困難な道
ことばはどこまで事態の本質に迫ることができるだろうか?
このことを、机の上に落ちる万年筆を例にあげて考えたのが少し前の記事だった。
事態の本質を完全に言語で表現することなどしょせん不可能だ。
そんなことはわかっている。
それでも少しでも本質に近づきたい。
人々のそんな涙ぐましい欲望から生まれたのがオノマトペだった。
そして日本語はそのオノマトペを多用している。
ことばによって事態の本質をあらわそうというのは、不可能を可能にしようとする試みだ。
無理を承知で行う挑戦だ。
オノマトペにおいてはその無理を「暗黙の了解」という形で切り抜けようとする。
「暗黙の了解」という支えがなければ、奈落の底に墜落する危なっかしい表現技法である。
それでも日本語話者はその道を選んだ。
一方、別の道を選んだ人々もいる。
一群の西欧諸語を用いる人々である。
かれらはオノマトペの代わりに、名詞、形容詞、副詞などことばの正会員を総動員して事態の本質に迫ろうとする。
間接的ではあるが、これはこれで言語使用という点では正攻法である。
「机の上に万年筆がコトリと落ちた。」
これをオノマトペを用いずに表現しようというのだ。
ストレートでないだけに、表現が回りくどくなる。
たくさんの語彙を動員しなければならない。
しかしかれらはそれでもあきらめずに事態の本質に迫ろうとした。
その悪戦苦闘の努力がかれらの言語を磨いたことは前にもお話しした。
もちろん、西欧諸語でも擬音語、擬声語はないことはない。
「カッコー」など、日本語でも英語でもその鳴き声がそのまま鳥の名になっている。
しかし、擬態語はどうか?
ないのではないか?
「雪がしんしんと降りつもる」
「秋の日がとっぷり暮れた」
というフレーズを、その擬態語があらわすニュアンスも含めて余すところなく英語で伝えることができるだろうか?
いや、英語だけでなく中国語、ゲール語、クメール語など世界の諸語について擬態語の有無とその使われかたを比較研究してみるのもおもしろい。
その中から、人間の認識の特性と言語表現の関係について何か知見を得ることができるかもしれない。
ともあれ、オノマトペを使う道。
オノマトペを使わない道。
いずれれもまことに困難な道である。
それでもことばによって事態の本質に迫ろうとする人間に私はいじらしさを感じる。


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