2012年2月 3日 (金)

困難な道

ことばはどこまで事態の本質に迫ることができるだろうか?

このことを、机の上に落ちる万年筆を例にあげて考えたのが少し前の記事だった。

事態の本質を完全に言語で表現することなどしょせん不可能だ。
そんなことはわかっている。

それでも少しでも本質に近づきたい。

人々のそんな涙ぐましい欲望から生まれたのがオノマトペだった。
そして日本語はそのオノマトペを多用している。

ことばによって事態の本質をあらわそうというのは、不可能を可能にしようとする試みだ。
無理を承知で行う挑戦だ。

オノマトペにおいてはその無理を「暗黙の了解」という形で切り抜けようとする。
「暗黙の了解」という支えがなければ、奈落の底に墜落する危なっかしい表現技法である。

それでも日本語話者はその道を選んだ。

一方、別の道を選んだ人々もいる。

一群の西欧諸語を用いる人々である。
かれらはオノマトペの代わりに、名詞、形容詞、副詞などことばの正会員を総動員して事態の本質に迫ろうとする。
間接的ではあるが、これはこれで言語使用という点では正攻法である。

「机の上に万年筆がコトリと落ちた。」
これをオノマトペを用いずに表現しようというのだ。

ストレートでないだけに、表現が回りくどくなる。
たくさんの語彙を動員しなければならない。

しかしかれらはそれでもあきらめずに事態の本質に迫ろうとした。
その悪戦苦闘の努力がかれらの言語を磨いたことは前にもお話しした。

もちろん、西欧諸語でも擬音語、擬声語はないことはない。
「カッコー」など、日本語でも英語でもその鳴き声がそのまま鳥の名になっている。

しかし、擬態語はどうか?
ないのではないか?

「雪がしんしんと降りつもる」
「秋の日がとっぷり暮れた」

というフレーズを、その擬態語があらわすニュアンスも含めて余すところなく英語で伝えることができるだろうか?

いや、英語だけでなく中国語、ゲール語、クメール語など世界の諸語について擬態語の有無とその使われかたを比較研究してみるのもおもしろい。

その中から、人間の認識の特性と言語表現の関係について何か知見を得ることができるかもしれない。

ともあれ、オノマトペを使う道。
オノマトペを使わない道。

いずれれもまことに困難な道である。

それでもことばによって事態の本質に迫ろうとする人間に私はいじらしさを感じる。

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2012年1月29日 (日)

意味と音声

ひとくちにオノマトペというけれど、擬音語、擬声語と擬態語はまるでちがう。

そもそも擬態語には対応する物理音が存在しない。

つまり、前回お話しした「ほんもの」がない。
「ほんもの」がない以上、「にせもの」もない。
したがって、「にせもの」を「ほんもの」に見立てる「暗黙の了解」という裏技も使えない。

擬態語というのはそんなことばである。

「雪がしんしんと降りつもる」と言ったって、どこからか「しんしん」という音が聞こえてくるわけじゃない。

「秋の日がとっぷり暮れた」としても、「とっぷり」という物理音がそこに存在するはずもない。

それでもこの擬態語を用いることによって、音もなく雪が降り積もる情景、秋の日が暮れきったありさまがわたしたちの脳裏に「くっきりと」(これも擬態語ですね!)浮かんでくる。

このような効果はいかにして生まれるのだろう?
「しんしん」「とっぷり」という言語音が特定の「意味」を獲得するに至るメカニズムはどのようなものだろう?

というのがわたしの素朴な疑問である。

普通のことば、たとえば「いぬ」という言語音が「犬」の意味を獲得したメカニズムとはちがうような気がする。

「いぬ」ということばと「犬」という対象との結びつきは恣意的なもので、それぞれの言語集団における約束事にすぎない。
それが証拠に、英語では「DOG」と似ても似つかない言語音であらわされているではないか。
何ならこれから「犬」のことを「ねこ」と呼んでもいいですよ、みなさんが承認されるなら…。

というのが、オーソドックスな言語学の主張だ。

しかし、こと擬態語に関してはこの主張は通らないと思う。

「雪がにこにこ降り積もる」と言えるだろうか?
「秋の日がでっぷり暮れた」と言えるだろうか?

