2018年4月21日 (土)

ことばの再定義

「ことばとは何か」という私につきつけられた難問に答えるために、前回はとりあえず辞書の定義を参照した。

もう一度おさらいするなら、

「人間の言語。社会的に決められた音の組み合わせで、意志、思想、感情などを表現するもの、広くは文字によるものもいう」
これは明解国語辞典の定義。

そして、「ある意味を表すため、口で言ったり字に書いたりするもの」
これは広辞苑の定義。

英英辞典でも「by written or spoken words」とある。

おそらく世界の諸語の辞典をひもといてみても同じことだろう。

つまり、ことばは人間から離れられない。
そして、もうひとつ大事なことは「言う」や「書く」という人間の行為と固く結びついていることだ。

ここで私にはすぐひとつの疑問が浮かぶ。

じゃあ、心の中、頭の中で活動している「ことば」はことばじゃないのか?

口にこそ出さないけれども、わたしたちが思い、考えるのはことばによってである。
ことばが存在しなければ、わたしたちは思い、考えることができない。

それでも辞書の定義に当てはめれば、わたしたちの心の中、頭の中で活動している「ことば」はことばじゃないことになる。
なにしろ音声化されないのだから。

これら内的言語(私はあえて言語ということばを使わせていただく)は客観的に認知できないしろものだから、言語学者たちはこのような定義を作って内的言語を排除したのだろうか?

しかし、人間の思考を支える内的言語を排除したことばの定義は、私には受け入れがたい。
(われながらずいぶん力んでます)

身振りのことを「ボディランゲージ」という。
身振りも音声を伴わないけれど、何らかの情報を発信している。
コミュニケーションの機能を果たしている。
だから、定義では「ランゲージ」ではないけれども「ボディランゲージ」と呼ばれている。

ことば自身も自分たちの定義を拡大したがっているように見える。
言語学者は嫌がるかもしれないけれど、ことばの定義から音声という要件を外してもいいのではないか?

世界を分節するための記号の体系であり、特定の意味を持った情報を発信するためのさまざまな象徴の体系。
という定義はどうだろう?

これなら、音声化されない前言語的な活動も「ことば」としてすくいあげることができる。

そしてこの定義では、必ずしも人間という主体が前提となっていない。
とすれば、ここでは「草木言問う」という感性も成り立つはずである。

とはいえ、私のこのような妄想的定義が受け入れられるとは思えないが…。

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2018年4月14日 (土)

ことばと人間

「草木言問う」という感性は、わたしたちをそんな言語の檻から解放してくれるかもしれない…。

前回はそんなふうにためらいがちにつぶやいて終わった。

元気に言い切れなかったのには、わけがある。
私のつぶやきに対して、「では、ことばとは何か?」という難問が即座につきつけられるからだ。

ことばとは人間同士がコミュニケーションのために使う音声または文字表象の体系、と定義するのなら、「草木言問う」という言い方はただのナンセンスにすぎなくなる。

人と人、もしくは人と自然とのコミュニケーションの手段、と定義するなら「草木言問う」は成り立つのだが…。

ことばの定義から、人間という主体をはずすことは可能だろうか?

とりあえず、辞書を参照してみよう。

明快国語辞典にはいきなり「人間の言語」と出ている。
「社会的に決められた音の組み合わせで、意志、思想、感情などを表現するもの、広くは文字によるものもいう」とある。

広辞苑では「ある意味を表すために、口で言ったり字に書いたりするもの」となっている。
「人間」という語彙こそ出てこないが、人間という主体が使うものという含意は明らかだ。

念のため、言語という漢語についても調べてみた。
案の定、「人間」という語彙が広辞苑にも新明解にも含まれている。

おそらく他の辞書も似たりよったりに違いない。
うーむ、やはりことばと人間を切り離すことはできそうにない。

他の言語ではどうだろう、たとえば英語では?
日本語の「ことば」にあたる英語はlanguageあるいはwordだろう。

今ここで問題にしている「ことば」はフランス語なら「langue」のほうだから、「language」を英英辞典で調べてみる。
やはり「人間によって使用されるうんぬん…」とある。

