2019年1月14日 (月)

空間表現と時間表現

大晦日、年があらたまる直前にテレビは「行く年来る年」をやる。
たしかに今年がまさに行こうとしている感覚がある。
2018年が遠ざかっていく実感がある。

「行春や鳥啼き魚の目は泪」という句もある。
季節が行き過ぎてしまうという感懐にわたしたちはとらわれる。

かと思えば「来週」と言ったり「来月」と言ったり「来年」と言ったりする。

年や月という時間単位が人間のように行ったり来たりするはずもないのに、わたしたちはこのような表現を自然に受け入れている。

時間は空間とともにわたしたちの存在にとって不可欠な要素だけれども、時間は目に見ることも手で触ることもできない。

だから認識することが難しい。
そして言語によって表現することも難しい。

そこでわたしたちは、空間表現のための語彙を時間表現に転用することになる。

「行く」や「来る」という空間移動をあらわす動詞を時間表現にも適用する。
あるいは時の経過を「流れ」という空間表象に仮託する。

「流れ」に仮託することで「上流」、「下流」という概念が自然に生まれる。
だから、時代を「下った」り「さか上った」りする。
この場合は上下という空間関係が時間関係に転用されている。

上下は対概念だけれども、前後と同様に価値は平等ではない。
もちろん「上」のほうに価値優位性がある。

ただしこの価値優位性は時間関係に転用された時は認められない。
この点も前後関係と同じである。

結局のところ、時間関係においても価値優位性を主張できるのは「先」だけのようだ。

その「先」にしても、前回お話ししたよう過去と未来をめぐって混乱の様相を呈している。
もともと空間関係を表現するための語彙を強引に時間関係に持ち込んだ無理がたたったのかもしれない。

ところで、わたしたちがよく用いる時間単位として、「年」、「月」、「週」、「日」がある。
それぞれの語の前に「先」がついた時の不思議な現象を前回の最後に触れた。

もちろん「先」だけでなく、さまざまな語が時間単位の前につく。
冒頭でふれた「来」がそうである。

ただ、行く年来る年とは言うけれども、「来年」の反対を「行年」とは言わない。
「行年」とは人の死亡時の年齢のことである。

このほかにも、「今」、「去」、「前」、「次」、「翌」、「昨」などの語が次々に思い浮かぶ。
「翌」や「昨」は、時間表現専用の語彙かもしれない。
その意味で貴重なものだ。

ともあれ、これら多くの語を「年」、「月」、「週」、「日」と組み合わせて、わたしたちは時間関係を表現する。
そうすることで、こまやかな時間表現が可能になる。

その場合の結合の相性などにも興味深い現象がみられるのだけれど、この点についてはずいぶん昔にお話ししたような記憶があるので、ここでは省略させていただきましょう。

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2019年1月 6日 (日)

「先」を持ち込むと…(その2)

「前」と「後」という単純な、しかしよく考えてみれば一筋縄ではいかない対概念の中に「先」を持ち込むことで、事態は一層紛糾した。

そのため、昨年はお手上げという情けない状態で1年を締めくくることになってしまった。

しかし、前後関係は「前」と「後」を見つめているだけでは解明できない。
「先」を持ち込まないと思考が広がらないのだ。
だから、このような締めくくりもやむを得ない。

お手上げではあるが、これに懲りずにもう少し愚考を重ねてみたい。

空間関係に関しては、「前」は「先」とほぼ同じ意味と言っていい。
「二人は前になり後になりして歩いて行った」という文の「前」は「先」と互換性がある。

しかし、時間関係になるとそうはいかない。
「先のことなどだれにもわからない」という文の「先」を「前」と入れ替えることはできない。

この場合の「先」は発話時点から見て未来を意味している。
これに対して、「前」は過去を意味するのだ。

それじゃあ時間関係では「先」は常に発話時点の未来を意味しているのかと言えばそうではない。
何と過去を意味することもあるのだ。

その証拠に、わたしたちは「先日は失礼しました」と言う。
「先月」というのは、今でいえば2018年12月のことなのだ。

一体どう考えればいいのだろう?