擬音語、擬声語とちがって、擬態語は自然界の物理音を模倣したものではない。
自然界からはまったく独立した純粋な言語音だ。

その純粋な言語音が特定の事態や状況を的確に表現できるという現象は、とても言語集団の約束事というなまやさしい関係ではない。

きっと意味と音声の間には秘められた本来的な結びつきが存在する…。
クラチュロスはまちがっていなかったのだ。

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2012年1月20日 (金)

暗黙の了解(その2)

このところ愚考を重ねてきたことだけれども、日本語はなぜこんなにもオノマトペが豊かなのだろう?

それは日本語話者が他の言語圏の人々よりも「暗黙の了解」が得意だったから。

というのが前回の最後、確信の持てぬままに提出した回答であり仮説だった。

勢いよくドアのしまる音、万年筆が机の上に落ちる音を言語によって正確に再現することなどできるはずがない。

そのできるはずのないことを日本語話者はやろうとする。
強引に無理を通そうとする。

その無理は「暗黙の了解」という秘密の通路を通って人々の間を行き来する。

「ほんもの」を再現するのが不可能なら、とりあえず「にせもの」を「ほんもの」と見立ててもいいじゃないか。
だれに迷惑がかかるわけじゃなし…。

ただし「にせもの」は「にせもの」なのだから、ここらへんの事情は大っぴらにしてはならない。
だから「暗黙の了解」なのだ。

「腹芸」ということばがある。
「以心伝心」ということばもある。

「言わぬが花」という戒めもある。

日本語話者のコミュニケーションにはこんな一面がある。

されば、「暗黙の了解」あるがゆえにオノマトペが発達した、という私の仮説もまんざら的外れではないと思う。

オノマトペはうまくいけば一気に事態の本質に迫ることのできる手法である。
しかし見方によってはこれほど欺瞞的な表現技法もない。

このような危なっかしい表現を使ってまで、なぜ日本語話者は物理音を再現したかったのだろう?

というのが、もうひとつの素朴な疑問である。
この点についても自問自答してみたい。

西欧諸語の人々は、神さまの声に耳を傾ける。
そして神さまのことばを忠実に再現することに情熱を傾ける。
そのかわり、自然界の物理音にはさほどの関心を示さない。

これに対して、日本語話者はいつも自然界の物音に耳を澄ましている。
そして、風の音や虫の音、ドアに閉まる音を忠実に再現することに情熱を傾ける。
そのかわり、神さまのことばは適当に聞き流している。

という対比がひとまず思いついた私の答えだけれど、ご賛同いただける方は少ないかもしれない。

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2012年1月14日 (土)

暗黙の了解

空中高さ10センチのところから、机の上に万年筆を落とす。

当然、小さな、軽い衝撃音がわたしたちの耳に届く。

わたしたちはその事態を言語化しようとする。
比喩的な言いかたをすれば、「描こう」とする。

たとえば、「万年筆が机の上にコトリと落ちた…」

実際にわたしたちの耳に届く衝撃音は、「コトリと」という言語表現、文字表現であらわされる言語音とは似ても似つかない。

にもかかわらず、オノマトペを用いたこのような表現が大手を振ってまかり通っている。

前にもお話ししたように、そこには「暗黙の了解」がある。

みんなが「にせもの」と知っているのに、それに気付かないふりをして「ほんもの」として扱う。
そして、だれもそのことには触れない…。

そんなことって、さまざまな分野であると思う。
それと同じ。

オノマトペはそんな「暗黙の了解」の上にかろうじて成り立っている。
本当は実に危なっかしい表現手法なのだ。

だから、うまくいけばいきなり事態の本質に迫ることもできるけれども、むやみに多用するべき技法ではない。

そういう自戒とともにあらためて思うのは、どうして日本語はこんなにオノマトペに恵まれているのか、という疑問である。

日本語はただでさえ言語音の種類が少ない。
世界最少の部類に属する。
その少ない言語音でなんとかやりくりしているのが日本語の実情なのだ。

それでいて、無数の物理音を日本語の言語音で表現しようとする。
できもしないことを承知で、表現しようとする。

無謀というべきか、チャレンジ精神旺盛というべきか…。

それとも、例の「暗黙の了解」というものが、日本語話者は他の言語圏に比べてうんと得意だったのだろうか?

みなさんはどう思われますか?

