2018年5月20日 (日)

土地と名前(その3)

「私がいまいるところ」は、ある意味私という存在の原点である。
原点が定まってこそ、私は私をとりまく世界の空間構成を把握することができる。

その原点を確認することを手始めにわたしたちは自分なりの世界秩序の形成に乗り出すのだ。
自分の原点があいまいで確かめることがかなわなければ、わたしたちは途方に暮れるしかない。

だから、人は土地に名前を付ける。
名前を付けて、存在の足場を固める。

ほら、ビルの根っこの部分によく「定礎」のプレートが貼ってあるのを見かけますね。
あれと同じ、まず自分の礎を定めるのだ。

地名をつけるという大仕事をすでに過去の人がやっている場合は、今度はその由来について異常な関心を示す。

和銅6年5月、朝廷は風土記撰進の官命を発している。
その中で特に「山川原野の名号の所由を言上せよ」と述べている。

地名を把握すること、その由来を明らかにすることは、その土地をルーツとする人々にとっては自分たちの存在をたしかめることであるけれども、中央政権にとってはその土地を管理することでもあったと思う。

GWのある晴れた一日、私は鳥取県智頭町を歩いていて「智頭」の地名の由来について思いをはせていた。
古代人だけでなく、現代に生きるわたしたちだって地名に対する関心は浅くない。

このことはもちろん日本だけの現象じゃない。
10年前にもお話ししたことだけれど、「失われた時を求めて」の最初のほうに貴婦人のサロンでフランス各地の地名の由来についてえんえんと蘊蓄をかたむける物知りが登場する。

どうやら地名に対する人々の関心は古今東西変わらないようだ。
地名がわたしたちの存在の原点であることを考えれば、このことも納得できる。

ただ、地名と人名を対比した時には東西の差が出る。

世界の空港の名前には、J.F.ケネディ空港やシャルルドゴール空港のように、公共施設に人名、それも比較的最近の実在の人物の名を付けることが珍しくない。
また、空母「ジョージ・ワシントン」なんてのもある。

日本では首都近郊に第3の空港を作るとして、その空港に「安倍晋三空港」なんて名前を付けることなど考えることもできない。
軍艦だって「大和」であり「武蔵」であって、「東郷丸」なんて命名はできない。

総じて西洋では事物の名づけにあたって個人のキャラが立つことを厭わないようだ。
これに対して、日本では人の名が土地の名をさしおいて前に出ることなどありえない。

日本では地名は自分たちの存在の原点であり絶対的なものだけれども人名はしょせん相対的なものにすぎない、と観念されているせいかもしれない。

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2018年5月13日 (日)

土地と名前(その2)

ゴールデンウィークのとある一日。
その日は申し分のない五月晴れだった。

鳥取県智頭町に行った。
智頭鉄道の「恋山形」駅に降りた。

駅は「恋」のコンセプトでアピールしているらしく、駅舎が派手なピンク色に塗りたてられていた。

あまり趣味がよくない。
新緑の山林に囲まれたまわりの景観とまるで調和していない。

「恋」のコンセプトで地域振興を図りたい気持ちはわかるが、駅長さん(無人駅だけれど)、町長さんには一考をお願いしたい。

駅からてくてく20分ほど歩いて、6年前に廃校になった旧山形小学校に行った。

いまはその一部が智頭林業資料館として再利用されている。
そのほか山形地区振興協議会などいくつかの団体、会社の事務所が入っている。
「五感のチカラ研究所」や「京都大学デザイン学大学院」なんていう看板もかかっていた。

あいにくカギがかかっていて中に入れなかった。
古びた校舎の裏手に回って、雑草の生えただれもいない校庭で深呼吸をした。
森のにおいがした。

この山あいの町は「ちずちょう=智頭町」という。
名前があるからには、いつか、だれかが付けたにちがいない。

いつ、だれが、どういういきさつで付けたのだろう?
歩きながら考えた。

地名の起源など考えたところで、しょせん徒労に終わる。
起源は古代にたちこめる深い霧のかなたに隠されてしまっている。

そんなことは分かっているのだが…。

ネットで少し調べてみると、地名の由来としてみっつほど説が紹介されていた。

1.「チ(道)・ズ(頭)」(都から因幡国に入る最初の郡)の意
2.「ツツ(筒)」状の地形の土地の意
3.マオリ語の「一番高いところに位置する土地」を意味する「チヒ・ツ=TIHI-TU」の転訛