「前」は発話時点を基準として、絶対的な過去をあらわしている。
「先」は特に基準を設けず、相対的な順序関係をあらわしている。

そう整理すればいいのだろうか?

たしかに「ごはん先にする? お風呂先にする?」という言い方は、特に基準時点を設けていない。
順序関係が主題である。

そして、ここに強引に前後関係という物差しを持ち込むと「先」は過去ということになる。

しかしこのような整理では、「先」が未来を意味する働きのメカニズムが依然として見えない。

私がうすうす感じているところでは、「先」は空間関係における「前=先」のオリエンテーションを時間関係に投映しているのではないだろうか?

時間関係における「前」は過去しか意味することはできない。
それに代わって、「先」が時間的な前途つまり未来を意味するのだ。

まことに時間表現における「先」は絶妙なはたらきをしている。

それだけではない。
「先」は不思議なふるまいをする。

つまり、「先日」、「先年」と言えば、時点が特定できない過去を意味している。
それなのに、「先週」、「先月」と言えば時点が明確に特定されてしまうのだ。

同じように時間単位の前に「先」がくっついているだけなのに、意味の違いが生まれるのはなぜ?

とにかく「先」の不思議に振り回された年末年始だった。

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2018年12月23日 (日)

「先」を持ち込むと…

前と後は対になったことばである。
でもその価値は対等じゃない。

このことは「前」をめぐる語構成の現象を見ても明らかだ。
つまり、「前」には「男前」、「板前」、「腕前」など他の語の後について新たな語を形成することが多い。
しかし、「後」にはそんな現象が見られない。

その理由として私は「後」に対する「前」の価値優位性を考えてみた。
そう、「前」と「後」は対語だけれどその価値は対等ではないのだ。

といいつつ、前回は私みずからがこの仮説に対して疑念を投げかけた。
つまり、「前後」が時間関係に転用された時でも「前」の価値優位性は保たれるのか、ということである。

時間関係に転用された時、「前」は過去を、「後」は未来を意味する。
未来に向けて生きている人間にとって、「前」が「後」よりも価値が勝っているとは到底感じられないのだ。

何だか話がややこしくなってきたけれど、ここに「先」という語を持ち込むと事態はさらに紛糾する。

「前後」と同じく「先」も「後」の対語をなしている。
また「前後」と同じく空間的位置関係にも時間的前後関係にも用いられる。

「10メートル先にお寺が見えるでしょう?」という場合は空間的位置関係を表現している。
「運賃は先にお支払いください」は時間的前後関係をあらわしている。

「前後」の場合、空間関係に関しては「前」に価値優位性が認められるけれども時間関係についてはそうは言えない、というお話をした。

では、「先後」の場合はどうだろうか?

冒頭でふれた「前」の語構成上の特徴は「先」には見られない。
その点では、「先」は「後」に対して価値優位性を持っているとは言えないように思う。

これに対して時間関係の場合はどうか?

「先手を打つ」、「後手を引く」という言い方がある。
また「先んずれば人を制す」ということわざもある。
後輩は先輩に対して頭が上がらない。

これらの例を見ると、時間関係では逆に「先」が「後」に対して価値優位性を主張できるような気がする。
「前後」と「先後」では価値関係が反転しているのかもしれない。

「前」も「先」も「後」の反対語である。
空間関係を表現する場合、「前」も「先」もほぼ同じ方向を指す。
「10メートル前」も「10メートル先」も同じ意味である。

しかし、時間関係ではどうだろうか?
「5年前の話」と「5年先の話」は明らかに正反対の意味である。

ここでは、「前」は過去を「先」は未来を意味している。
その点では、「先」は「後」と同じ働きをしている。

ところが、実はそうとも言えない。

たとえば、「梅雨のあとさき」という小説のタイトルがある。
この場合、梅雨という基準時点から見れば「あと」は未来を「さき」は過去を意味している。
つまり、この場合の「さき」は時間関係における「前」と同じ意味なのだ。

「前」、「後」に加えて「先」を持ち込むと、事態は二転三転してわけがわからなくなってしまう。
どうすればいいのだろう?

