでの読本とは様子が違うな」と思ったかもしれない。
「でも、これって俺たちがふだん使っている話しことばと同じじゃないか」
そのようにして、口語体が受け入れられていったのかもしれない。

ともあれ、漱石や鴎外や柳田は、文語体でも口語体でも書けた。
「今度の作品ではどちらで書こうかな」と選択することができた。

対していまの私たちは口語体でしか書けない。
読者も口語体でしか読まない。
これって昔に比べてかえって不自由なことではないか?

これまで見てきた「椰子の実」も「冬の夜」もその他の文部省唱歌も多くは歌詞が文語体で書かれている。
文語体は文学的表現と親和性が高いのではないか?
柳田国男だって、民俗学に向かう前は文学青年だった。

一方、文語体は権力とも親和性が高い。
だから戦前の法律はみな文語体の漢字カタカナ交じりで表記されている。

戦後いっせいにわかりやすい口語体に変わったかと言えば、そうではない。
何と21世紀になってもたくさんの文語体の法律が残っていた。
刑法や民法や商法が口語化されたのは、ほんの数年前のことである。

まだ現役バリバリの法律も残っている。
たとえば「爆発物取締罰則」(明治17年太政官布告32号)のように。
「第一条 治安ヲ妨ケ又ハ人ノ身体財産ヲ害セントスル目的ヲ以テ爆発物を使用シタル者及ヒ…」

いま私たちは日常生活では文語体を使わない。
でも、短歌や俳句などの短詩形文学では今も使われている。

文語体は意外にしぶといかもしれない。

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2024年2月19日 (月)

「冬の夜」をめぐって

今はもう小学校の音楽の教科書に載っていないだろうけれど、「冬の夜」という小学唱歌(作詞、作曲者不詳)がある。
年配の人ならご存知の方も多いと思う。

ともしび近く 衣縫う母は
春の遊びの楽しさ語る

この頃の女の子の春の遊びとはどんなものだったのだろう?
やはり野山を駆け回ってつくしや花を摘んだのだろうか?

居並ぶこどもは指を折りつつ 
日数数えて 喜び勇む

子どもの多い時代だったから、「居並ぶ」という表現を使ったのだろう。
それにしても、何と素直なこどもたちなんだろう!

囲炉裏火はとろとろ
外は吹雪

外の吹雪と対比することで、家のあたたかさがきわだってくる。
これで一番は終わる。
二番は一番と対をなしているので、この最後のフレーズは二番にもあらわれる。

囲炉裏のはたで 縄なう父は
過ぎしいくさの手柄を語る

今となれば問題になりそうな歌詞だ。
この歌が発表されたのは明治45年だから、「過ぎしいくさ」とは日露戦争のことだったのだろう。
この時代にはすんなり受け入れられたのかもしれない。

居並ぶこどもは眠さ忘れて
耳を傾け こぶしを握る

これは翌晩の情景だろうか?
それにしても、なんてナイーブなこどもたちなんだろう!

囲炉裏火はとろとろ
外は吹雪

いまは地球温暖化の時代だから、よほどの寒冷地でないかぎりこんな情景にはお目にかかれない。
いまは夕食後に囲炉裏の周りに家族が集うことはない。
父母の語りの代わりはテレビやスマホが務めてくれる。

まことに「明治は遠くなりにけり」である。
こんな感懐を抱くのは、わたしが年を取った証かもしれないが…。

WIKIPEDIAによると、文部省唱歌は明治43年から昭和19年までに作られ、小学校の音楽教科書に掲載された唱歌を言うらしい。
してみると、この「冬の夜」などはその最初期の作品ということになる。

戦後、文部省唱歌は作られなくなったが、そのうちのいくつかはその後も歌い継がれてきた。
昭和30年代に小学生だった私も習った記憶がある。

さて、いまのこどもたちは教室でどんな歌を歌っているのだろう?
現在の小学校学習指導要領にも、文部省唱歌がいくつか取り入れられている。

いまの学習指導要領に載っている文部省唱歌は季節の風物を歌い上げたものが多い。
これらは子供たちの情操をはぐくむうえでとても役に立つ。
地球温暖化のせいで、季節の変化が平板にならなければいいが…。

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2024年2月11日 (日)

「椰子の実」をめぐって

前回、「名」と「名前」を比較して、「な」は文学的というお話をした。
次のような「名曲」がある。

「名」も知らぬ 遠き島より 流れよる椰子の実ひとつ
ふるさとの岸を離れて 汝はそも波に幾月

これは明治33年、島崎藤村が発表した詩である。
後年、昭和に入ってから大中寅二が曲を付けた。
年配の人ならだれでも知っていると思う。

旧の樹は 生いや茂れる 枝はなお影をやなせる
われもまた 渚を枕 孤身の 浮寝の旅ぞ

この詩は柳田国男が愛知県の伊良湖岬に漂着した椰子の実の話をしたことから藤村が着想した、というエピソードは有名だ。
この頃から柳田には「海上の道」のアイデアがあったのだろうか?

実を取りて 胸にあつれば 新なり 流離の憂い
海の日の沈むを見れば たぎり落つ 異郷の涙

藤村は椰子の実に寄せて望郷の念を歌い上げている。
そして…。

思いやる 八重の汐々 いずれの日にか 国に帰らむ

これが最後のフレーズである。
椰子の実のかなわない願いを歌ってこの詩は終わる。

この最後のフレーズに私はいつも引っかかる。
YOUTUBEで複数の「椰子の実」を見ても、歌詞の表記はみな「八重の汐々」になっている。

しかし、声では区別がつかないけれど、「八重の汐々」の箇所は「八重の潮路を」でもいいのではないか?
いや、「八重の潮路を」のほうがいい。

「潮路」という語は、「海流の流れていく道筋」として広辞苑にも出ている。
だから意味としても「八重の潮路を」のほうがよくつながる。

それに先行する「思いやる」という動詞は目的語をとるから、「~を」のほうが文法的にもしっくりくる。
あなたはどう感じますか?

藤村の自筆原稿があるならぜひ見てみたい。

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