2021年10月10日 (日)

文字と文

前回、字のほかに文字という語がある。
そして、今ではどうやら文字のほうが優勢だ、というお話をした。

字だけで事足りるのに、なぜ文字という語が生まれ、しかも優位になったのか?
前回はそんな疑問も吐露した。

人びとは「字」の前に「文」をくっつけることで安心した。
だから、問題のカギは「文」だと思う。

漢字の「文」の原義は、人の開いた胸に彫り込んだ入れ墨の模様だという。
模様は視覚的シンボルだから、字、文字に意味が広がってゆく。
前回は、それで字の前に「文」をくっつける理由を納得した。

「文」は訓では「ふみ」や「あや」と読む。

「ふみ」は、書面にきちんとした文章で書き記したものの意。
文字、文字であらわしたもの、手紙などのことだ。

「あや」は糸が織りなす模様をあらわす。
糸が入り組んだ様子から物事の筋道という意味も派生する。

だから「文」は学問の意味も持っている。
また、「あや」は漢字では「綾」とも書く。

糸へんに「文」を音符としてくっつけると「紋」になる。
「紋」は織物の地に織りだされた模様のことである。
「ふみ、あや」に隣接する語だといっていい。

余談になるが、こうしてみるとことば、文字は「糸」と関係が深い。
どちらも人と人、何かと何かを「結ぶ」ものだからだろうか?

隣接する語と言えば、「彩」もそうだ。
辞書によっては、「あや」の見出しに「綾、文、彩」と表記しているものもあるくらいだ。

「彩」もまた模様、形をあらわすけれども、それが色と結びつくことによっていろどり、かざりの意味になる。
やはり「文」とは関係が深い。
「文彩」という熟語もある。
「彩子」さんは「あやこ」と読む。

「ふみ、あや」は物事の筋道という意味も有している、ということは上でもお話しした通りだ。
だから、「文」は「学」とも縁が深い。
「文学」という立派な熟語もある。

文字と文学は字面がよく似ている。
間違えそうになる。

しかも、文字と文学は関係が深いから、なおさら厄介だ。
これからは、文字と文学について愚考せねばなるまい。

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2021年10月 3日 (日)

文字と字

原点に戻って考えてみたい。

広辞苑で「文字」を引くと、
1.字
2.ことば
3.字の音
4.仮名であらわされた字の数
5.学問。文章。
6.銭
とある。

何だかはぐらかされた気分になる。

これではいけないので、「字」のほうを引くと、
「言語を表記するのに用いる符号」とある。
そう、これでなくっちゃ。

一方、明解国語辞典で「文字」を引くと、
「ことばを視覚的に表すために、点・線などを組み合わせて作った記号」と出ている。

念のため、同辞典で「字」を引くと、
「文字。また、筆跡」とある。

同じ国語辞典でも、「文字」と「字」の扱いが正反対である。
辞典編集者の認識の違いが反映されているのだろう。

それにしても、どうして「字」のほかに「文字」があるのだろう?
まったく同じ意味なのに。
「字」だけで事足りるのに。

これまでこのブログでは「文字」を使ってきた。

「字」は1音節で、何となく間が抜けている。
物足りない不足感がある。

私は無意識に、あるいは漠然とそう感じてきたのかもしれない。
あなたならどちらを使うだろう?

日本語話者は「文字」を使うほうが多数派のような気がする。
漢字の本場中国では、使い分けの基準でもあるのだろうか?

漢字辞典によれば、「字」の原義は家の中で子供を育てることらしい。
字形をみればたしかにそうだ。
語義には「生む、はらむ、育てる、ふえる」もある。
それがどうして「文字」の意味になるのだろう?

漢字辞典によれば、「文」は「綾、もよう」とあるから、「ことばを視覚的に表す」にはぴったりだ。
「字」の前に「文」を置きたくなる気持ちはよくわかる。

おそらく、はじめは「字」だったのだろう。
しかし、それに不足感を感じる人々が前に「文」をくっつけてみた。
そうすると、自分たちの気持ちにしっくりくる。不足感も癒される。
そして、「文字」が多数を制した。

そんな次第ではないだろうか?

英語には、「letter」と「character」がある。
ネットで使い分けに基準を調べてみたけれど、よくわからない。すっきりしない。
日本語における「文字」と「字」のようなものだろうか?