もはやお手上げである。

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2018年12月16日 (日)

「前」の謎(その3)

「前」と「後」のことだけれど…。

これまでお話ししてきたように、「前」は他の語の後ろにくっつくことが多い。
そして、新たな意味を持ったことばを生成する。

しかし、「後」にはそのような現象が見られない。
その原因として、私は「前」の価値優位性を考えてみた。

「前」と「後」は対になったことばだけれど、その関係は平等じゃない。
「前」のほうが価値が高く、「後」は価値が低い。

基本的に、人間は前のめりで生きているのだ。

「前」、「後」は人間の空間的オリエンテーションを表現するのが原義だと思う。
しかし、この語は時間的関係を表現するためにも用いられる。

「夜明け前」、「朝飯前」の「前」は、時間的前後関係をあらわしている。
そして面白いことに、この場合の「前」は基準時点から見て過去のことを言っているのだ。

空間とちがって時間は目に見えないものだから、イメージしにくい。
そこで、邪道かもしれないけれど「流れ」という空間的表象に仮託して考えてみたい。

時間の「流れ」のある特定地点に発話者がいる。
発話者は時間の流れから超越しているわけではなく、時間とともにいわば下流に向かって移動せざるを得ない。

その移動に焦点を合わせれば、「前」というのは空間観念で言えば下流側である。
まっすぐな道を歩んでいくのと同じことだ。

しかし、その発話者が「三日前にあの人に会った」と言うとき、その「前」は上流側を意味している。

つまり空間的な「前」と時間的な「前」は、指示する内容が反転しているように思われる。
そうではないだろうか?

時間に関して「前」という場合でも、「後」に対して価値優位性を保てるのだろうか?
疑問を感じざるを得ない。

空間的に前に進むことは、未来に向かって進むことである。
これから行くところである。
だから、視界は開けている、見えているけれども未知の領域である。

一方、時間的に「前」というとき、それは過去を意味している。
既知の領域であり、経験済みのことであり、いまさら変えようがない領域である。

「これからは前を向いて歩いていきます!」と言うとき、この「前」は未来を意味している。
三日前、1年前の「前」ではない。

時間的に未来を指示しようと思えば、「前」の対語である「後」を使わざるを得ない。
「三日後にお会いしましょう」、「十年後の自分を想像してみなさい」と言うように。

時間的関係に関しては「前」は「後」に対して価値優位性を主張できないと思う。
前回のお話は少し修正する必要がありそうだ。

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2018年12月 9日 (日)

「前」の謎(その2)

日本語には「前」という語を付加することによって新しい意味を獲得する複合語が多いけれども、その場合「前」はどのような機能を果たしているのだろうか?

というみずから発した疑問について、前回は苦しまぎれの解釈を試みた。
その解釈に用いたのは、「前」という語の有する価値優位性だった。

男に「前」という価値優位性を付加することによって、多くの女性を引き付ける「男前」が生まれる、という理路はわれながらよく納得できる。

しかしうぬぼれてはいけない。
他の例ではそんな解釈は通用しない。

たとえば、「板」と「板前」はどうなのだ?
「男前」は「男」の一部だけれど、「板」と「板前」は全然別物だ。

たしかに「板」には料理、調理というメタファーがあるから「板前」と関係がないわけではないが、「板」のうちの優れたものが「板前」であるわけじゃない。

この場合は「前」の価値優位性など関係なく、「板」を「前」にして仕事をする人、と解釈したほうが素直かもしれない。
つまり、「江戸前」、「人前」と同じく「前」の原義に回帰した解釈だ。

では、「腕」と「腕前」は?

この場合は「板前」のような原義回帰的解釈は通用しない。
「腕前」は技量という意味だから、「腕」の機能に着目した語である。
当然、技量は人によって優劣があるから、「前」を付加することによって機能を意識させようという戦略だろうか?

ついでだから、「当たる」と「当たり前」は?
うーむ、これは解釈がむずかしい。

そもそも「当たる」という動詞と「前」がどのように結びついてるのか?

