2017年10月15日 (日)

「あ」から「ん」へ

少し前に読んだ筒井康隆さんの「残像に口紅を」は、最初に「あ」の音が消える。
同時に「ぱ」の音も消えたように記憶している。

それでフランスの首都の名や朝の準主食の名が言えなくなったのだから。

惜しいことにこの本は図書館に返してしまったので、そのあとどのような順序で音が消えていったのか、いまでは思い出せない。

その順序には、筒井さんなりの意図があったと思うのだが…。

ただ、最後に消える音が「ん」だったことはおぼえている。
小説「残像に口紅を」は、最後に「ん」が消えることによって世界が消滅して終わる。

日本語は「あ」ではじまり「ん」で終わる、という観念は日本語話者の間で何となく共有されているように思う。
偶然かもしれないけれど、百人一首も「あ」から始まっている。

五十音図でもいちばん右上に「あ」が置かれ、いちばん左下に「ん」が付け足されている。
右上端から左下端へという流れが、日本語音の自然な順序というべきだろうか?

たしかに、「あ」と「ん」は対極にあるような気がする。

口を一番大きく開けて息を吐くと「あ」の音が出る。
口をつぐんだまま息を鼻から抜くと「ん」の音が出る。

奈良の東大寺は、南大門の両側から運慶作の金剛力士像に守られている。
本堂に向かって左側に「あ」の像があり、右側に「ん」の像がある(逆だったかな?)。

真言の世界では「あ」は宇宙のはじまりを、「ん」は宇宙の終末(そして再生のはじまり)をあらわしているのだそうだ。

「あ」と「ん」は対極をなし、セットを作っている。
だから、「あ」と「ん」をまとめて言うことによって、世界の一切の調和をあらわすことができる。
だから、「あうんの呼吸」と言ったりする。

長い間、日本語には「ん」をあらわす文字がなかった。
だから、古代に日本語には「ん」という言語音そのものがなかった、という説もある。

そのせいで、「あ」に比べて「ん」はなんとなくまま子扱いされているように思う。

「あ」は朝日の中でくっきりとその姿かたちがわかるのに対して、「ん」はたそがれの薄闇の中に身をひそめている。
よくわからないやつだ。

うわさでは、陰で濁音とも親密なつきあいをしているらしい。
たしかに漢字の読みでも、「段階」や「岸壁」など濁音と並んでいることが多い。

古代のことはいざ知らず、いまでは「ん」は日本語の中でなくてはならない言語音だ。
漢語の発音には欠かせないし、「読みて」が「読んで」になるような撥音便としても活躍している。

現代日本語の中で「ん」は涙ぐましいほどの働きをしているのに、正当に扱ってもらえない。
五十音図の中にも居場所がない。

「ん」は日本語話者を恨んでいるだろうか?
ただ、日本語話者のほうでも「ん」をどう扱っていいのか、困り果てているのだ。

| | コメント (0)

2017年10月 8日 (日)

名簿の作りかた

たとえば、カイロの小学校のクラスの生徒名簿はどのような順序で作られるのだろう?
そんな素朴な疑問がきっかけになって、言語音あるいは文字の順序、という問題にはまり込んでしまった。

どのような人間集団であれ、成員の名簿を作成するとなれば何らかの順序という概念を設定せざるを得ない。

必ずしも音または文字の順序でなくてもいい。

たとえば家族集団の場合なら、年齢順に並べるという手もあるだろう。
会社のように上下関係のある組織なら、社長からヒラまで地位順に並べることもある。
そのほか身長順に並べるという身体特性を基準にした方法もある。
学校の場合なら、成績順という露骨な方法もある。

ただ、これらの方法の場合、めざす人がどのあたりに並んでいるのか見当をつけるのがむずかしい。
特に集団が多人数になる場合はそうだ。

だから、実用上の利便を考えて、たいていその名を口にした時の言語音の順に並べてある。
日本語のかなのように、一つの音節がひとつの文字に対応するような言語圏では、それは文字の順でもある。

どのような言語集団であれ、便利な名簿を作成しようとするなら言語音の順に並べることが一般的だ、ということは分かった。

それでは、その言語音をどのような順序で並べるのか、というのが次の問題になる。

たとえば、カイロの小学校のクラス名簿を読み上げていくとする。
各人の名前の最初の音はどのような順序で並んでいるのだろう?