つまり、世界中どこに行っても人間とことばは切り離すことができないのだ。
考えてみれば当たり前の話だけれど。

こうして、「草木言問う」という表現は成り立たないことがわかった。
「草や木がしゃべるなんて、そんなの幻覚」と一蹴されても、返すことばがない。

それでも「草木言問う」という感性はなぜか日本語話者の心に響く。

それは、自然との垣根が西欧の人々ほど高くないせいかもしれない。
日本語話者にとっては、木も草も山も川もみんなともだちなのだ。

友達がわたしたちに語りかけてきても何の不思議もない。
ほら、この季節、山だって笑っている。

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2018年4月 8日 (日)

ことばへの向き合いかた(その7)

日本語話者は、筋金入りの言語実用主義者である。
という、私の直感的な断定。

しかし…。

日本語話者の心の深い深いところまで沈潜してみると、そこには「草木言問う」と感じ取る感性、そして、言霊信仰の片鱗が眠っているかも知れない。

そう考えるにいたって、私の判断もぐらぐら揺らいできた。
これが前回記事の結末だった。

たしかにオノマトペが豊かで多彩、という日本語の大きな特徴は「草木言問う」という感性が存在しなければありえない。

いまだって、宮沢賢治のように個性的な新しいオノマトペを案出しようとする人は少なくない。
他の語彙と違って、オノマトペは今でも新しく作り出すことが可能な領域なのだ。

風の音。
風にそよぐ葉ずれの音。
雨が屋根をたたき、地面に降り注ぐ音。
森のせせらぎの水音…。

自然が発する音を「ことば」と感じ取る感性。
「自然がわたしたちに何ごとかを語りかけている」ととらえる心。
虚心坦懐に自然がわたしたちに語りかけている「ことば」を聞き取ろうとする態度。

古代から日本語話者はそんな言語生活を営んできた。

ひょっとすると「ことばは神さま(あるいは人間)が創造し、人間が専有するもの」という西欧風の考え方は、「ことば」というものを狭く考え過ぎているのかもしれない。

ことばは人間だけが使うものじゃない。
犬だって猫だって、山だって川だって、雨だって風だってことばでわたしたちに語りかけている。

そう考えることで、ことばの世界がうんと広がるかもしれない。
もっと自由になるかもしれない。

ある意味で人間にとってことばは檻としてはたらいている。

オノマトペを除いて、ひとは自由に勝手気ままに語彙を作り出すことはできない。
私はこれから「いぬ」のことを「ぬい」と言うことにする、と宣言してもだれも相手にしてくれない。

すべては私が生まれる前から定まっている言語制度の枠の中で表現活動をするしかない。
その意味で、ことばは人間にとって檻でもあるのだ。

「草木言問う」という感性は、わたしたちをそんな言語の檻から解放してくれるかもしれない。

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2018年4月 1日 (日)

ことばへの向き合いかた(その6)

日本語話者は、筋金入りの言語実用主義者である。

これまで私は繰り返しそうお話ししてきた。
なぜ、そのように断定するのか?

記紀などに語られる日本神話と旧約聖書、新約聖書との比較から、そう判断した。

旧約聖書の創世記には宇宙開闢におけることばの役割や、名づけの意義、起源が語られている。
新約聖書のヨハネ福音書でも、神さまと人とことばの関係が分析されている。
総じてことばの実用的価値以前に、ことばと人との関係、その起源に関する関心の深さを感じる。

これに対して、日本神話におけることばの位置づけはどうか?
聖書におけるような、ことばへの実存的関心はまったく感じられない。

ことばなんて、空気と同じであって当然。
その起源や意義なんて、いまさら考えて何の役に立つの?

そんな態度なのだ。

したがって、そうした態度からは現にあることばをいかにうまく使いこなして社会生活に役立てるか、という実用面にしか関心が向かわない。

だから、明治になって西欧から輸入されるまで日本には言語学がなかった。

じゃあ、日本語話者は「ことばなんて情報伝達の道具にすぎない」とドライに割り切っているのだろうか?