「当たり前」という語には「スタンダード」というニュアンスが感じられる。

一方、「当たる」という動詞は何らかの「インパクト」を含意している。
「目当て」や「心当たり」という派生的名詞もその「インパクト」の変形だ。

「インパクト」に「前」を付加することで、どういう理路で「スタンダード」とつながるのだろう?
残念ながら、私には「思い当たる」アイデアがない。

ここはやはり「当たり前」という語の成立史をひもとくしかないのだけれど、どこかに参照文献でもあるのだろうか?
「当たり前」すぎて、だれもやっていないかもしれない。

ネットで検索すると、当然という漢語を同音ということで「当前」と書くことがあり、これを訓読みすることで「当たり前」になったとする説が出ている。

拍子抜けするほど安易な成立史だけれど、本当なのだろうか?
本当だとすると私が「インパクト」や「スタンダード」を持ち出して苦吟したことなどまるで意味のないことになる。
つまりこの場合は「前」の機能などまったく関係ない、ということだろうか?

この説の真偽は古くからの使用例を丹念に検討するしかないけれど、残念ながら私にはその時間と根気がない。

ともあれ、「前」の果たしている機能、役割は一筋縄では解明できない、ということだ。

もう一度、「名」と「名前」に戻ってみよう。
上にあげたいくつかの例とちがって、「前」がくっついても「名」と「名前」は意味は変わらない。

したがって、ここでの「前」の役割は、やはり多音節化によって意味の明瞭性が高まり、その結果おのずから役割分担が定着した、ということなのだろう。

他にも同様の例があれば、この解釈の説得力が高まるのだが…。

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2018年12月 3日 (月)

「前」の謎

「名」のほかに「名前」という語がある。
辞書的意味はほぼ同じ。

発生学的にはまず「名」が生じ、その後に「名前」が派生してきた。
したがって「名」のほうが由緒正しいのだけれど、日常会話では「名前」のほうが通りがよく幅をきかせている。

その理由として、私は音節数のちがいをあげた。
多音節化することで意味の明瞭性が高まり実用的になったのだ。
だから、一般的には「名」は文学的表現に、「名前」は散文的表現にという使い分けがなされている。

と、ここまでは前回のおさらい。

前回はさらに進んで「前」が付加されることによって新たに別の意味を獲得する語が日本語には多いことを指摘した。
たとえば、1音節、2音節の名詞に「前」が付加された例として、板前、腕前、気前、出前、錠前などをあげた。
また、動詞のます形に付加される例として、持ち前、当たり前、分け前などをあげた。
ついでに、「男前」ということばがあるのにどうして「女前」という語がないのか、という素朴な疑問も呈してみた。

「前」という位置オリエンテーションにかかわる語がくっつくことによって、どうして新たな意味が獲得されるのかそのメカニズムがよくわからない。

なので、快刀乱麻を断つようなお答えを期待して前回は終わったのだけれど、まだお答えはいただけていない。
今回もまた、独力で幼稚な愚考を重ねなければいけないのだろうか?

いうまでもなく、「前」と「後」は対になっている。
立っている私、その視線の向かっているほうが「前」であり、その反対方向が「後」である。

対語ではあるが、その価値は平等ではない。
みなさんもよく知っている通り、「前」が優れていて「後」は劣っている。

前向きのことばは歓迎されるけれども、後ろ向きの姿勢は非難される。
戦争でも「前進」は景気がいいが、「後退」は好まれない。

前回、「前」と「後」は対語だけれど「後」が付加されることばはほとんどないというお話をした。
「前」と「後」の価値のちがいがその理由かもしれない。

「男」と「男前」を比べればそのことがよくわかる。
「男」のなかでも「男前」はもてはやされるのだ。

「女前」ということばはない。
その代わり、「美人」という語がある。
「人」という語になっているけれども、この「人」は女に限られている。
つまり、「美人」が「女前」の代わりになっているのだ。

「美人」という語が先にあったので「女前」が成立しなかったのだろうか?
まさか!

男前ー美人という対のほかに美男美女という対語もある。
ただ、この漢語は男前ー美人の組み合わせほど多くは使われない。

特に「美男」という漢語は説明的で、日本語の文脈の中ではしっくりこない。
やはり「男前」という和語のほうが粋な感じがする。

これも「前」という優れた価値を有することばの効果だろうか?