1について
「ち」という日本語音が「道」を意味するのは分かるが、「頭」を「ず」と読むのは字音である。
つまり漢字が伝来してからの読み方だ。
「ちず」の地名は漢字以前からあったのだからこの解釈はおかしい。

2について
古代の人々はなにごとにつけ素朴だったからこの説はあり得る。
北信濃の妙高山だって、古くは単に「なかやま」といった。
里人がまわりの景観を見渡したところ中央にどっしりそびえているのでそう名付けた。
漢字が入ってきて「なかやま」に「名香山」の文字を当て、さらにその音読みを好字に変換して「妙高山」になったのだ。

3について
奇想天外、荒唐無稽。

本当に地名について考え始めるときりがない。
2008年の秋にも、このブログで何回かにわたって地名について考え続けた。
10年たっても同じことをしている。
われながら進歩がない。

しかし、土地はわたしたちの存在を支える文字通りの基盤である。
「私は今どこにいるのか?」という問いに答えがなければ、わたしたちは不安で仕方がない。

だから、土地に名前を付ける。
名前を付けて認識し、あわよくばわたしたちの管理下に置こうとする。

だから土地の名前のほうが人の名前より先なのだ。
人の名前は土地の名前に由来することが多い。

地名の起源など考えたところで、しょせん徒労に終わる。
それでも、地名のルーツへの情熱は冷めない。

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2018年5月 6日 (日)

「ことば」と「ことのは」

「ことば」ということばのほかに「ことのは」という雅語が古くからある。

日常会話ではほとんど使われることがない。
しかし、雅語なので文学やアートの分野ではたまにタイトルや屋号として使われる。

たとえば、「君の名は」で有名になった新海誠監督には「言の葉の庭」というアニメがある。
神戸には、「言の葉オフィスかのん」という話し方研修の事務所もある。
「言の葉大賞」ということばをテーマにしたエッセイのコンテストもあるようだ。

「ことのは」は古今和歌集の仮名序にも登場するくらいだから、けっこう古いことばである。
では、「ことのは」のほうが原型で「ことば」はその短縮形なのだろうか?

いや、その逆ということも考えられる。
「の」を付加することで、飾り立てたのかもしれない。

いずれにせよ「ことのは」ということばを手掛かりとして、わたしたちはことばの本質に迫る旅に出ることができる。

「ことのは」は漢字では「言の葉」と表記されることが多い。
しかし、「事の端」と書くこともできるのではないか?

つまり事物の切れっ端、断片。

わたしたちを取り巻く世界を細かく分節してゆくと、無数の事物の切れっ端が生じる。
そのひとつひとつが個々の「ことば」、つまり単語と考えてはどうだろう。

ひとつながりの世界をあえて分節して、わたしたち人間が認識することが可能になるようにすることがことばの最大の作用だ。
「ことのは」ということばはそのことばの本質的な作用を端的にあらわしている。

「ことのは」という語のほかに、「このは」ということばもある。

「このは」は「木の葉」である。
だから、「ことのは」とは関係がない?

いやいや「木の葉」の「葉」もやはり「端」なのだ。

木の主役は太い幹とそこから伸びる枝である。
細かな葉がその端に無数に生えている。

だが、ひとたび風が吹くと葉っぱは切れ切れになってはかなく散ってゆく。
だから、はかないもの、とるに足らないつまらないものを「こっぱ」という。

「木っ端」であり「木っ葉」である。
「木っ端役人」などとさげすんだりする。

「ことのは」も「このは」もはかないところが共通している。
ことばは人の口から出た瞬間にあとかたもなく消えてしまう。
本当にはかない存在である。

しかし、「このは」はつまらないものと認識されることがあるけれど、「ことのは」はそうじゃない。
「ことのは」ははかないけれど、人間存在の本質的なところとつながっている。

そこが違う。

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2018年4月29日 (日)

ことばと自然

前回は身のほど知らずにも、ことばの再定義を試みた。

しかしこれ以上追究するとぼろが出そうなので、このあたりで話題を転換しよう。

たしか前々回は、日本語話者は西欧の人々と違って自然との垣根が低いというお話をしたと思う。
日本語話者にとっては、動物たちはもとより草も木も花も、山や川や海も、そして雲や風もみーんなともだちなのだ。