実はそこがなかなか微妙なのだ。

人間だけじゃなく、草も木も、山や風もことばを発している、わたしたちに語りかけている。
自然が発する音を「ことば」として聞き取る感性を古代の日本語話者は持っていたらしい。

オノマトペが豊か、という日本語の特徴はそんな感性から生まれたものかもしれない。

そして、草や木や、山や風が時として霊的な力を発揮するように、ことばにも霊力が宿っている。
そんな素朴な言語アニミズムも、日本語話者は持っていた。

単なるものとしての道具なら、霊力も宿らない。
だから、日本語話者はことばを道具にすぎないとドライに割り切っている、というわけでもなさそうだ。

かく言う自分を振り返ってみよう。

日ごろわたしたちはことばを空気のように扱っている。
ほとんど無意識にことばを使っている。

ありていに言えば、絶えずことばを使いながらことばのことなど何も考えていないと言っていい。

たまには、自分の心の深いところがのぞけるものならのぞいてみたい。
ことばに対して、どんな意識や無意識が働いているのだろう?

「草木言問う」という感性がまだ残っているだろうか?
言霊信仰の片鱗がどこかに眠っているだろうか?

そんなふうに、たまには沈潜してみる時間があっていい。
そうすると、日本語話者=言語実用主義者という私の断定もゆらいでくる。

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2018年3月25日 (日)

沈黙と雄弁(その2)

ことばは人間存在を支えている。

だから、ことばは大切なもの、とだれもが思っている。
これは言語圏のちがいを超えて、ことばに対する人類共通の認識だ。

しかしその認識が、ひとびとの態度や文化にどう表れるかについては、言語圏、文化圏によって異なる。

ことばは大切なものだ。
だから、聞き手に自分の思いが正しく過不足なく届けられるまでことばをたっぷり尽くさなくてはならないない。
しかも、誤解の余地がないように明晰なことばで。

フランス語圏をはじめとする西欧では、だいたいこんな感じでことばの大切さを言語実践につなげているのだと思う。

だから、古くから演説の文化が栄え、修辞学が発達した。
ことばを客観的にとらえ、学問的に考察する習慣も生まれた。

しかし、これとは違う態度や考え方もあり得る。

ことばは大切なものだ。
だから、軽々しく扱ってはいけない。

多言を弄する必要はない。
真心のこもった真実のことばだけを発すればいい。

日本語話者のように、ことばを慎むことを尊ぶ態度や文化はこうして生まれたのだと思う。

今はあまり使われないけれど、「ことあげ」ということばがある。
漢字表記をすれば「言挙げ」だろうか?

「ことあげ」は、広辞苑には「ことばに出して特に言い立てること。とりたてて言うこと」と出ている。
つまり、多くのことばを用いて言い募ること。
いくらか攻撃的な意図を感じる。

柿本人麻呂は、万葉集の中で「葦原の瑞穂の国は神ながらことあげせぬ国」と歌っている。
つまりむやみに言い立てない、という文化はすでに古代からあったのだ。

ことばは大切なもの、という認識は「ことばには霊的な力がある」という信仰にもつながっているように思う。

悪いことを口にすれば、その悪いことが実現されてしまう、という信憑が古くからあった。
今でもわたしたちが気にする「忌みことば」は、その信憑から生まれた。

ことばには霊力があるから、うかつに、みだりに取り扱ってはいけない、というのが日本語話者の古くからの共通認識だったのだと思う。

こうしてことばを慎む、という文化が生まれた。

ことばには霊的な力がある。
だから逆に良いことや願いごとは、どんどん口にすればいいじゃないか。

という考え方もある。
事実、先ほどの柿本人麻呂の歌では、「大和はことあげしない国だけれども、私はあえて言う。お元気で行ってらっしゃい。あなたの旅の平安を祈ります」と結んでいる。

言霊の力は、良いほうにも悪いほうにも作用するのだ。

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2018年3月18日 (日)

沈黙と雄弁

日本語話者は筋金入りの言語実用主義者であるにもかかわらず、日本で修辞学が発達しなかったのはなぜだろう?