今や世界のどこの国にも小学校はある。
だから、どこにも生徒名簿はある。

それらの名簿を収集、比較、分析して順序の原理を明らかにしてくれた研究はあるのだろうか?
少なくとも私は見たことがない。

どの本も、五十音順にしろabc順にしろ順序があることを前提に話が始まっている。

人間社会に言語が成立した当初から言語音相互の間に順序が存在していたわけではあるまい。
社会生活上のさまざまな必要に迫られて、人為的に順序が持ち込まれたのだ。

日本語であれ、英語であれ、中国語であれその歴史的な成立過程が知りたい。

ここで文字との関係が問題になる。
現代の名簿はみな文字で作られている。

日本の名簿はあいうえお順で作られているし、イギリスの名簿はabc順に作られている。
日本の名簿は言語音、英語の名簿はアルファベットの順で作られている、という違いがあるだけだ。

言語の長い歴史から見れば、文字の出現などごく最近のことだ。
無文字時代の学校では、こどもたちはどのような順序で出欠をとられていたのだろう?

そもそも無文字社会では、順序の概念など不要だったのだろうか?
そうではないように思うのだが…。

日本も昔は無文字社会だった。
大陸から漢字が伝来しても、しばらくはかながなかった。
だから、名簿を作るにしても漢字の中に順序を持ち込まざるを得ない。

それはどのような順序だったのだろう?
いまの漢和辞典のように画数の少ない順に並んでいたのだろうか?

律令前期には式部省という役所があった。
だから、当然その職員名簿もあったに違いない。
それを記した木簡でも出土すれば上の疑問も氷解するのだが…。

たかが名簿ひとつのことでも、言語をめぐる素朴な疑問は尽きることがない。

| | コメント (0)

2017年9月30日 (土)

かるたと順序

読み手が文を読み上げそれに対応した札を取り合うゲーム、という点では百人一首もかるたの一種だと思う。

小さな子にとっては百人一首はやや難しいので、「犬も歩けば棒にあたる」などのようなやさしいことわざを読み上げ、その様子をあらわした絵と「い」の文字を配した札を取り合う、というやり方に変形されている。

子供たちにとって、遊びながら文字を学ぶことができるのもいいところだ。

読み上げるべき短文と絵や文字の組み合わせには無数のバリエーションがある。
子供たちの年齢や興味、シチュエーションに応じてそれにふさわしいセットが選ばれる。

このようなかるたは普通「いろはかるた」と呼ばれている。

「あいうえおかるた」あるいは「かななるた」でもいいと思うのだけれど、なぜかかるたの世界では「いろは」が大きな顔をしている。

辞書や名簿の順序など多くの分野では五十音順がいろは順を圧倒しているのに、かるたの世界ではいろはがいまだ健在だ。

なぜだろう?
不思議な現象だと思う。

いろは順は、そもそもそれ自体、歌になっているから文学的だ。
それが遊びの世界では好まれるのかもしれない。

そこへ行くと、「あいうえお」は分析的だ。
母音と子音の結合関係が一目瞭然である。
どこか元素の周期律表を連想させるところがある。

つまり科学的、理科的なのだ。
そんなところが遊びの世界では冷たい印象を与え敬遠されるのだろう。

かるたはポルトガル語のカルタ、英語のカードから来た外来語だという。
ならば、西欧にも音声言語と文字言語を組み合わせたカードゲームがあるのだろうか?

西欧のカードゲームと言えば、ポーカーやブリッジなどもっぱら数字と図形の組み合わせをテーマにしたゲームばかりが思い浮かぶ。

たとえば、Aの文字から始まる短い詩やことわざを読み上げて、Aのカードを取り合うゲームなんてあるのだろうか?