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2021年9月26日 (日)

漢字と仮名

ひらがなは日本におけるデモテックかも。
前回はそんなお話をした。

古代エジプトでは3種類の文字が行われていた。
日本では今も3種類の文字が使われている。

この3種類の文字には対応関係があるのではないか?

ヒエログリフ  聖刻文字 楷書体 漢字
ヒエラティック 神官文字 行書体 カタカナ
デモテック   民衆文字 草書体 ひらがな

カタカナとひらがなは、1000年ほど前、ほぼ同じ時期に漢字の変形や簡略化によって成立した。

カタカナは僧侶が経典を読み下すために考案されたという。
ヒエラティックも主に宗教テキスト用に用いられたという。
宗教に縁が深いという点で、ヒエラティックとカタカナは共通している。

またカタカナは戦前まで法律文に用いられた。
戦後も残っていた。

民法もついこの間まで漢字カタカナ交じりの表記だった。
たとえば「第一条ノ二 本法ハ個人ノ尊厳ト両性ノ本質的平等トヲ旨トシテ之ヲ解釈スヘシ」のように。
ヒエラティックは行政文書にも用いられたから、この点でもカタカナと共通している。

ただし、古代エジプトでは3種類の文字の混用はなかった。
対して現代日本語では、まぜ書きがふつうである。
世界中の表記の歴史を見渡してみると、系統の異なる文字のまぜ書きがいかにユニークなものかがわかる。

「かな」という呼び名、「仮名」という漢字表記はいつごろ生まれたのか?
仮名の成立と同じ頃だろうか?

「かな」の「か」は、漢字で書けば「仮」である。
かりそめのものである。

「な」は漢字で書けば「名」である。
文字を意味する。

仮名はかりそめの、間に合わせの文字なのだ。

対して漢字は「真名」。
本当の文字。

呼び名から見ても、仮名は漢字に対してへりくだっている。
日本語話者にとっては、漢字はあくまでも神聖文字、ヒエログリフなのだ。

ひらがなの「ひら」は、漢字で書けば「平」。
平易、やさしいの意味である。
ひらがなとはいい呼び名だ。

カタカナの「カタ」は何だろう?
漢字の一部分、ということを示しているのだろうか?
その意味では漢字に対して不完全な文字、ということをあらわしている。
ここでも漢字に対してへりくだっているのだ。

ひらがなやカタカナは、日本語表記の上ではなくてはならない便利なものだ。
それでも日本語話者の意識の中では、いまなお漢字の優位は揺らいでいないようだ。

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2021年9月19日 (日)

文字と権力

古代エジプトでは、3種類の文字が使われていたとのことだ。
ヒエログリフ、ヒエラティック、デモテックの3つである。

ヒエログリフは聖刻文字、ヒエラティックは神官文字、デモテックは民衆文字と訳されている。
それぞれ用途の役割分担があったという。

漢字で言えば、ヒエログリフは楷書体、ヒエラティックは行書体、デモテックは草書体にあたる。
だんだん崩していって略していって、書きやすくなった。

民衆にとっても書きやすくなった、読みやすくなったからから、民衆文字と訳されるのだろうか?
しかし、この時代文字が広く民衆一般にまで普及していたとは思えない。

何度も繰り返すけれども、音声言語と違って文字は教育システムが確立していなければ習得もできないし社会に普及することもない。
この時代、学校や先生、カリキュラムが整備されていたとはとても思えないのだ。
結局、民衆文字と言っても限られた階層の中で文学などを楽しむために行われていたのではないか?

本当の民衆は文字を知らなかった。
3種類の文字とも支配階層の占有物であり、支配の道具だった。
神殿や宮殿の中でだけ流通していた。
とりわけヒエラティックは主に行政文書に用いられたらしいから、まさに支配の道具だったと言えるだろう。

一般民衆が文字を知るとどうなるか?
民衆が行政文書を理解できるようになり支配の浸透が効率的になる、というメリットはあるだろう。

しかし反面、権力の独占は崩れる。
民衆も文字を使って発信できるようになる。
これは支配層にとって脅威である。

だから、支配層は民衆への文字の普及には積極的でなかった。
文字は秘儀にとどめておかなければならない。

日本では明治維新まで行政文書は漢文であった。
日本では漢字が支配の道具だった。

では、漢字を崩した仮名は日本におけるデモテックなのだろうか?
ひらがなは平安女流文学でよく用いられたから、文学との親和性が高いという意味ではデモテックと言える。
ただ、百姓のレベルまで普及していたかどうか?

