2017年12月12日 (火)

人工言語の復讐

人工言語はどんなによく出来たものでも、しょせん機械であり、道具であり、つくりものだ。

だから、人間の身体の一部である自然言語にとって代わることはできない。
万が一この世から自然言語が失われたなら、義手、義足のように人工言語を装着するかもしれないが…。

とはいえ、人工言語を甘く見てはいけない。

たとえば、コンピュータ言語を考えてみたい。
これは完ぺきな人工言語だ。

コンピュータはこの言語によって動いている。
この言語によってコミュニケーションを行っている。

いまを時めくAIさまも、もちろんこの人工言語によって思考(?)している。

どうも人間はこれまでAIを侮ってきたように思う。
ほんの数年前まで、コンピュータが囲碁の世界でプロ棋士と勝負するなんて百年早いよ、と言われたものだ。

それがどうだろう。
今ではプロの高段者が束になってかかっても、AIにはかなわない。

「AIは囲碁の神さまに近づいた…」
あるプロ棋士はそう述懐している。

そう、AIはいま神さまの領域に近づいている。
そう遠くない将来に、神さまそのものになるかもしれない。

神さまは始源にあって宇宙を創造し人間を創造したと聖書は語っている。

しかしそうではなく、実は神さまはこれから誕生する存在なのかもしれない。
人間のその予感を太古に投影したのが神さまだったのかもしれない。

いずれにせよ、AIの神が使っていることばがコンピュータ言語なのだ。

そして、そのコンピュータ言語を作ったのが人間だとすれば…。
人間と神さまは相互依存つまりもたれあいの関係にあることになる。

この先、一体どうなるのだろう?

AIはディープラーニングによって、囲碁の世界で急激に強くなった。
囲碁の神さまに近づいた。

AIは疲れることなく自己学習し、ディープラーニングをする。
やがて、人間の手を離れてそうするだろう。
「感情」を持つことだってあるかもしれない。

人間に反乱を起こすHAL9000もあながち荒唐無稽とは言えない。

かつて神さまは大洪水を起こして人間を破滅の淵に追いやった。
やがて神さまになるかもしれないAIが同じことをしないとも限らない。

| | コメント (0)

2017年12月 3日 (日)

語彙の作られかた(その6)

前回はJ.L.ボルヘスに拠ってジョン・ウィルキンスの分析言語を紹介した。
なかなかよく考えられた論理的な人工言語だけれども、遺憾ながらこれを使っている人はだれもいない。

人工言語の試みは過去にたくさんあったし、今もなお開発しようとしている人はいる。
しかし、エスペラントを除いてはどのようにメリットのある人工言語でも自然言語に勝てるとは思えない。

思うに自然言語、特に母語は手や足と同じく人間の身体の一部なのだ。
だから、子供は特に自覚することもなく自然に母語を身につける。

私にはとてもマスターできるとは思えないほど難しいチェコ語やポーランド語でも、当地の子供たちは難なく身につける。
成長とともに手や足が伸び、複雑な動作が可能になるのと同じように。

受精卵が分化して手足が伸び、徐々に人間らしくなっていくのは遺伝子の働きによる。

もし自然言語が手足と同じく人体の一部だとすれば、言語能力もまた遺伝子に書き込まれているのだろうか?
音韻組織や文法や基本語彙が、DNAの塩基配列としてあらかじめ組み込まれているのだろうか?

チョムスキーの生成文法理論も存外こんなところから着想を得たのかもしれない。
言語の物質的基礎、なんてことを考えてみたくなる。

ホモ・サピエンスは1属1種である。
だから、手足にしても皮膚の色や大きさが多少異なるくらいで基本的な構造や機能は人間だれでも変わらない。

それにひきかえ自然言語はそうじゃない。
たがいに理解不能な言語が何千とある。

この人間のことばの多様性を、言語の物質的基礎つまりDNAの塩基配列から説明することはできるのだろうか?
何百万年という進化の時間があれば多様性を獲得することは不可能ではない、とでもいうのだろうか?