 

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2018年11月26日 (月)

名と名前(その2)

古事記は「なる」の世界である。
動作主のいない世界である。

肝心の神さまからして「なる」のだった。
だから人間だって、いつの間にか気がついたらそこにいた、という感じ。

創世記のように、神さまが人間を創造しかれにアダムという名まえをつけた、という現代人にとってわかりやすいストーリーは存在しない。

当然、人の名前だって命名主不在のまま、どこか地の底から泡が自然に湧き出すように生成したのだった。
私としては、あきらめる以外にすることがあるだろうか?

前回はそうしてあきらめる以外することがないので、すこしばかり視点をずらしてみた。
すると、ここでも面白い現象にぶつかった。

「名」のほかに「名前」という語があるのにあらためて気が付いたのだ。
では「名」と「名前」は辞書的意味はほぼ同じだけれど、どこがどう違うのか?

その違いの一つとして前回は「名」は文学的表現、「名前」は散文的表現を受け持つ、という役割分担のお話をした。
これは、「な」は1音節、「なまえ」は3音節という音声学上のちがいを根拠にした仮説だった。

「なまえ」は「な」のあとに「まえ」という2音節が付加されて成立する。
では、この「まえ」というのは一体何か?

「まえ」というのは、原義的には人間にとって空間的位置関係のオリエンテーションを表現する語だと思う。
いま、目が認識している方向を意味する語だと思う。

「まえ」をさらに分解すると、「ま」と「え」からなる。
「ま」というのは「まなこ」、「まなざし」というように、「目」を意味する音節である。
だから、「まえ」がいま目が見ている方向を意味するというのは説得的だ。

人間の認知活動の根源にかかわる語なので、中核的意味、派生的意味を含めて意味の範囲がきわめて広い。
それだけでなく、他のさまざまな語と結合して意味の肉付けをすることができる。

「名前」と同じように「前」が付加されて出来上がった複合語もいっぱいある。
対語である「後=うしろ」が付加された複合語がほとんどないのと対照的である。

たとえば、「江戸前」は原義からすぐに意味が分かる。
江戸湾の沖合でとれた魚を使うから、江戸前のすしなのだ。

「朝飯前」も原義からすぐにわかる。
ただし、この場合は原義を時間関係に転用している。

しかし、「前」が付加されることによってどうして今流布しているような意味になるのか、その理路がはっきりしない語も少なくない。

たとえば、板前、腕前、気前、出前、自前、錠前なんて語はどうだろう?
持ち前、当たり前、分け前などはどうだろう?

いずれも「前」の原義からすんなり解釈できるとは思えない。
辞書を引いても、なぜ「前」が付加されるとこのような意味になるのかなんて説明されていない。

「男前」ということばもよく使われる。
けれども、「男」と「前」がくっつくとどうしてハンサムになるのか依然としてわからない。
男女は対なのに「女前」という語がないのも気にかかる。

「名前」の「前」も機能がよくわからない、理路が判然としない例の一つである。
どなたか、快刀乱麻を断つように解説していただけないだろうか?

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2018年11月17日 (土)