その証拠に日本人の姓には自然の風物を取り込んだものが多い。
大山さん、小川さん、中谷さん、石田さん、西野さん、高木さん、藤原さん…。
いくらでも出てくる。

そう、日本列島の人々は自然とつながっているのだ。

とすれば、ひょっとして日本語も自然とつながっているのでは?というアイデアが当然に浮かんでくる。

オノマトペが豊富、という日本語の大きな特徴はそのひとつだろうけれど、それだけじゃないと思う。
たとえば、ずっと以前このブログでもお話ししたことだけれど、さ行音を含む語にはなぜかさわやか感を喚起することばが多い。

さわやか
しおさい
すずしい
せせらぎ
そよかぜ

が行音やだ行音など濁音が語頭にくる語は、このようなさわやかなイメージを喚起することはできない。

これはほんの一例だけれども、子細に調べていけば日本語が自然と通底していることがわかるはずだ。
ソシュールには申し訳ないけれど。

これに対して西欧の諸語は、ヨハネ福音書の記述でも明らかなように一神教の神さまを抜きにしては語れないと思う。

宇宙開闢のとき、神さまは「光あれ!」ということばを発して世界創造の事業に着手した。
ことばそのものは神さまが作ったのか、それとも神さまとともにあったのかつまびらかにしないけれど、いずれにせよ神さまはその後人間を作り、自然を作り、そしてことばを人間に贈った。

したがって、ことばと自然ははじめから分離していたのだ。
だから、ソシュールのテーゼも成り立つ。
神さまの気まぐれを考えれば、言語の恣意性もさもありなんと思う。

このように、キリスト教世界では神さまと人間と自然との間には越えがたい垣根が厳として存在している。
しかし日本列島では、人間と自然との間の垣根が低いばかりか神さまとの間だってそんなに垣根はない。

えべっさん
すみよっさん

なんて呼ばれている神さまなど、わたしたちのすぐ隣にいるともだちのような気分だ。

日本列島では人も自然も神さまもみんな友達づきあいをしている。
そして、その間をことばが自由に行き交っている。

「草木言問う」のももっともなことなのだ。

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2018年4月21日 (土)

ことばの再定義

「ことばとは何か」という私につきつけられた難問に答えるために、前回はとりあえず辞書の定義を参照した。

もう一度おさらいするなら、

「人間の言語。社会的に決められた音の組み合わせで、意志、思想、感情などを表現するもの、広くは文字によるものもいう」
これは明解国語辞典の定義。

そして、「ある意味を表すため、口で言ったり字に書いたりするもの」
これは広辞苑の定義。

英英辞典でも「by written or spoken words」とある。

おそらく世界の諸語の辞典をひもといてみても同じことだろう。

つまり、ことばは人間から離れられない。
そして、もうひとつ大事なことは「言う」や「書く」という人間の行為と固く結びついていることだ。

ここで私にはすぐひとつの疑問が浮かぶ。

じゃあ、心の中、頭の中で活動している「ことば」はことばじゃないのか?

口にこそ出さないけれども、わたしたちが思い、考えるのはことばによってである。
ことばが存在しなければ、わたしたちは思い、考えることができない。

それでも辞書の定義に当てはめれば、わたしたちの心の中、頭の中で活動している「ことば」はことばじゃないことになる。
なにしろ音声化されないのだから。

これら内的言語(私はあえて言語ということばを使わせていただく)は客観的に認知できないしろものだから、言語学者たちはこのような定義を作って内的言語を排除したのだろうか?

しかし、人間の思考を支える内的言語を排除したことばの定義は、私には受け入れがたい。
(われながらずいぶん力んでます)

身振りのことを「ボディランゲージ」という。
身振りも音声を伴わないけれど、何らかの情報を発信している。
コミュニケーションの機能を果たしている。
だから、定義では「ランゲージ」ではないけれども「ボディランゲージ」と呼ばれている。

ことば自身も自分たちの定義を拡大したがっているように見える。
言語学者は嫌がるかもしれないけれど、ことばの定義から音声という要件を外してもいいのではないか?