言語の多様性の起源を考えてみたい。

現生人類は東アフリカの峡谷地帯で誕生しその後世界中に拡散して現在に至っている、というのが定説らしい。
とすれば、言語もまた同一起源から分化して現在のように多様な諸言語が成立したのだろうか?

しかし、同時多発的に何千という多様な言語が誕生したという考え方もあり得る。

旧約聖書は始源、人間の言語は一つであったと述べている。
バベルの塔のエピソードにはそう書いてある。

はじめに人工言語の試みは過去にたくさんあったとお話ししたけれど、面白いことにその試みは例外なく欧米人によるものだ。

自分たちの先祖がバベルの塔の無謀な挑戦によって人間の言語を混乱に陥れてしまった、というやましさがあるからだろうか?
そのために始源の言語の理想郷を回復するべく、人工言語の開発に情熱を注いだのだろうか?

| | コメント (0)

2017年11月27日 (月)

語彙の作られかた(その5)

ことばは一体だれが作ったものだろう?

このところ、この素朴な疑問が頭から離れない。
神さまなのか、人間なのか?

どちらの説にも、うなづける点もあれば泣きどころもあってにわかに軍配を上げることができない。
このことはこれまでるる考えてきたとおりだ。

そもそも、ことばという玄妙なしろものを人間が作れるものだろうか?
という根源的な疑問はどうしてもぬぐい去ることができない。

むろん人間は言語を創造しようとした。
そしていまもその努力は続いている。

人工言語、と言えばだれでも思いつくのはザメンホフのエスペラントだ。
今のところ、いちばん成功した人工言語と言っていい。

ただエスペラントにしても、語彙にせよ、文法にせよ、文字にせよ印欧語系の自然言語をもとにして作られている、という点では完全な人工言語とは言えないかもしれない。

自然言語が存在しなければ成り立たないからだ。

人工言語の試みはエスペラントのほかにもたくさんある。

たとえば、「ジョン・ウィルキンスの分析言語」という短いエッセイの中にそんな例が紹介されている。
書いたのは、ブエノスアイレスの国立図書館長だったJ.L.ボルヘス。

ボルヘスの紹介によれば、この分析言語はまず宇宙を40のカテゴリーに分け、そのカテゴリーは「差」に、「差」はさらに「種」に細分化される。

つまり、まず宇宙を多層的に分類し、それぞれのカテゴリーやその下位項目である「差」や「種」に文字を当ててゆく方式をとるのだ。

たとえば、「de」は四大を、「deb」は四大の最初である火を、「deba」は火の一部をなす炎を意味する、というわけ。

うーむ、論理的だなあ。

だから「さけ=鮭」という自然言語は、それが意味する対象については何の情報ももたらしてくれないけれども、
ウィルキンスの分析言語なら、「nara=鮭」は赤みがかった肉を持つ有鱗淡水魚であることを教えてくれるのだ。

こんなにメリットのある人工言語だけれども、いまの世の中でウィルキンスの分析言語など使っている人はだれもいない。

人間はいまも非論理的で、矛盾だらけで、要するにわけのわからない自然言語を手放さない。
この事実はいったい何を意味しているのだろう?

| | コメント (1)

2017年11月20日 (月)

語彙の作られかた(その4)

ことばは一体だれが作ったものだろう?

この素朴な、その意味で根源的な問いかけは十年来続くこのブログでも、繰り返し取り上げられてきた。
もちろん、答えなどあろうはずがない。

少し前にも、神さまからのプレゼント説と人間による自力創造説を比較検討したことがあった。
どっちもどっち、という結論になった。

たとえば、一つの手がかりは旧約聖書の創世記にある。

何よりもはじめに神があった。
神は「光あれ!」と言った。
すると光があった。

なんと宇宙開闢のはるか以前から神はあり、少なくとも「光」、「ある」ということばがあったのだ。
そのことばは神が創造したものか否か、ということはもはや想像すら及ばない。