名と名前

およそわたしたちが体験するこの世の出来事、物事には名前がある。
名前があるからには、いつかどこかで、だれかがその名を付けたのだ。

その命名主はだれか?
というのが、このところ私が執拗に、かつ切実に問い続けてきた疑問だった。

しかし一向に答えにたどり着くことなく、とうとう前回に至って刃折れ矢尽きたという感じで「野暮な疑問」とみずから片づけてしまった。

これで気持ちが片付くわけではないけれど、現実的な切り上げの方法かもしれない。

気を取り直して、少し視点をずらしてみたい。

これまで私は、ばかのひとつ覚えのように、名前、名前と連呼してきたけれども、考えてみれば名前のほかに名という語もある。

名と名前。

古語辞典には「名」は載っているが、「名前」はない。
現代語の辞典には「な」も「なまえ」も載っている。

ただし、「な」はくわしく解説されているのに対して、「なまえ」のほうは「事物の名称」、とか「氏名」などとごくあっさりと片付けられている。

これからして「な」が本来の語であるのに対して、「なまえ」はそのつまらない派生語、という扱いを受けていることがわかる。

しかし、日常会話ではそのつまらない派生語のほうが幅をきかせている。
スタンダードになっている。

だから、初対面の人には「失礼ですが、お名前は?」と聞く。
「いやあ、年のせいか最近人の名前が出てこなくてねえ」と言ったりする。

名と名前はほぼ同じ意味だから、置き換えても意味は通じる。
しかし、「失礼ですが、お名は?」と聞いたりすると、相手はけげんな顔をするかもしれない。

数年前、新海誠監督の「君の名は」が大ヒットした(私も4回映画館に通った)。
年配の人なら昭和28年に始まったまったく別のラジオドラマ「君の名は」を思い出すかもしれない。

いずれもタイトルは「名」になっている。
しかし、映画の中で瀧くんや三葉は「君の名前は?」と叫んでいた。

タイトルは「名」なのに、会話では「名前」なのだ。
なぜだろう?

私流の解釈では、文学的表現のためには「名」のほうがなじむからだと思う。
そういえば、ことわざや慣用的表現ではほとんど「名」が用いられている。

たとえば、「人は死んで名を残し、トラは死んで皮を残す」。
「名が売れる」、「名が通る」、「名を惜しむ」など。

いずれの場合も、「名前」に置き換えて問題ないのだけれど、何だかしっくりこない。

「名」と「名前」はどこがちがうのだ?
いろいろ違いはあるけれど、まず「名」は1音節、「名前」は3音節である。

1音節は簡潔でいいのだけれど、泣きどころは意味の指示機能が弱いという点だ。
つまり、「な」と発音してもそれが語としての「名」なのか、それとも偶発的に発せられた無意味な音声なのか判別しにくいということである。

その点3音節になると、意味の指示機能が明確になって紛らわしいことがない。
だから、日常会話のような散文的環境では「なまえ」が重宝されるのだと思う。

語としてはまず「名」が成立したけれど、上のような事情があって「名前」が派生してきた。
そして現在では、文学的表現を「名」が受け持ち、散文的表現を「名前」が担っている。

なかなか心憎い役割分担ではないだろうか?
他の言語でも同じような使い分けの例はあるのだろうか?

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2018年11月 4日 (日)

命名のミステリー(その3)

旧約聖書の劈頭に、神さまが「光あれ!」と叫んだとある。

しからば、この「光」という名詞、「ある」という動詞は神さまの第一声以前から存在していたのか?
それとも、神さまの第一声と同時に成立したのか?

前回の最後には、そんな深刻な問いに逢着してしまった。

言語学者でない私にそんなことがわかろうはずもない。
いや、言語学者でも果たして適切な答えが出せるかどうか?

なので、みなさんの了解を得てこの問いはさりげなくスルーすることにしたい。
名前の話に戻りたい。

神さまがアダムを創造し、その名付け親になった。
でもその後の名づけは人間・アダムの仕事だ。

かれは神さまから贈られた妻にエバと命名し、さらに夫婦がその子供たち、たとえばカインとアベルの名づけをした。
あとの子孫も以下同様である。

では古事記の世界ではどうか?

まず、聖書のように神さまと人間は断絶していない。

そもそもひとり神だけでは陸地さえ作れない。
イザナギ・イザナミのような夫婦神が人間と同じように生殖行為をして初めてくにが生まれるのだ。

くにだけでなく人間もまた夫婦神の生殖から生まれるもののようだ。
神さまと人間は連続していて、気がつくと神さまがいつの間にか人間になっている。
だから、天皇家だけでなくわたしたちふつうの人間だってアマテラスの子孫だと主張してもおかしくない。

古事記をいくら読んでも、どこから人間の物語なのかはっきりしない。
前にもお話ししたことだけれど、ヤマタノオロチに娘をささげなければいけないと言って嘆いていた足名椎手名椎の老夫婦は果たして神さまなのか人間なのか?

スサノオはかれらを人間のように扱っているが、本人たちは自分を神さまの子供だと思っている。
要するに、古事記の世界では神さまと人間は渾然一体となっている。

また、初代天皇とされるカムヤマトイワレヒコは神さまなのか人間なのか、それとも半神半人の存在なのか?