という素朴な疑問に対して、前々回はとりあえずふたつの仮説を考えてみた。

ひとつは、古来日本には大勢の人々を前にして弁舌をふるうという文化がなかったこと。
もうひとつは、話しことばに対する根深い懐疑が存在していること。

そして前回はひとつ目の仮説について、文化の同質性や多文化環境の視点から若干の肉付けを試みた。

その結果、自分なりになんとなく納得できる気がしたのだけれど、最後には「沈黙は金 雄弁は銀」という西欧の言語文化の伝統とは矛盾することわざが飛び出してきてかえってわけが分からない結末になってしまった。

この点をどう解釈するかという頭の痛い問題はスルーして、ふたつ目の仮説への補足に進もう。
日本語話者には話しことばに対する根深い懐疑が存在している、という点について。

早い話が、べらべらしゃべる人間は軽薄だと思われる、ということだ。
「話がうまい」という評価はまだいいとして、「口がうまい」となるとはっきり軽侮のニュアンスがある。

うっかり口車に乗せられてはならん、という戒めもある。
つまり、多くの人は話しことばに対して留保と警戒感を持っているのだ。

これに対して、無口な人、寡黙な人に対してはむしろ好感が寄せられる。
口下手だけれど、正直な人、実直な人という印象を醸し出す。
高倉健のように。

「沈黙は金 雄弁は銀」という西欧生まれのことわざはむしろ日本でこそふさわしい。

日本では何かにつけ、「自然体」という態度が尊ばれる。
ことばや態度に「わざとらしさ」が感じられれば人心は離れてゆく。

多弁を弄する人には、「ことばで事態を飾ろう、相手を丸め込んでやろう」という作為や底意を感じ取ってしまう。
つまり自然体じゃないのだ。

まことにことばの機能は両義的だ。
人に真心を伝えるためにも用いられるし、ひとをたぶらかすためにも使われる。

ただ、日本語話者は真心は必ずしもことばでなくても通じ合う、と思っている。
それに対して、ひとをたぶらかせるためにはことばは必須だ。

この感覚が、話しことばに対する警戒感の源だと思う。

どっちに転んでも、人間にとってことばは大切なものだ。
大切なものであるからこそ、むやみにもてあそんではならない。

これがわたしたちの言語倫理だ。
そう思えば、話しことばに対する「懐疑」という最初の表現は不適切だったかもしれない。

ことばに対する倫理と愛ゆえに生ずる反作用、と言えばよかったのだろうか?

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2018年3月11日 (日)

文化と弁論

日本語話者は筋金入りの言語実用主義者であるにもかかわらず、日本で修辞学が発達しなかったのはなぜだろう?

という素朴な疑問に対して、前回はふたつの答えを考えてみた。

ひとつは、古来日本には大勢の人々を前にして弁舌をふるうという文化がなかったこと。
もうひとつは、話しことばに対する根深い懐疑が存在していること。

このふたつの答えをもう少し敷衍してみたい。

まず、古来から日本には演説の文化がなかった、という点について。
その理由として、やはり日本が文化的同質性の高い社会だった、ということがあると思う。

自分の気持ちや考えを他人にわかってもらいたい。
そして共感してもらいたい。

という欲求は、人間ならだれにでもある。

アメリカのような高度な多文化社会では、それを逐一ことばにして他人に発信する必要がある。
ことばをもって相手に働きかける、その情熱がいやがうえにも高まらざるを得ないのだ。

一方日本の場合は、文化的同質性が高いために多くのことばを尽くさなくても相互了解できる場合が多い。
お互いに分かり合っていることを、あえてことばにするのはかえって「くどい、はしたない」と思われてしまう。

以心伝心。
言わぬが花。

という機微が尊ばれる。

明治初期、西欧文化が流入するなかで「演説」という語も生まれた。
そして大学には弁論部が次々に生まれ、各地で弁論大会が催された。

しかし、その活動はあまり長続きしなかったようだ。
いま、ネットで調べてみると大学弁論部の活動はずいぶん下火になっている。
やはり西洋と違って、演説や弁論という活動を支える文化的基盤が備わっていなかったのだと思う。