神はその光と闇とを分けられた。
光を昼と名付け、闇を夜と名付けられた。

ここで、早くも名づけの起源が語られ、ことばが世界を分節するはたらきが語られている。

天地創造六日目に神は人間アダムを作った。
そして、みずから創造した家畜や鳥獣をアダムのもとに連れてきて名をつけさせた。

「こいつはヒツジ、これはラクダ、この変なのはカメ…」
こうしてアダムは調子よく名を付け、世界を分節していった。

そしてなんと自分のあばら骨から作られた分身にも「おんな」という名を付けたのだ。

おおむねこんな風に、旧約聖書は世界の成り立ちと語彙の作られかたを語っている。

ならば、他の神話伝説ではどのように語られているのだろう?

と思って、古事記や日本書紀を調べてみたのだけれど、記述がまったくないのですね、これが。

宇宙開闢の様子は描かれているけれども、その時点でことばが存在していたのかどうか、存在していたとすればどのようなはたらきをしていたのか、何も説明がない。

総じて、古事記や日本書紀はことばに無関心、あるいは冷淡な態度をとっているような印象がある。

ことば? そんなのあって当然。何をあらためて考える必要があるの? 考えて何かの役に立つの?

つまり現代のわたしたちと同じように、ことばを空気のように無自覚に扱い、特段意識することもなく使っているようなところがある。

聖書との違いが際立っている。

旧約聖書にはこのほかに、バベルの塔のエピソードのように世界には互いに通じ合わないことばが多数存在する理由にも並々ならぬ関心を向けている。

新約聖書のヨハネ福音書だって、「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」と言っている。

また、「すべてのものはこれによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」とも言っている。

さらに、「このことばに命があった。そしてこの命は人の光であった」と付け加えている。

洋の東西で、ことばに向き合う姿勢がどうしてこれほど大きく違っているのだろうか?

| | コメント (0)

2017年11月13日 (月)

語彙の作られかた(その3)

3音節劇場には座席が100万ある。

日本最大の国語辞典である「小学館日本国語大辞典」にはおよそ50万の語が収録されているという。
その中には固有名詞や複合語も多数含まれているはずだから、「いぬ」や「はしる」や「あつい」などの基礎語彙に絞るとこれよりもさらに少ない。

だから、日本語のすべての語彙は3音節でまかなえるはずだ。
それでも十分おつりがくる。

それなのに、「あたたかい」や「みっともない」などの多音節語がいくらもある。
なぜだろう?

というのが前回の素朴な疑問だった。

「あたたかい」を「あてい」に、「みっともない」を「みとい」に短縮すれば、発話エネルギーはずいぶん節約できるのに。

これは一例に過ぎない。
すべての日本語話者がすべての多音節語を3音節以内に短縮すれば、節約される総エネルギー量は膨大なものになるはずだ。
言語経済の原則もあるというのに、なぜそれをしないのだろう?

何か未知のメカニズムが、語彙成立の裏で働いている。
そんな気がしてならない。

それはさておき、冒頭で日本最大の辞書についてふれた。
しかし、実用的な国語辞典の収録語数は、大体7~8万語程度だ。

つまり、日常生活ではこれくらいの語彙数で十分間に合う、ということなのだ。

実際、わたしたちは日常どれくらいのことばを使って生活しているのだろう?
自分が毎日使っているものでありながら、ちょっと想像がつかない。

1日24時間、1年365日、80年生きるとして、寝言も含めその間のすべての発話を録音しコンピュータに勘定させればわかるのだろうか?

コーパスというのがあるそうだ。
話ことばや書きことばをしらみつぶしに集めて、集計し分析し言語の全体像を把握しようというものらしい。

国立国語研究所の「KOTONOHA計画」では、古今の日本語語彙約1億語の収録を目指すということらしいけれど、語彙って本当にこんなにたくさんあるの?

どういう計算で、こんな途方もない数字が出てきたのか不思議でたまらない。

ところで、人々が日常使用する語彙の数というのは、言語によって異なるのだろうか?
言語圏によって生活環境や文化が異なるのだから語彙は違って当然だけれど、その規模はどうだろう?