百人一首のように、音声言語とりわけ詩と文字との組み合わせをテーマにしたカードゲームは世界でも稀有なのではないかと思うのだが…。  

| | コメント (0)

2017年9月23日 (土)

百人一首の順序

百人一首という遊びがある。
藤原定家はゲームのために撰したのではないから、遊びというより歌集といったほうがいいかもしれないが…。

わが家でも、子供が小さい頃は正月によく遊んだものだ。

この百人一首にも歌の配列に順序がある。
おおよそ時代順に並べられているという。

一番歌は天智天皇。
秋の田の 刈穂の庵の 苫をあらみ わが衣手は 露に濡れつつ

そして、百番歌は順徳天皇。
ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり

偶然だろうけれど、百人一首も「あ」から始まっている。

たわむれに百首の最初の一音(一文字)は何だろうと統計を取ってみた。

つまり、一番歌は「あ」、百番歌は「も」である。

この要領で数えてみるとトップは「あ」だった。
百首のうち、17首が「あ」の音で始まっている。

第2位が「な」の8首だから、ぶっちぎりのトップである。

この事実は何を意味しているのだろう?
自然の風物、人事、情緒を表す日本語の語彙には「あ」音で始まることばが多い、と結論づけていいのだろうか?

しかし即席、お手軽な統計調査だから、これだけのデータからせっかちに結論を引き出すのは慎んでおこう。

ただ、最初の一音だけでなく歌の中ほどまで探っていっても、「あ」で始まる語彙は多いなという印象はある。

たとえば、「あま」、「芦」などの名詞。
「あじきなく」、「明けやらで」、「あらで」、「あはれ」のような用言。

反対に、「あ」が語中、語末に現れる例はほとんどない。
「あ」が語頭に現れることが多い、というのは「あ」という音の特性によるのだろうか?

言語と精神文化は深く結びついているから、両者の関係をテーマにした研究は無数にある。

しかし、個々の言語音と文化との関係についての研究はあまりないのではないか?

たとえば、「あ」という日本語の言語音と日本文化はどのような関係にあるのか?
納得のゆく答えは聞いたことがない。

上のようなミニ調査は、コンピュータにやらせれば手っ取り早い。
歌の最初の一音だけでなく、すべての音をしらみつぶしに調べさせる。

そうすれば、百人一首の中のすべての音の出現頻度など、あっという間にわかる。
語頭、語中、語末のどこに位置しているかもわかる。

それで得られたデータと現代文について同じ操作をした場合に得られるデータを比較してみるのもおもしろい。
言語音の本質に迫る知見が得られるかもしれない。

| | コメント (0)

2017年9月17日 (日)

言語における順序

前回は言語における順序、ということを考えてみた。
つまり、音の順序あるいは文字の順序である。

言語の世界に「順序」という秩序がなければ、たぶん社会は成り立たない。
辞書や名簿が作れない。

日本語の場合、その順序はあいうえお順、あるいはイロハ順である。
これは言語音の順序であると同時に、文字の順序でもある。
かなを発明することによって、この順序が可能になった。

英語の場合は、abcという順序がある。
ただし、これは文字の順序ではあるけれども音の順序ではない。

ローマ字は表音文字と言われるけれども、文字単体は表音文字ではなく音素文字である。
物理学でいう分子ではなく、原子なのだ。

原子が複数結合して分子となりはじめて物質の特性を表すのと同じように、複数の文字が結合してはじめて音を表すことができる。

ローマ字にしろかなにしろ文字数が少ないから、だれでもその順序はおぼえることができる。
イロハは短歌にして覚え、あいうえおは図にして覚え、abcはモーツアルトのメロディにのせておぼえている。

ローマ字は音の順序ではなく文字の順序を表しているにすぎないけれども、とにかく順序があることによって辞書や名簿を作ることができる。

では、中国語はどうだろう?
漢字という文字には順序があるのだろうか?