欧米のような多文化社会では、ギリシャ・ローマ時代から演説や弁論の活動が盛んにおこなわれた。
そして、それをサポートするために修辞学が発達した。

つまり、人びとに向かってことばで働きかけることの価値がきわめて高いのだ。

しかし…。
いささか解せぬことがある。

「沈黙は金、雄弁は銀」ということわざが西欧にもあるのだ。
カーライルのことばだという。

このことわざは、ことばによってあからさまにするよりもことばを慎むほうが価値が高い、と言っているのだ。
だったら「言わぬが花」という日本の価値観と同じではないか?

なぜこんなことわざが西欧で生まれたのだろう?
ちょっと不思議である。 

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2018年2月25日 (日)

文法学と修辞学

文法学を学んだからと言って、言語能力が向上するわけではない。
言語に関して理屈っぽくなるかもしれないが、人を感動させるスピーチができたり文章がうまくなることはない。

それに比べて、修辞学を勉強すれば実用的な言語能力が高まるかもしれない。
発見、配列、呈示、記憶、演示…。

言語表現におけるこんなテクニックを修得すれば、ことばによって人を動かすことも可能になるような気がする。

古代ギリシャ、ローマの修辞学では、話の内容だけでなく発声法、声の高さや強さ、イント―ネーション、スピード、間の取りかた、さらには演説する時間帯や身振り、視線の配り方まで教授したという。

夕暮れ、ヒトラーの演説における大仰なジェスチュアは、今見ると滑稽だけれどもその当時の聴衆にとっては力強く印象づけられたのだろうか?

前回もお話ししたように、これほど実用的効用がありながら、日本で修辞学が発達した形跡がない。
筋金入りの言語実用主義者である日本語話者なら、修辞学に飛びついてもおかしくないと思うのだが…。

古代から大勢の人々の前で弁舌をふるうという文化がなかった、というのがひとつの理由だろう。
しかし、もう一つの理由として話しことばへの懐疑、という要素があるのではないだろうか。

中国文化の影響もあって、古来東アジアでは「文」を重んじる伝統があった。
逆に言えば、話しことばはそれほど評価されなかったようだ。

日本では、「あの人は文章がうまい」というのは称賛のことばだ。
しかし、「あの人は話がうまい」というのはどうだろう?
誉めことばではあるが、手放しの称賛とは言えない。

「うかうか話を信用してはいかん」という警戒感がないとは言えない。
「話がうまい」はまだいいけれど、「口がうまい」となるとはっきり軽蔑のニュアンスを感じる。

「話は技術よりも中身だ」という根強い価値観がある。
「いくら話がうまくても真心がなければだめ」という意識が強い。

「巧言令色鮮仁」という論語のことばもよく知られている。

実用的効用があるのに修辞学があまり発達しなかった理由もよくわかる。

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2018年2月18日 (日)

文法への向き合いかた(その3)

前回は人間が文法なるものをでっち上げた動機として、
「もっと知りたい、もっと分かりたい」という本能的な欲望がある、というお話をした。

わたしたち人間はその欲望が満たされてはじめて安心立命を得ることができる、というお話もした。

しかし、このような仮説は印欧語族の人々には当てはまってもわたしたち日本語話者はちょっと違うのではないか、という気もする。

つまり日本語話者の場合、ことばに関しては「もっと知りたい、もっと分かりたい」という欲望よりも、
「もっとうまく使いたい」という実用的な欲望のほうが強かったような気がする。

むろん、西洋の人々にもこのような実用的欲望はあった。
だから、自由七科の中には文法学と並んで修辞学もちゃんとある。

もともと法廷や広場で多くの人びとを説得できるような話をするためにはどうすればよいか、という実用的関心から生まれた学問とのことだ。
自由七科のもう一つの科目、論理学とも関係があるだろう。