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2012年1月 6日 (金)

ことばの境界域

喜怒哀楽、ということばがある。
人間は感情豊かな生き物なのだ。

その感情を身体全体で表現せずにはいられない。
手をたたき、足をふみならし、頭を振り乱す。
太鼓をたたき、笛を吹き、もちろん歌を歌う。

人は愉快だと言っては、腹を抱えて大声で笑う。

人は悲しいと言っては、顔を覆って泣き崩れる。
その泣きかたも、号泣、しのび泣き、むせび泣きなどまあそのバリエーションの多彩なこと。

かと思えば、何か腹の立つことでもあればどなり散らして手がつけられなくなる。

まったく、人間は地球上でもっとも騒々しい生き物だ。
もぐらのおじさんの論評は正しいと言わざるを得ない。

犬や猫には快不快の感覚はあっても、感情はないと思う。
かれらは鳴くことはあっても泣くことはない。
アリスの猫は笑ったかもしれないが、現実の猫は笑わない。

喜怒哀楽に伴って発する音声は、人間独自のものだ。
だからと言って、それが「ことば」だとは普通だれも思わない。
音声があり、意味もありながら「ことば」だとは思わない。

なぜなら、その音声も意味も分節の度合いがきわめて低いからだ。
つまり、言語以前の音声である。

ならば、次のような場合はどうか?

9回裏3-0で敗色濃厚なチームが2死満塁でホームランを打った時、観衆からあがる「あーっ!」という歓声または悲鳴。

あるいは、夜更けにいきなり幽霊に出くわしたときにあげる「キャーッ!」という叫び声。

これらの「あーっ!」や「キャーッ!」も、分節度から言えば喜怒哀楽と同様きわめて低い水準にある。
しかるにこれらの叫び声は時として「間投詞」と名付けられ、「ことば」としての待遇を受けることがある。

「あーっ!」や「キャーッ!」がことばと言えるなら、笑い声や泣き声をことばとみなしてもおかしくないことになる。

人の笑い声や泣き声、あるいは「あーっ!」や「キャーッ!」は、それぞれの言語圏を超えて人類共通のものだろうか?

それとも、言語や文化が異なれば微妙に違ってくるのだろうか?
たとえば、夜更けのリューベック、石畳の小路の曲がり角でいきなり幽霊に出くわしたとき、ドイツ語圏の人々はどんな叫び声を上げるのだろうか?

日本語話者と同じく「キャーッ!」なのか?
それとも、何か別の叫び声なのか?

もし同じでないとすれば、「キャーッ!」が言語であることの有力な傍証になる。

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2011年12月31日 (土)

オノマトペの功罪

オノマトペが日本語で花盛りなわけ、西欧でオノマトペが貧弱なわけがこれで納得できる。

前々回はこんなフレーズで記事を締めくくった。

であるからして、日本語は表現力が豊かで他の言語よりもすぐれている…。
という結論にはならない。

さまざまな紆余曲折を経て、西欧諸語ではオノマトペが貧弱にならざるを得なかった。
このことはいかんともしがたい。

しかし、それによって西欧諸語が対象の本質に迫る言語表現への意欲を失ったわけでは決してない。

かれらはオノマトペという直接的手段を用いる代わりに、名詞や動詞や形容詞や副詞といったことばの世界の正会員たちを総動員して対象の本質に迫ろうとした。

この執念によって、かれらの言語表現に磨きがかかった。
語彙の増強、文法の緻密化、修辞学の発達…。

その結果、何よりも明晰な言語表現を尊ぶ価値観が生まれた。
公平に見て、この点日本語は西欧諸語に及ばない。

たしかにオノマトペは便利な道具である。
しかしそれは一種の方便にすぎない。

本当にドアは「バタンと」閉まるのか?

ドアの材質によって、閉めかたによってそのときに発生する物理音は大いに異なる。
それなのに、日本語話者はドアは「バタンと閉まる」ものという思い込みにとらわれている。、

「バタンと」というオノマトペを慣用化するうちに、対象を可能なかぎり明晰に表現しようという意欲と気迫を失ってしまったのだ。

要するに、この世の中いいことづくめはない、ということである。
オノマトペにも、功もあれば罪もある。

だから、日本語話者の中にも意識的にオノマトペの使用を控えている人もいる。

宮沢賢治はオノマトペの名人と言われているけれども、かれもオノマトペの持つ落とし穴を自覚していた。
意識的に「ずらし」の手法を用いたのも、そのためだと思う。

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2011年12月25日 (日)

オノマトペの誕生(その2)