漢和辞典のように画数の少ない順に並べていく?
可能かもしれないが、何万とある漢字の順序は覚えられまい。

前回もお話ししたように、現在の中国語辞典ではピンインの順序になっているようだ。
つまりローマ字の順序を借りている。

それでも、ピンインが導入される以前はどうしていたのか?
ピンインを知らない人はどうするのか?

という疑問は残る。

また、韓国語ではどうだろう?
ハングルの各パーツの間には、どんな順序があるのだろう。

パーツを組み合わせたハングル単体文字は、かなのように音節を表すことができるのか?
それともローマ字のように、音素文字に過ぎないのか?

ウィキペディアによれば、アラビア文字には伝統的な配列順があるという。
とすれば、その順序に従って辞書や名簿は作られるのだろう。

でも、その配列順を見ると漢字のように画数順というわけではなさそうだ。
必ずしも簡単な文字から複雑な文字へと並べてはいない。

なるほど多くの言語で、文字の順序、場合によっては日本語のように音の順序が存在することが分かった。
じゃあ、その順序はどうやって成立したかが次の問題になる。

つまりローマ字の場合なら、なぜacbでなくabcなのか、という問題である。
どのような経過をたどってaで始まりzで終わる順序が定まったのだろう?

なぜ、「あえいおう」でなく「あいうえお」なのか?
なぜ、ア行の次にサ行でなくカ行がくるのか?

という問題である。

このような素朴な疑問に答えてくれる本は読んだことがない。
話はみなこれらの順序が当たり前という前提で始まっている。

いろは歌は空海が作った、という伝説がある。
日本語の言語音を各1音ずつ使って、意味のある短歌を作るなどという芸当は空海のような天才にしかできない、という思いから生まれた伝説だ。

明治36年に万朝報が新しいいろは歌を募集したところ、鳥啼歌というのが1等に選ばれたとのことだ。
いろはと同じように重複なく1文字(1音)づつ使って短歌ができたのだ。
しかもイロハと違って「ん」まで使っている。

鳥啼歌は今はなぜかほとんど知られていないけれど、世の中にはすごい人がいるものだ。

現在なら、AIがもうひとつの「いろは歌」を創作できるかもしれない。
それはどんな順序になるのだろう?
今から楽しみだ。

| | コメント (0)

2017年9月10日 (日)

言語音の順序

考えてみると、人間はずいぶん多彩な前言語的音声を出すことができるものだなあ。
前回の記事を書いていて、われながらつくづく感心した次第だ。

わたしたちが日ごろ用いている言語音までは、この段階から紙一重、だろうか?
人間の言語は小鳥のさえずりから生まれた、という奇想天外な説をなす人もいる。

いつかもお話ししたように、日本語の言語音は世界でも最少の部類に属する。
音節数にして100ちょっとだ。

むろん日本語話者はこれ以外の言語音を出せないわけではない。
その証拠にちゃんと英語もしゃべれる。
英語には日本語では使わない言語音がたくさんあるのだ。

にもかかわらず、日本語話者は100ちょっとの言語音でやりくりしてきた。

よく言われることだけれど、言語音の種類が少ないことで日本語には同音異義語が多いというデメリットがある。
しかし、この点を除けば少ない言語音で豊かな言語表現ができるというのは、言語経済の理にかなったことだ。

筒井康隆さんの「残像に口紅を」も言語音が少ないという日本語の特徴があってはじめて可能になった小説だ。

日本語はその少ない言語音を五十音図という形で整理してきた。
かなという表音文字ができたことで五十音図が可能になった。

つくづくよく出来たマトリクスだと思う。
日本語の言語音の体系が一目瞭然だ.