江戸時代になると寺子屋などの民間教育施設が発達してきた。
そこで読み書きの教育が行われた。
民衆レベルでも識字率が向上した。

人びとは、街角に掲げられる高札やお触書を理解できるようになった。
これは支配層にとっても好都合だったと思う。

しかし同時に、人びとは瓦版でニュースを知り、手紙で情報や意見を交換できるようになった。
漢字も仮名も含めて、文字が民衆文字になったのだ。

漢字は依然として支配の道具でありつつ、民衆も新たな力を手に入れることになった。
民衆が被支配の状況から脱却する力にもなった。

こうして文字のたどった歴史を振り返ってみると、文字は支配の道具、権力の象徴とは簡単に言えなくなってくる。
支配層にとっても民衆にとっても、文字の存在は両義的なのだ。

民主主義はいま迷走しているように見えるけれども、これに代わる社会運営の理念は見つからない。
民主主義を支えているもの文字である。
デモクラシーとデモテックは語源を共にしている。

しかし21世紀のいまも文字にくらい人びとがいる。
だから、識字教育の必要性がいまなお叫ばれている。

文字が真の民衆文字になるのはいつのことだろう?

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2021年9月12日 (日)

文字と国家

前回は文字が信用を裏付けている、というお話をした。
信用、ということを言うならば、現代では国民国家という共同体も信用を裏付ける存在になっている。

文字と国家は信用を裏付ける、という機能では共通している。
そもそも国民国家という「幻想」の成立には出版資本主義の発達が大きな役割を果たした、とベネディクト・アンダーソンは言っている。
そうか、文字は国民国家の生みの親でもあったのだ。

文字と国家の関係について考えてみたい。
複数の言語が使用されている国では、憲法や法律で公用語が定められているところがある、と聞く。

では、文字についてはどうか?
公用文字、というのが法定されている国があるのだろうか?
「アラビア語の表記には、アラビア文字を用いる」などと定めている国はあるのだろうか?

日本語はふつう漢字かな交じりで表記される。
しかし、ローマ字でも表記することができる。
事実、「ローマ字国字論」もあったくらいだ。

しかし、「日本語の表記は漢字かな交じりとする」と定めている法律などない。
たしかに、常用漢字表や仮名遣い、送り仮名、外来語の表記、ローマ字の綴り方、といった分野では内閣告示や内閣訓令はある。

しかし、これは公用文の表記を拘束しているに過ぎない。
社会一般に対しては何の強制力もない。
単なる目安にすぎない。

つまり現在行われている漢字かな交じりの表記は、慣例であり文化である。
国家による容喙を認めていない。
私はそれでいい、と思っている。

この点、他の国家や言語圏ではどうなのだろう?
公用語についての情報は沢山あるけれども、公用文字についてはとんと聞かない。
文字の使用について国家が定めている例などないからかもしれない。

文字は信用を裏付けているけれども、対照的にお金は国家の信用に裏付けられている。
国家によるお墨付きとして、ちゃんと「通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律」というのがある。

文字とお金はどちらもなくてはならないものだけれど、国家に対する関係としては、文字は国家の上にありお金は国家の下にある。
だから、文字に関しては法律がなく自由だけれども円は法律に縛られている。

公用語に関して言えば、国連憲章で定められている公用語は英語、フランス語、ロシア語、スペイン語、中国語の5か国語である。
総会や安全保障理事会ではこれに加えてアラビア語の6か国語が使用されている。

IOC憲章では、フランス語が第一公用語、英語が第二公用語となっている。
そのほかの国際機関でも、英語とフランス語はたいてい公用語に採用されいる。

世界の母語人口の統計では、中国語、英語、スペイン語の順になっている。
アラビア語は5位、ロシア語は7位、そして日本語は9位。
フランス語は何と16位なのだ。

母語人口から見る限り、国連その他の国際機関で英語が公用語に採用されているのは納得できる。
しかし母語人口16位のフランス語が国際的に英語に次ぐ地位を占めているのはなぜだろう?