しかし、古事記はそんなことにこだわっていない。
古事記から見ると、神さまと人間の区別を問う私のほうがナンセンスなのかもしれない。

そんな次第だから、いっぱい登場する神さま(あるいは人間)の名前もだれが名付け親なのかさっぱりわからない。

もともと古事記は「なる」世界だから、創造主も動作主も存在しない。
だから、名付け親も存在しないのだろう。

そんなふうに割り切ってしまえば、気が楽になる。
名前があるからにはどこかに名付け親がいるはず、という私のこだわりは野暮というものだろうか?

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2018年10月29日 (月)

命名のミステリー(その2)

名前があるからには、それに対応する命名者がいるにちがいない。
それはいったいだれだろう?

という素朴な、そして執拗な私の疑問は衰えることを知らない。

前回は旧約聖書と古事記に登場する神さまの名前と土地の名前について、その命名の次第を考えてみた。
当然のことながら、わからずじまいだった。

ヒツジや牛や犬など獣の名前はアダムが命名した。
という創世記の記述だけがわずかな収穫だった。

では、その命名者であるアダムの名前はだれが付けたのだろう?

ふつう人の名前はその両親が付ける。
しかし、アダムにはその親がいないのだ。
しいて言えば土くれが親にあたるのだけれど、土くれが命名するはずもない。

創世記の少し進んだところに、アダムの系図が紹介される。
この節に、「神さまは彼を創造した日に彼をを祝福してアダムと呼んだ」とあるから、これでアダムの命名者は神さまであることがわかり、私はちょっぴり安心した。

ただ、わずかばかりの疑問が残らぬでもない。

邦訳の聖書では、アダムの命名者が神さまであることが明かされるこの箇所に来る前は、彼のことをたんに「人」と訳している。
ただ、訳注で「人」はヘブライ原語では「アダーム」であるとあるから、ヘブライ語聖書では最初から「アダム」として登場するのだろうか?
普通名詞の「アダーム」が固有名詞の「アダム」を兼ねているのだろうか?

ということになると、神さまがアダムの命名者だと言っても、親が赤ちゃんに名前を付けるのと同じように考えてはいけないかもしれない。

そういう問題はあるにせよ、神さまがアダムと名付けたということがわかれば、あとは話が早い。

神さまが不憫に思って、彼の肋骨から女を創造した時も、もはや彼女の名はアダムが命名している。
古事記と違って、聖書の世界では神さまと人間ははっきり断絶しているから、いったん人間が誕生すれば神さまは最初の人間だけ命名すればいい。
アダムの配偶者やその子孫たちの名は、いまの私たちがするように親として名付けるのだ。
そして今日に至っている。

人の名ばかりじゃない。
人が誕生してからは、地名も人が命名するのだ。

アダム夫婦の最初の子供であるカインは新しい都市を建設したのだけれど、その都市に自分の子エノクにちなんで「エノク」という名をつけたという。
いまでも西洋では人の名にちなんで都市の名を命名するということがあるけれども、その習慣は創世記のころからあったのだ。

しかし、まてよ?

アダムが命名の能力を獲得する前から、創世記では土地の名が紹介されている。

たとえばエデンの園には4つの川が流れていて、第3の川ヒデケルはアッシリアの東のほうを流れている、と記されている。
これらの川の名、土地の名はアダムが命名したわけではない。
とすると、記述はないが神さまが名付けたのだろうか?

どうも聖書の書きぶりでは、神さまの出現以前からこれらの名があったかのような錯覚を覚えるのだが…。

問題を人の名、土地の名など固有名詞に限らず、普通名詞にまで広げてみればどうか?

たとえば、神さまが天地創造に着手するその時、「光あれ!」と叫んだ。
という記述を読むと、なんだか「光」という語が神さまの出現以前からあったかのような錯覚をおぼえる。

しかし神さまさえ存在しない「無」の状態で、「光」という語だけが存在しているということがあり得るのだろうか?
いやいや神さまが「光あれ!」と叫んだ瞬間に「光」という語が成立した、と解釈すべきなのだろうか?

ここまでくれば、まったくのお手上げである。

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