もぐらのおじさんが地中で苦々しげにつぶやいている。
まったく、地球上で人間ほど騒々しい生き物はおらん…。

そう言われると、こちらも耳が痛い。
たしかにその通りなのだ。

人は道端で小枝を見つけると必ず拾う。
そして、拾っただけではすまない。

その枝で地面をたたいてみる、近くに立っている木の幹をたたいてみる。
そうして、「音」が出ることをたしかめてようやく満足する。

いや、まだ満足しないかもしれない。
いい音が出る木を見つけるとリズムをつけて連続的にたたきだす。

その音を聞きつけて近くの村人が集まり、輪になって踊り出す。
それだけでおさまらず、ホッホッと奇声をあげ足を踏みならし手をたたく。

要するに祭りになり宴会になる。
寡黙なもぐらのおじさんにとっては迷惑千万なことにちがいない。

もちろん猿だって犬だって雉だって時にはうるさく鳴く。
しかし、ことばを含め発生させる「音」の多様性という点では人間には遠く及ばない。

真夏にうるさく鳴きたてる蝉だって、ほんの一時のことである。
それもごく単調な「音」にすぎない。

夏の風物詩としてやり過ごせばそれですむ。
芭蕉なんか、蝉の鳴き声に「閑かさ」を感じているくらいだ。

そんな人間が自然界のさまざまな「音」を模倣してやろうと思わぬはずがない。

問題はオノマトペの起源がまともなことばよりも後か先か、ということだ。

ここでまともなことばというのは、名詞や動詞、形容詞などことばの世界の正会員たちのことだ。
こんなことを言えば、オノマトペは憤慨するにちがいないが…。

その形態の原始性、という点ではオノマトペはまともなことばに先立って誕生した、という気がする。

一方、ことばのコミュニケーション機能の点ではオノマトペは明らかに正会員たちに劣るから、副次的な装飾要素としてあとからことばの世界に参入した可能性もなきにしもあらず。

私にはどちらだかわからない。
今となってはどちらでもいいことではあるが。

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2011年12月18日 (日)

オノマトペの誕生

自然界は「音」に満ちている。

見上げれば、空では小鳥たちのさえずりがかまびすしい。
木枯らしは、木立を吹き抜けて寒々とした葉ずれの音を残してゆく。

波打ち際に立てば、潮騒のとどろきが海の彼方への思いをかきたてる。
「わたしの耳は貝の殻 海の響きをなつかしむ…。」
そう歌ったのはコクトーだったっけ?

夜のしじま、ということばがあるけれど、夜だってまったくの無音というわけではない。
梅雨時になればかえるたちの合唱が夜空に響くし、秋の夜更けには虫の音を愉しむことができる。
村のはずれからオオカミの遠吠えが聞こえてくれば、心細い一夜を過ごさねばならない。

わたしたちにはそんな自然界の音をまねしてみたい、という衝動がある。
自然界をあますところなく描写してみたい、という欲望がある。

道端で猫に出くわすと、私はつい「にゃあ」と話しかけてしまう。
たいていの場合、猫はけげんな表情をしてそそくさと立ち去ってしまうのだが…。

ごく自然に口に出る私の「にゃあ」は、太古から受け継がれてきた欲望に支えられている。
オノマトペはそんな心理機制のもとで誕生したのだと思う。

田んぼでは蛙たちがゲコゲコと下手な合唱を披露し、鈴虫はリンリンと秋の夜長を鳴きつくす…。
日本語は「まねことば」に満ちている。

前にもお話ししたように、日本語話者は自然界とことばの世界の間に垣根を作らない。
だから、自然界の物理音が言語音に変換されてよどみなく言語表現の世界に流れ込む。

その点、西欧諸語の場合、人と自然界との間に垣根がある。
その垣根の実体は「神さま」だ。

西欧諸語の話者の意識は神さまに向かっている。
世界を創造した神さまには関心が高いけれど、神さまの被造物とされる自然界に対しては二次的な関心しか向けられない。

オノマトペが日本語で花盛りなわけ、西欧でオノマトペが貧弱なわけがこれでわかる。

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2011年12月11日 (日)

オノマトペの正体(その4)

前回の終りのほうのセンテンスは語尾がみな「気がする」という印象表現で終わっていて、われながら気がひける。

つまり、たしかな根拠のない個人的な感覚の表現なのだ。

音感というとらえどころのない感覚。
それがある状況を指し示すことができるかもしれない、という直感。

言語音と意味との恣意的でない必然的な結びつきをつきとめられるかもしれないという予感。
しかし、その秘められた関係をうまく説明できないというもどかしさ。

それらがせめぎあった結果、「気がする」というあいまい表現の連発につながったのかもしれない。
そして、前々回の終りにお話しした秘儀的な「すりかえ」や暗黙の了解がこのあいまい領域に忍びこんでくる。