五十音図のアイデアはインドや中国からもたらされたものらしいけれども、世界の諸言語でこれに類するものがあるのだろうか?
少なくとの英語の言語音を五十音図の方式では整理することはできない。

ところで、多数の語彙がある場合、これを一定の順序で配列しなければならない場合がある。
たとえば辞書を作る場合がこれにあたる。
何らかの順序がなければ、そもそも辞書を作ることができない。

それから多数の人間で構成される集団の名簿を作る場合もこれにあたる。

こんな時に五十音順が活躍する。
本当にありがたい。

五十音順のほかに、いろは順というのもある。
この順序による配列もむかしは結構使われていたようだ。

たわむれに五十音順の名簿をいろは順に組み替えてみるのもおもしろい。
新鮮な印象が感じられるかもしれない。

ラテン文字を採用している言語圏には、アルファベット順がある。
辞書も名簿もこの順で配列されている。

ただし、アルファベット順は文字の順序であり、音の順序ではない。
だから、綴りがわからないと辞書を引くことができない。

五十音順やいろは順は文字の順序であるとともに、音の順序でもある。

では、中国語の場合はどのような配列順になっているのだろう。
手元にある中日辞書はピンインの配列になっている。
つまり、アルファベット順になっている。

しかし、ピンインによる表記がわからない場合、あるいはピンインが導入される以前はどうしていたのだろう?
ちょっと気になる。

| | コメント (0)

2017年9月 3日 (日)

人間の音声

筒井康隆さんの「残像に口紅を」を読んで、あらためて言語音の意義に関心が向かった。

世の中にはさまざまな音が存在する。
風の音、小鳥の鳴き声、爆弾が炸裂するときの轟音、小川のせせらぎ…。

わたしたちは、それらの音をたとえば擬音語などで表現する。
「彼はバタンといきおいよくドアを閉めた」などと言う。

しかし、ドアがいきおいよく閉まるときに発生するあの音は本当に「バタン」なのか?
実際に聞いてみればわかることだけれど、日本語話者が発音する「バタン」とドアが閉まるときの物理音は明らかに同じではない。
近似音ではあるけれど。

本当は異なっているにもかかわらず、同じ音として処理する。
正確な認識を犠牲にして。

そんな巧妙なすり替えが、話し手と聞き手の間に成立している。
言ってみれば、暗黙の了解である。

自然音の再生という場合だけでなく、このような巧妙なすり替え、暗黙の了解と言える現象が言語コミュニケーションの世界には数多く潜んでいるように思う。
このことはずっと以前にもお話ししたような気がするけれど…。

世の中には実にさまざまな音が存在する。
しかし人間の発声器官が出せる音は限られている。
そのギャップがこのようなすり替え、暗黒の了解を生み出しているのだろうか?

机の上にボールペンを落とす。
そのときに発生する音をことばで表現してください。

そんな課題を教室で生徒たちに出したらおもしろい。
私が生徒なら「コトリ」と表現するかもしれない。
あなたなら?

日本の教室だけでなく、中国の教室ではどうだろう?
モロッコやバスク地方の教室ではどんなふうに表記されるだろう?
妄想はどんどん広がってゆく。

いずれにせよ、人間が正確に物理音を再生することは不可能だ。
そもそも人間はそんなことをしなくていい。

「コトリ」であれ「カチャン」であれ、その音を表現しようという人間の意志が尊い。
そして、思いもかけない擬音語が飛び出すかもしれない。
そこに人間の創造性がある。

宮沢賢治はその方面で創造力を発揮した天才だった。

限りはあるけれども、人間もさまざまな音を出すことができる。
たとえば咳やくしゃみ、いびき、寝息…。
これらは動物たちも出すことができる。

そして笑い声や泣き声。
これは動物には無理、人間であることを証明する音声だ。

不意に恐ろしいものに出会った時の「きゃー」という絶叫。
ひいきの選手がホームランを打った時に思わず飛び出す「わぁー」という歓声。
思案をする時に自然に口をついて出る「うーむ」というためいきのような音声…。

思えば人間もずいぶん多彩な前言語的音声を発することができる。
前言語的レベルだから、これらの音声はそれぞれの言語圏を超えて共通しているのだろうか?