やはり、歴史と文化の力だろうか?

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2021年9月 5日 (日)

文字と信用

世の中は「信用」で成り立っている。

たとえば、1万円札を出せば高級レストランでおいしい料理をお腹いっぱい食べることができる。

1万円札は食べられるものではないし、金のように光り輝く美しさがあるわけでもない。
何の役に立つわけでなく、ありがたい重みがあるわけでもない。

それなのに、わたしたちは1万円札に高級レストランのおいしい料理と同じ「価値」があると思い込んでいる。
何の根拠もなしに。

すべて「信用」のなせるわざなのだ。

そもそも「この人はまっとうな人だ」、「信用してもいい人だ」と思わなくては人間関係が成り立たない。
社会が成り立たない。

その「信用」を裏付けるものが文字である。

たとえば、民法では契約は口頭だけでも成立する、と定めている。
しかし、重要な決め事ほど契約書を交わす、文書化する。
そして、関係者が署名する。
必要に応じて印鑑も押す。

そうして文字化して、信用を文字で裏付けしてわたしたちはようやく安心する。
発したとたんに消えてしまう音声言語には、証拠能力がない。

たとえばわが家には、電話セールスがしばしばかかってくる。
中でも多いのが、「電話料金が安くなります」といううたい文句で勧誘する手口だ。
そんな電話がかかってくると、「今、出かけるところです」と言ってすぐ切ることにしている。

本当にそんな重要な内容なら、しかるべきところから郵便で文書が来るはずだ。
それなら検討してもよい。
声と違って文字は信用できる。

電話での、声だけのやり取りで重要なことを決めてしまう人がいるのだろうか?
文字は商取引の必要から発生した、という説をなす人が多いのも納得できる。

不動産売買のように大金が動く取引では必ず契約書という文書を交わす。
その第1条にこう書いてある。
「甲は別記不動産を金1000万円で譲渡する」

これを全部ひらがなで表記すればどうなるか?
「こうはべっきふどうさんをきん1000まんえんでじょうとする」

何となく信用できないような気がする。
バカにされたようにも思う。

つまり、漢字に比べてひらがなは信用力が弱いのだ。

明治維新期に漢字廃止論が提言されてから150年以上。
たしかに漢字にはデメリットがたくさんある。
しかし、一向にその気配がないのは、漢字の信用力に代わるものがないからだ。

同時に日本語話者は、漢字だけでなく仮名を発明し漢字仮名交じりの表記システムを1000年以上維持してきた。
その間、社会は大きく変わったにもかかわらず。

つまり社会は「信用」だけで成り立っているわけでもないのだ。
「信用」は大事だけれども、一方で、漢字の桎梏から逃れたい、という正反対の指向もあった。

おしまいは冒頭のテーゼとは反対になってしまったけれど。

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2021年8月29日 (日)

文字の禍

中島敦が昭和17年に発表した短編に「文字禍」というのがある。

むかし、アッシリアの宮廷の図書館で真夜中あやしい話し声が聞こえるという噂が広がった。
いろいろ調べてみると、これはどうやら文字の精霊の声に違いないということになった。
そこで王さまは、老碩学のナブ・アヘ・エリバ博士に文字霊について研究するように命じた…。

というのが発端である。

博士は考えた。
考えてみると、単なる線の集まり、組み合わせがなぜ一定の音と意味を持つことができるのか、不思議に思えてくる。

言われてみると、たしかにその通りだ。
日本語の場合は漢字と仮名だけど、これも単なる直線や曲線の組み合わせがどうして一定の音と意味をあらわすことができるのか?