世界を分節するための記号の体系であり、特定の意味を持った情報を発信するためのさまざまな象徴の体系。
という定義はどうだろう?

これなら、音声化されない前言語的な活動も「ことば」としてすくいあげることができる。

そしてこの定義では、必ずしも人間という主体が前提となっていない。
とすれば、ここでは「草木言問う」という感性も成り立つはずである。

とはいえ、私のこのような妄想的定義が受け入れられるとは思えないが…。

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2018年4月14日 (土)

ことばと人間

「草木言問う」という感性は、わたしたちをそんな言語の檻から解放してくれるかもしれない…。

前回はそんなふうにためらいがちにつぶやいて終わった。

元気に言い切れなかったのには、わけがある。
私のつぶやきに対して、「では、ことばとは何か?」という難問が即座につきつけられるからだ。

ことばとは人間同士がコミュニケーションのために使う音声または文字表象の体系、と定義するのなら、「草木言問う」という言い方はただのナンセンスにすぎなくなる。

人と人、もしくは人と自然とのコミュニケーションの手段、と定義するなら「草木言問う」は成り立つのだが…。

ことばの定義から、人間という主体をはずすことは可能だろうか?

とりあえず、辞書を参照してみよう。

明快国語辞典にはいきなり「人間の言語」と出ている。
「社会的に決められた音の組み合わせで、意志、思想、感情などを表現するもの、広くは文字によるものもいう」とある。

広辞苑では「ある意味を表すために、口で言ったり字に書いたりするもの」となっている。
「人間」という語彙こそ出てこないが、人間という主体が使うものという含意は明らかだ。

念のため、言語という漢語についても調べてみた。
案の定、「人間」という語彙が広辞苑にも新明解にも含まれている。

おそらく他の辞書も似たりよったりに違いない。
うーむ、やはりことばと人間を切り離すことはできそうにない。

他の言語ではどうだろう、たとえば英語では?
日本語の「ことば」にあたる英語はlanguageあるいはwordだろう。

今ここで問題にしている「ことば」はフランス語なら「langue」のほうだから、「language」を英英辞典で調べてみる。
やはり「人間によって使用されるうんぬん…」とある。

つまり、世界中どこに行っても人間とことばは切り離すことができないのだ。
考えてみれば当たり前の話だけれど。

こうして、「草木言問う」という表現は成り立たないことがわかった。
「草や木がしゃべるなんて、そんなの幻覚」と一蹴されても、返すことばがない。

それでも「草木言問う」という感性はなぜか日本語話者の心に響く。

それは、自然との垣根が西欧の人々ほど高くないせいかもしれない。
日本語話者にとっては、木も草も山も川もみんなともだちなのだ。

友達がわたしたちに語りかけてきても何の不思議もない。
ほら、この季節、山だって笑っている。

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2018年4月 8日 (日)

ことばへの向き合いかた(その7)

日本語話者は、筋金入りの言語実用主義者である。
という、私の直感的な断定。

しかし…。

日本語話者の心の深い深いところまで沈潜してみると、そこには「草木言問う」と感じ取る感性、そして、言霊信仰の片鱗が眠っているかも知れない。

そう考えるにいたって、私の判断もぐらぐら揺らいできた。
これが前回記事の結末だった。

たしかにオノマトペが豊かで多彩、という日本語の大きな特徴は「草木言問う」という感性が存在しなければありえない。

いまだって、宮沢賢治のように個性的な新しいオノマトペを案出しようとする人は少なくない。
他の語彙と違って、オノマトペは今でも新しく作り出すことが可能な領域なのだ。

風の音。
風にそよぐ葉ずれの音。
雨が屋根をたたき、地面に降り注ぐ音。
森のせせらぎの水音…。

自然が発する音を「ことば」と感じ取る感性。
「自然がわたしたちに何ごとかを語りかけている」ととらえる心。
虚心坦懐に自然がわたしたちに語りかけている「ことば」を聞き取ろうとする態度。