しかし、このあいまい領域に迷い込んだのは、どうやら私だけではなさそうだ。
プラトンの「クラチュロス」以来、言語音すなわち記号表現と意味すなわち記号内容との関係に「何かある!」と直感した人は少なくなかった。

「昼」と「夜」をあらわすフランス語について、ある詩人はその音と意味との不調和を嘆いたそうだ。
言語記号とその対象との関係は、恣意性というドライなことばだけではとても割り切れない。

「牛」のことを「うま」と言い、「馬」のことを「うし」と呼ぶ。
このくらいならまだいい。

「猫」のことを「いぬ」と言い、「犬」のことを「ねこ」と呼ぶ。
これは許されるだろうか?

このあたりになると、音感とその象徴性がたしかに影を差してくる。

野蛮人を意味する「バルバロイ」や「バーバリアン」の「B」を「M」に置き換えると、北方の蛮人が少しも怖い存在でなくなってしまう。

普通名詞でさえこうなのだ。
まして、オノマトペは近代言語学にとってまことに目ざわりな存在である。
これを認めてしまえば、その基本テーゼが揺るぎかねない。

だとすれば、オノマトペ花盛りの日本語は近代言語学にとって目の敵かもしれない。

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2011年12月 2日 (金)

オノマトペの正体(その3)

擬音語、擬声語、擬態語を総称して、英語をはじめとする西欧諸語では「オノマトペ」という。
その源は古代ギリシャ語に発する。

そんな豆知識みたいなものを前回ちょっとお話しした。

ところで、わがほうで用いられている擬音語、擬声語、擬態語ということばはもちろん漢語である。
漢語というのはありていに言えば中国語である。

「赤ちゃんがわあわあ泣いている」
「かれはバタンとドアを閉めて出ていった」
「秋の日もとっぷり暮れ…」

などの状況表現に用いられる語をわたしたちは中国語でもってあらわしているのである。

では、これに対応する和語はないのか?
よそから借りてきたことばでなく、自前のことばであらわせないのか?

あえていうならば、「まねことば」だろうか?
それくらいしか思いつかないし、思いついたとしても「擬音語、擬声語、擬態語」には勝ち目がない。
本居先生ならこれらの漢語に十分太刀打ちできる和語を開発したかもしれないが…。

前にも少しお話ししたように、日本語話者は古来ことばにたいして自覚的、分析的ではない。
ことばを対象化し、それを分析して記述することがすこぶる苦手なのだ。

年寄りの繰り言みたいになってしまった。
ないものねだりはもうやめよう。

擬音語、擬声語、擬態語を総称して、英語をはじめとする西欧諸語では「オノマトペ」という。
しかし、擬音語、擬声語と擬態語はまったくちがう。

そんなこと、外界に耳を傾ければすぐにわかる。
「わあわあ」や「バタン」という物理音は聞こえても「とっぷり」などという音はどこからも聞こえてこない。

それなのに、西欧諸語では「オノマトペ」のひとことで片づけてしまう。
外界や自然界に対する関心が低いからそうなる。

その点、漢語はこの現象を3つに分類することができる。
現象に対する分析の度合いは西欧諸語に優っている。

じゃあ、中国語話者は外界や自然界に対する関心が高いのか、となるとそう結論づけるのも早計だ。
漢字が持つ分析機能のおかげで結果的に分析度が高まったとも考えられる。

では、われらが「まねことば」はどうか?

擬音語や擬声語は物理音の模倣だから、「まねことば」で文句あるまい。

では、擬態語はどうか?
これがなかなか微妙なのだ。

一概に「まね」でないとも言い切れない。

「雪がしんしんと降っています」

「しんしん」という物理音はどこからも聞こえてこないけれど、この言語音は夜更けに雪の降りしきるさまとどこかつながっているような気がする。

「坊やはプレゼントをもらってにこにこ上機嫌!」
「にこにこ」という物理音はどこからも聞こえてこないけれど、この言語表現は坊やの心理状態とどこかつながっているような気がする。

いくら言語記号と言語表現の関係は恣意的といっても、「にこにこ」を「がみがみ」に置き換えることはできないと思う。

擬態語をめぐる現象を眺めていると、意味と音感の秘められた関係が見えてきそうな気がする。

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