西洋における修辞学の伝統は、ひょっとするとヒトラーの演説にもつながっているかもしれない。

日本語話者が言語実用主義者なら、文法学はともかく修辞学は十分受け入れられる素地はあったと思う。
にもかかわらず、日本においては修辞学もあまり発達した形跡がない。

古代から大勢の聴衆に向かって演説するという伝統がなかったからだろうか?
そもそも演説ということば自体、明治になってから福沢諭吉が造語したくらいだからそうかもしれない。

承久の変にあたって北条政子が演説によって関東武士たちを鼓舞したという故事があるけれども、まさか政子が修辞学を勉強したとも思えない。
人を動かす政子の弁舌はきっと天性のものだったのだろう。

いずれにせよ、日本史上修辞学の教育研究は実用的志向を持つにもかかわらずあまり発達しなかった。

いまの初等中等教育でも、文法の授業はあっても修辞学や論理学の科目はない。
せいぜい、朝のホームルームで順番に三分間スピーチをするくらいだろうか?
また、そこでスピーチの技法について指導することもない。

日本では「話がうまい」というのはほめ言葉ではあるけれども、かすかに軽侮のニュアンスも感じられる。
非常にきわどい評言なのだ。

演説の伝統がなかったため、どのような項目をどのような方法によって教授するか分からないのかもしれない。

中国でも日本でも、話しことばより書きことばほうが重んじられた。
文の伝統である。

だったら、叙述の面で修辞学を応用するという発想はなかっただろうか?

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2018年2月11日 (日)

文法への向き合いかた(その2)

ことばはだれが創造したのだろう?

ことばは人間が使うものであり人間であることの証明でもあるのだから、当然人間がつくった。
という説がある。

しかし、旧約聖書の語るところによればことばは人間が誕生するはるか以前からあった。
それどころか宇宙開闢以前から、神さまとともにあった。
そもそも神さまがことばを発したから、この宇宙は生まれたのだ。
という説もある。

いずれが正しいか?
何の証拠もないので、にわかには決しがたい。

その点、文法は人間のこしらえものに決まっている。

「ことば」という現象について、「もっと知りたい、もっと分かりたい」というやむにやまれぬ欲望をなだめるため、人間がでっちあげたものだ。

文法を研究し、勉強したからと言ってなにひとつ役立つことはない。
文法の心得があるからと言って、人を感動させる演説ができるわけじゃない。
文法家だからと言って、名文が書けるわけじゃない。

それでも人は文法を研究し、勉強する。
おそらくそうしないと不安だからだ。
落ち着かないからだ。

わたしたちが日々使っている身近なことば。
わたしたちの生活にとってなくてはならないことば。
そのことばが正体不明のしろものだとしたら、わたしたちは不安で仕方がない。

だから、ことばを客観的な思考の対象として自分たちの前に引き据えようとする。
そして、分類し分析し機能と構造を明らかにしようとする。

その結果の体系が「文法」なのだ。

こうしてようやくわたしたちはことばについて、「分かった」気分になる。
ことばをコントロールできる、支配できると思ってしまう。
そしてようやく安心する。

辞書をひもとくと、「文法=ひとつの言語を構成する語・句・文などの形態、機能、解釈やそれらに加えられる操作についての規則」や「正しいことばづかいの規則」(広辞苑)などと出ている。

まるで文法がことばを支配しているかのようだ。

だから「ら抜きことば」について、「文法的に間違っている。けしからん!」と憤慨する人もいる。
しかしことばの側からすれば、人間側の事情で作り上げられた文法に従わなければならない義理などない。

だから、
「この服、まだ着れるかな?」、「いま帰ったらあのドラマ見れるかな?」
といった言い方が燎原の火のように広がってゆく。

このことばの勢いに、文法はかなわない。
いずれ、「ら抜きことば」につじつまを合わせるように文法のほうが変わってゆくだろう。

ことばの側から言わせれば、文法など人間の勝手な幻想にすぎない。
しかし、安心立命を得るためにはたとえ幻想であってもすがりたい。
つくづくわたしたち人間はあわれな生き物だと思う。

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