つまり、私は真夜中のトイレで不意におばけと出会ったとすれば、「ギャー」という声を出すと思うけれど、たとえばフランス人が同じシチュエーションに直面した時、同じような声を上げるかどうか、という問題である。

このような問題を学術的に研究した仕事を私は寡聞にして知らないのだけれど、もしご存知の方がいらっしゃればぜひともご教示を賜りたいと思う。

| | コメント (0)

2017年8月13日 (日)

残像に口紅を(その2)

筒井康隆さんの小説「残像に口紅を」のような試みをほかの言語でもできるだろうか?

日本語の場合、原則としてひとつのかな文字がひとつの音節をあらわしているから、世界から「あ」が消えたなら、という設定を立てやすいし、わかりやすい。

しかし他の言語、たとえば英語の場合文字と音節の関係はそれほど単純ではない。

たとえば「Macdnald」は8文字の表記だけれど、2音節だ。

つまり、筒井流の方式でやろうとすれば、世界から「Mac」が消えたなら、あるいは「Dnald」が消えたなら、と言わなければならない。

それにこの種の音節なら、日本語よりもはるかに種類が多く、複雑だ。
小説としてはとても収拾がつかないと思う。

アルファベットは音節文字ではないが、世界からアルファベットが1文字ずつ消えたなら、という仮定にすればわかりやすい。

ただし、ローマ字のアルファベットは26文字しかないから、すぐに世界が消えてしまいかねない。
たとえば、世界から「a」が消えたなら、という仮定を置いただけで、たちどころに行き詰まってしまうかもしれない。

いずれにせよ、小説に仕立てるのは難しそうだ。

中国語ならどうだろう?

漢字はかな文字やアルファベットとは比べものにならないほど種類が多いから、多少文字が消えても、その文字があらわす意味や発音が消えても、その体系はびくともしないかもしれない。

筒井流でやるとすれば、世界の終わりまでたどり着くまでには大長編、大河小説になるに違いない。
その分、退屈になるおそれは十分にある。

このように、世界のさまざまな言語について、その文字や表記の特性、意味や発音の体系を筒井流小説になじむかどうか、という視点から分類してみるのもおもしろい。

幸か不幸か、日本語は世界の主要言語では珍しく音節文字を使っている。
しかも、その音節の種類は世界でも最少レベルだ。

つまり、「残像に口紅を」は日本語であればこそ辛くも成立し小説なのだ。

| | コメント (0)

2017年8月 6日 (日)

残像に口紅を

筒井康隆さんの「残像に口紅を」(1989年刊)は、日本語の言語音がひとつづつ世界から消えてゆく、という実験的な小説だ。

ふつう用いられる現代日本語の言語音は、50音図に載っている音に濁音、半濁音、拗音、撥音、促音などの特殊音を加えてざっと100あまり。

それがひとつづつ世界から消えてゆくとどうなるのか?

小説では、最初に「あ」と「ぱ」が消える。
すると、「あ」や「ぱ」の音を含んだ語彙が使えなくなる。

たとえば、花の都とうたわれたフランスの首都が言えなくなる。
また、洋風の朝食につきものの小麦粉を原料とする半主食の名前が言えなくなる。

主人公の奥さんは夫に呼びかけるとき「あなた」と言えないので、「もしもし」という電話のような言い方になる。
滑稽でもの悲しい。

語彙が使えなくなるだけではない。
そのことばが指し示していた存在そのものが消えてなくなる。

かつて街角には、小麦粉を原料とする半主食を販売する専門店がいくつもあった。
しかし今はその看板から名前が消えただけでなく、陳列ケースも空っぽになっている。
わずかにクロワッサンがさびしく残っているだけ…。