結局、そこに単なる直線や曲線を超えた霊的な力を想定するしかない。
手や足や耳や鼻など、人間の部品を統合して人間たらしめているのが「魂」であるのと同じように。

博士はそんな結論に至った。
私もその通りだと思う。

博士はそれからの研究活動としてある統計を取り始めた。
街ゆく老若男女に、「文字を憶える前と後でどんな変化があったか?」というアンケートをとったのだ。

その結果、文字を憶えた後では明らかに人間としての能力が低下した例が続々と出てきた。

たとえば、文字を憶えた後、シラミを取るのが下手になった、咳が出始めた、顎が外れやすくなった、など。
職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、猟師は獲物を射そこなうことが多くなった、など。
「人々は、もはや、書きとめておかなければ、何一つ憶えることができない」

前回お話しした活字中毒に似たみじめな書物狂の老人も登場する。
かれは余りにも文字の世界に惑溺してしまって、いまの自分自身や周りのことは何もわからなくなってしまっている。

博士は、研究結果に基づく以下のような提言をまとめ上げ、王さまに献上した。

「武の国アッシリアは、今や、見えざる文字の精霊のために、全く蝕まれてしまった。しかも、これに気付いているものはほとんど無い。今にして文字への盲目的崇拝を改めずんば、後に臍を噛むとも及ばぬであろう…」

この提言が文字霊の逆鱗に触れた。

王さまはこの提言をしりぞけ、博士を謹慎処分とした。
それだけでなく、まもなく起こった大地震のために、博士は崩れてきた大量の書物(粘土板でできている)の下敷きになって圧死してしまった。

という、こわいお話。
中島敦も文字の毒性に気づいていたのだ。

しかし、こういう小説がいま読めるのも文字があるおかげ。
何とも皮肉ですね。

「文字禍」は、青空文庫でただで読めます。

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2021年8月22日 (日)

文字の毒性

「活字中毒」ということばがある。
身辺に活字で書かれたものがないと落ち着かない人のことである。

手の届く範囲で、読むものがないと急に不安になる。

何でもいい。
本が読みたい。
手近に本が見当たらなければ、チラシの広告でもいい。

やや戯画化してみたけれど、かつてはこんな人がいた。
今はみんなスマホを持ち歩いているから、こんな人もいなくなっているかもしれない。

私にも、思い当たるふしはある。
子供のころから、枕元にうずたかく本を積んでいないと安心して眠れなかった。

ともあれ、「活字中毒」ということばがあるくらいだから、文字には毒性がある、ということだろう。
気を付けなければ。

文字には何とも言えない魅力がある。
人はついその魅力に引きずり込まれる。

その魅力は毒性とすれすれのところになる。
文字は魅力的である。
しかし、警戒を怠ってはいけない。

とりわけ漢字は魅力的である。
「蠱惑」や「魑魅魍魎」などという文字を見ると、体がぞくぞくしてくる。

アラビア文字の踊るような形象も不思議な魅力に満ちている。
コーランはアラビア文字で書かれてこそ、コーランなのだ。

ここまで人を引き付ける文字の魅力とは一体何なのだろう?
その魅力と毒性はどこから来るのだろう?

音声言語、特に日常会話のレベルでは人はあまり言語を意識しない。
空気を呼吸するように、ほとんど無意識にしゃべったり聞いたりする。

しかし文字言語を目の当たりにすると、わたしたちは多少とも言語というものを意識せざるを得ない。
文字言語を使えるようになるためには、教育という自覚的、意識的プロセスを経なければいけないことを思い出してほしい。

そうか、「言語を意識する」というところに文字の魅力と毒性の源泉があったのか!

前回、文字に対する人間の両義的な態度について言及した。
文字は人が高度な社会生活を営む上で必須のツールであり、言語表現のうえでもものすごく有益でありながら、一方で人は心の奥底では、もしかすると文字のような面妖なものはいらないと感じているのではないか?
そんなお話をした。

ということは、人は文字が持つ毒性についてうすうす感づいていたのではないだろうか?

言語は神さまからの贈り物であるかもしれないけれど、それを視覚化する文字は疑いもなく人間の発明品である。

人間はいろいろなものを発明した。
核エネルギーのように、使い方によって毒にもなれば薬にもなるようなものも多い。

文字もまたそんな発明品のひとつかもしれない。

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2021年8月 8日 (日)

究極の選択

教育という社会的営みと文字の存在は切り離せない。
教育ひいては学校は、文字と起源を同じくする。

それだけ教育と文字は一体的なものだけれど、ではどちらがえらいかという話になると、これは文句なく文字のほうがえらい。
文字の存在が、教育、学校というものを社会にもたらしたのだ。