古代から日本語話者はそんな言語生活を営んできた。

ひょっとすると「ことばは神さま(あるいは人間)が創造し、人間が専有するもの」という西欧風の考え方は、「ことば」というものを狭く考え過ぎているのかもしれない。

ことばは人間だけが使うものじゃない。
犬だって猫だって、山だって川だって、雨だって風だってことばでわたしたちに語りかけている。

そう考えることで、ことばの世界がうんと広がるかもしれない。
もっと自由になるかもしれない。

ある意味で人間にとってことばは檻としてはたらいている。

オノマトペを除いて、ひとは自由に勝手気ままに語彙を作り出すことはできない。
私はこれから「いぬ」のことを「ぬい」と言うことにする、と宣言してもだれも相手にしてくれない。

すべては私が生まれる前から定まっている言語制度の枠の中で表現活動をするしかない。
その意味で、ことばは人間にとって檻でもあるのだ。

「草木言問う」という感性は、わたしたちをそんな言語の檻から解放してくれるかもしれない。

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2018年4月 1日 (日)

ことばへの向き合いかた(その6)

日本語話者は、筋金入りの言語実用主義者である。

これまで私は繰り返しそうお話ししてきた。
なぜ、そのように断定するのか?

記紀などに語られる日本神話と旧約聖書、新約聖書との比較から、そう判断した。

旧約聖書の創世記には宇宙開闢におけることばの役割や、名づけの意義、起源が語られている。
新約聖書のヨハネ福音書でも、神さまと人とことばの関係が分析されている。
総じてことばの実用的価値以前に、ことばと人との関係、その起源に関する関心の深さを感じる。

これに対して、日本神話におけることばの位置づけはどうか?
聖書におけるような、ことばへの実存的関心はまったく感じられない。

ことばなんて、空気と同じであって当然。
その起源や意義なんて、いまさら考えて何の役に立つの?

そんな態度なのだ。

したがって、そうした態度からは現にあることばをいかにうまく使いこなして社会生活に役立てるか、という実用面にしか関心が向かわない。

だから、明治になって西欧から輸入されるまで日本には言語学がなかった。

じゃあ、日本語話者は「ことばなんて情報伝達の道具にすぎない」とドライに割り切っているのだろうか?

実はそこがなかなか微妙なのだ。

人間だけじゃなく、草も木も、山や風もことばを発している、わたしたちに語りかけている。
自然が発する音を「ことば」として聞き取る感性を古代の日本語話者は持っていたらしい。

オノマトペが豊か、という日本語の特徴はそんな感性から生まれたものかもしれない。

そして、草や木や、山や風が時として霊的な力を発揮するように、ことばにも霊力が宿っている。
そんな素朴な言語アニミズムも、日本語話者は持っていた。

単なるものとしての道具なら、霊力も宿らない。
だから、日本語話者はことばを道具にすぎないとドライに割り切っている、というわけでもなさそうだ。

かく言う自分を振り返ってみよう。

日ごろわたしたちはことばを空気のように扱っている。
ほとんど無意識にことばを使っている。

ありていに言えば、絶えずことばを使いながらことばのことなど何も考えていないと言っていい。

たまには、自分の心の深いところがのぞけるものならのぞいてみたい。
ことばに対して、どんな意識や無意識が働いているのだろう?

「草木言問う」という感性がまだ残っているだろうか?
言霊信仰の片鱗がどこかに眠っているだろうか?

そんなふうに、たまには沈潜してみる時間があっていい。
そうすると、日本語話者=言語実用主義者という私の断定もゆらいでくる。

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2018年3月25日 (日)

沈黙と雄弁(その2)

ことばは人間存在を支えている。

だから、ことばは大切なもの、とだれもが思っている。
これは言語圏のちがいを超えて、ことばに対する人類共通の認識だ。

しかしその認識が、ひとびとの態度や文化にどう表れるかについては、言語圏、文化圏によって異なる。

ことばは大切なものだ。
だから、聞き手に自分の思いが正しく過不足なく届けられるまでことばをたっぷり尽くさなくてはならないない。
しかも、誤解の余地がないように明晰なことばで。

フランス語圏をはじめとする西欧では、だいたいこんな感じでことばの大切さを言語実践につなげているのだと思う。

だから、古くから演説の文化が栄え、修辞学が発達した。
ことばを客観的にとらえ、学問的に考察する習慣も生まれた。

しかし、これとは違う態度や考え方もあり得る。

ことばは大切なものだ。
だから、軽々しく扱ってはいけない。

多言を弄する必要はない。
真心のこもった真実のことばだけを発すればいい。

日本語話者のように、ことばを慎むことを尊ぶ態度や文化はこうして生まれたのだと思う。

今はあまり使われないけれど、「ことあげ」ということばがある。
漢字表記をすれば「言挙げ」だろうか?