また、主人公の妻は名前に「く」が含まれていた。
したがって「く」の音が消えた時、妻も消えてしまった。

こうして、音とその音を含む語彙で指示される存在がひとつづつ消えてゆく。
読んでいて、この先この小説どうなってしまうのだろう、と思ってしまう。

文庫本で300ページあまりの長編だけれど、真ん中あたりで20ほどの音が失われている。
つまり日本語の言語音のうち、5分の1ほどが使えなくなっている。

後半になって、主人公の自叙伝めいた部分が登場するけれど、すでに「ち」が消えているので「父」という語が使えない。
だから、「男親」と言い替える。

しかし、そのうち「や」も消えてしまう。
すると今度は、「おれを生んだ男」と言い替える。

こんな具合なのだ。

苦肉の策とも言うべきこんな言い替えがわりと効いていて、中盤あたりまでは5分の1もの音が消失していることにあまり気が付かない。

日本語は80音くらいでもけっこう表現できるものだな、と再認識した次第だ。

しかし…。

終盤が近い第3部は50音が失われたところから始まる。
すでに、半分の音が消えてしまった。

さすがにここまでくると、言い替えも限界だ。
表現もわけがわからなくなってくる。
逆に言えば、筒井康隆らしくなってきたと言えるかもしれない。

この調子で進んで、さて最後に消える音は何だろう?
これはみなさんの楽しみのために、あえて言わないでおこう。

ともあれ、この音が消えるとともに世界が消え小説も終わる。

現実にはあり得ない思考実験小説だけれど、ことばと存在の関係、言語音の数と表現可能性の関係についてあれこれ考えさせられた。

| | コメント (0)

2017年7月31日 (月)

「ん」の氾濫

11年前の「特殊音の活躍」という記事には、次のような文例が提出されていた。

「わからない」が「わかんない」に。
「お金、くれない?」が「お金、くんない?」に。
「お風呂、まだ沸かないの?」が「お風呂、まだ沸かんの?」に。

ローマ字表記をすればわかるけれど、「ん」に音変化することで1文字ないし2文字が省略される。
その分、発話に要するエネルギーが節約されるのだ。

これらの短縮表現は比較的くだけた場面で使われることが多い。
事情が許すかぎり少しでも発話に要するエネルギーを節約したい、という人間の欲求がいかに強いかを示す例だと思う。

だから、11年前は「特殊音の活躍」に続いて「発話エネルギー節約術」のシリーズに進んでいったのだ。

前回もお話ししたように、古代の日本語には「ん」は存在しなかった。
漢字の読みのために新たに開発された音だった。
たとえば「氾濫=はんらん」という漢語を発音するために「ん」が必要だった。

だから、百人一首には「ん」は登場しない。(「む」を「ん」と発音する場合は別)

しかしその後、「ん」の発話エネルギー節約効果が日本語話者の間で認識されるに及んで、漢字の読みにとどまらず広く日本語表現の中に取り入れられるようになった。

この間の事情は、「では」が「じゃ」に変化するように拗音の分野でも同様だ。

「ん」や拗音は、はじめ漢字の読みのために開発され、そのために特殊音と位置づけられるようになったのだけれど、今やすっかり普遍的な音として日本語の世界に定着してしまった。

いや、定着どころか人々の発話エネルギー節約への欲望のために、いまや氾濫していると言っていい。

わずかに「ん」の氾濫を押しとどめているのは書きことばの世界くらいだろうか?
書きことばの場合は発話エネルギーが問題にならないから、「わかんない」や「くんない?」や「沸かん」という表現は基本的には用いられない。

しかし、今後話しことばの影響が書きことばに及ぶことは十分考えられる。
ケータイやスマホの世界では早くもその兆候があらわれている。

今でこそ、書きことばが孤軍奮闘して「ん」の氾濫を押しとどめているけれど安閑とはしていられない。
いつ堤防が決壊して、「ん」の氾濫が書きことばの世界に及んでくるかわからない。

「ん」の誕生、進出、氾濫ひとつをとっても、万葉や平安の世に比べ日本語の世界の風景はすっかり変わってしまった。
このあと千年、日本語はどう変わっていくのだろう?
ふとそんなことを考えてしまう。

| | コメント (0)

« 「ん」の進出