文字が発明され、言語共同体の中に普及し、共有され、文字としての機能を発揮するためには、教育という人間の営みとそのための学校という施設の存在が欠かせないのだ。

それだけ文字は人間社会の中でえらい存在なのだけれど、その割には言語世界の中ではまったくの新参者だ。
音声言語は人間の起源と同じくらい古いけれど、文字の歴史ははどんなにさかのぼってもたかだか1万年を超えることができない。

不思議に思うのは、なぜ文字の成立がこんなに遅れたのか、ということである。

音声言語は発したとたんに消滅する。
だから言った言わないという争いが絶えない。

ことばを記録し保存し、時間と空間を超えて伝えることの必要性を文字以前の人々は感じなかったのだろうか?
そんなことはないと思う。

人間は視覚の動物と言われる。
五感のなかでも最上位に位置付けられている。
その人間が、ことばを視覚化したいという欲望を持たなかったはずがない。

枯枝で地面に視覚シンボルを記す。
あるいは粘土板に形を刻み込む。
そんなに難しいことじゃないと思う。

それを音声言語と結び付けようという発想はなかったのだろうか?
そんなはずはないと思う。

それなのに文字が誕生したのは、せいぜい数千年前でしかない。
人類誕生の古さから見て、どうも解せない。

それとも、教育や学校が成立できるほどまだ社会が成熟していなかった、ということだろうか?

ひょっとして、人間は心の奥底では文字のような面妖なものはいらない、と考えているのかもしれない。
事実、ほんの少し前まで無文字社会というものがいくつもあった。
それでも人間は機嫌よく暮らしていた。

文字はたしかに便利なものだけれど、人間社会に重くのしかかってくる。
人びとを拘束し、窮屈な社会を作り上げる。
文字がなければ、どんなに気楽なことか!

人間は本当はそう考えているのかもしれない。

ここに大変な独裁者があらわれたとする。
彼が、下々のものが音声言語と文字言語の両方を用いるのは贅沢の極みである、どちらかひとつだけを選べ、という布告を発したとする。

音声言語か文字言語か?
あなたなら、どちらを選択するだろうか?

私ならどちらを選ぶべきか?
うーむ、答えが出ない。

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2021年8月 1日 (日)

文字と教育

音声言語は、だれに教わらなくても自然に身につく。
生まれてだんだん体が大きくなり、歩けるようになり、あれこれのことができるようになる。
それと同じように、ことばも自然にしゃべれるようになる。

わたしたち日本語話者にとって東欧のことばはとても難しいと感じるけれども、プラハで生まれた子供は何の苦もなく自然にチェコ語が操れるようになる。

母語の獲得プロセスは大きな謎だし魅力的だけれども、ここに踏み込んでいくと泥沼にはまり込んでしまいそうなのでやめておこう。

文字言語は音声言語と異なる。
何度も言うようだけれども、教育という何がしか組織的、社会的なプロセスを経ないと絶対に身につかない。
だから「学校」というものが欠かせない。

人類の歴史で文字が誕生した時からそうだった。
文字が共同体になかに行き渡り世代間で継承されるためには、その文字を教える人つまり先生がいて、その人から学ばなければならない。

そしてその先生もまた上の世代の先生から学ぶことで先生になれるのだ。
だから、文字の成立とともに「先生」も成立したのだろう。

つまり文字の成立と同じくらい古くから、「学校」があり先生がいて生徒がいた。
その場から文字が普及し、世代間に継承され、改良が加えられていったのだ。

しかし起源当初の学校のシステムはまったくわからない。
先生はどうやって養成し確保したのか?
どのようなテキストを使って、どのような技法で授業が行われたのか?

太古はいざ知らず多少時代が下ってやや資料が残っている古代でも、具体的な様子はよくわからない。

たとえば、紫式部は何歳ごろからどこで文字を学んだのだろう?
どのようなカリキュラムで、どのような教科書で勉強したのだろう?
常用漢字表のような教えるべき漢字の目安はあったのだろうか?
今と同じように、ひらがな先習だったのだろうか?
カタカナはどのような扱いになっていたのだろうか…?

数ある紫式部の伝記でも、そこらへんはすっ飛ばしている。

ともあれ、わたしたちは千年のときを経て「源氏物語」を読むことができる。
つくづく文字のありがたみを感じる。

しかし、それが可能なのも紫式部が文字教育を受けたおかげなのだ。
その教育の具体的内容が曖昧模糊としているのは何とももどかしい。

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