「ことあげ」は、広辞苑には「ことばに出して特に言い立てること。とりたてて言うこと」と出ている。
つまり、多くのことばを用いて言い募ること。
いくらか攻撃的な意図を感じる。

柿本人麻呂は、万葉集の中で「葦原の瑞穂の国は神ながらことあげせぬ国」と歌っている。
つまりむやみに言い立てない、という文化はすでに古代からあったのだ。

ことばは大切なもの、という認識は「ことばには霊的な力がある」という信仰にもつながっているように思う。

悪いことを口にすれば、その悪いことが実現されてしまう、という信憑が古くからあった。
今でもわたしたちが気にする「忌みことば」は、その信憑から生まれた。

ことばには霊力があるから、うかつに、みだりに取り扱ってはいけない、というのが日本語話者の古くからの共通認識だったのだと思う。

こうしてことばを慎む、という文化が生まれた。

ことばには霊的な力がある。
だから逆に良いことや願いごとは、どんどん口にすればいいじゃないか。

という考え方もある。
事実、先ほどの柿本人麻呂の歌では、「大和はことあげしない国だけれども、私はあえて言う。お元気で行ってらっしゃい。あなたの旅の平安を祈ります」と結んでいる。

言霊の力は、良いほうにも悪いほうにも作用するのだ。

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2018年3月18日 (日)

沈黙と雄弁

日本語話者は筋金入りの言語実用主義者であるにもかかわらず、日本で修辞学が発達しなかったのはなぜだろう?

という素朴な疑問に対して、前々回はとりあえずふたつの仮説を考えてみた。

ひとつは、古来日本には大勢の人々を前にして弁舌をふるうという文化がなかったこと。
もうひとつは、話しことばに対する根深い懐疑が存在していること。

そして前回はひとつ目の仮説について、文化の同質性や多文化環境の視点から若干の肉付けを試みた。

その結果、自分なりになんとなく納得できる気がしたのだけれど、最後には「沈黙は金 雄弁は銀」という西欧の言語文化の伝統とは矛盾することわざが飛び出してきてかえってわけが分からない結末になってしまった。

この点をどう解釈するかという頭の痛い問題はスルーして、ふたつ目の仮説への補足に進もう。
日本語話者には話しことばに対する根深い懐疑が存在している、という点について。

早い話が、べらべらしゃべる人間は軽薄だと思われる、ということだ。
「話がうまい」という評価はまだいいとして、「口がうまい」となるとはっきり軽侮のニュアンスがある。

うっかり口車に乗せられてはならん、という戒めもある。
つまり、多くの人は話しことばに対して留保と警戒感を持っているのだ。

これに対して、無口な人、寡黙な人に対してはむしろ好感が寄せられる。
口下手だけれど、正直な人、実直な人という印象を醸し出す。
高倉健のように。

「沈黙は金 雄弁は銀」という西欧生まれのことわざはむしろ日本でこそふさわしい。

日本では何かにつけ、「自然体」という態度が尊ばれる。
ことばや態度に「わざとらしさ」が感じられれば人心は離れてゆく。

多弁を弄する人には、「ことばで事態を飾ろう、相手を丸め込んでやろう」という作為や底意を感じ取ってしまう。
つまり自然体じゃないのだ。

まことにことばの機能は両義的だ。
人に真心を伝えるためにも用いられるし、ひとをたぶらかすためにも使われる。

ただ、日本語話者は真心は必ずしもことばでなくても通じ合う、と思っている。
それに対して、ひとをたぶらかせるためにはことばは必須だ。

この感覚が、話しことばに対する警戒感の源だと思う。

どっちに転んでも、人間にとってことばは大切なものだ。
大切なものであるからこそ、むやみにもてあそんではならない。

これがわたしたちの言語倫理だ。
そう思えば、話しことばに対する「懐疑」という最初の表現は不適切だったかもしれない。

ことばに対する倫理と愛ゆえに生ずる反作用、と言えばよかったのだろうか?

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