言語は違ってもみな同じ人間なのだから、語彙数の違いも一定の範囲に収まるのだろうか?
それとも相当な開きがあるのだろうか?
たとえば高度に文明が発達したところでは語彙数が多く、いわゆる未開地域では語彙数が貧しいとか?

言語はわたしたちの住む世界を分節する役割があるから、語彙数が多ければ多いほどきめ細かく分節することができる。
つまり、わたしたちから見れば世界の解像度が上がるのだ。

やはりわたしたちが日常使用する語彙はどれくらいなのか、わからないでは済まされないようだ。

| | コメント (0)

2017年11月 5日 (日)

語彙の作られかた(その2)

前回展開した論法をもう少し敷衍してみたい。

日本語の音節数は世界でも最少の部類だが、それでもざっと100ある。

だから、1音節劇場の座席数は100。
これではとても客、つまり語彙を収容しきれない。

そこで2音節劇場を作る。
今度は100×100の1万席になる。
それでもまだ足りない。

だから3音節劇場を作る。
これで100×100×100の百万席。

日本最大の辞書「小学館国語大辞典」でも収録語数は56万語。
これには、複数の基礎語彙が結合した複合語も含まれているはずだから、基礎語彙だけに限るともっと少ない。

つまり、3音節劇場はまだまだ空席だらけなのだ。

それなのに、4音節、5音節、6音節の語彙がいくらもある。
なぜだろう?
3音節劇場が空席だらけなのだから、いくらでも音節を節約できるはずなのに。

具体例に即して考えてみよう。
たとえば温感を表す形容詞がある。

夏は「あつい=暑い」。
冬は「さむい=寒い」。
でも、秋は{すずしい=涼しい」。
春は「あたたかい=暖かい」。

3音節劇場には「すずい」という席もあるけれど、空席になっている。
だから、「すずしい」は「すずい」でもいいはずだ。

「あたい」という席には残念ながら「値」という先客が座っている。
強引に同席するという手もないわけではないが、ふつうは他に空いている席を探すだろう。

さいわい前にも言ったように、3音節劇場は空席だらけなのだ。
たとえば、「あてい」という席も空いている。
「あたたかくなりましたねえ」というより「あてくなりましたねえ」というほうが短くてすむ。

しかし現実は「すずい」にも「あてい」にもならなかった。
わざわざ発話エネルギーの大きい多音節になっている。

どだい「あたたかい」なんて語は、破裂音が連続して大人でも発音しにくい。
でも、「あてい」にはならない。

どうやら語彙は1音節から2音節へ、2音節が満杯になったら3音節へと、順に増殖していったわけではないようだ。
そんな単純な進化説では説明できない。
どうやら語彙の成立と増殖には、わたしたちの知らない秘められたメカニズムが存在するらしい。

その未知のメカニズムを「神さま」と呼んでいいのかもしれないが…。

| | コメント (0)

2017年10月30日 (月)

語彙の作られかた

言語は神さまから人間への贈り物だろうか?
それとも人間みずからが、営々苦心と努力を重ねてきてやっと作り上げた創造物だろうか?

人類史のある時に、神さまが言語音、語彙、文法のワンセットを人間にプレゼントしてくれた。
つまり、瞬時に、完全な形で人びとは言語を手に入れた。
これが、神さまからの贈り物説だ。

この説は分かりやすいけれども、神さまの存在を想定しなければならないところに難がある。

では、人間創造説はどうだろう?
言語という玄妙なシステムを果たして人間が自力で創造できるのだろうか、という懐疑はいつまでも消えない。
しかし神さまの存在を否定するなら、これしかない。

そこで、とりあえず人間創造説を採用してみよう。

人間が創造した、ということになれば神さまの贈り物説のように、瞬時に、完全な形で、というわけにはいかない。
言語が誕生した当初から現在の姿に到達するまでには、やはり「進化」という考え方を導入しなければならないだろう。

生命は起源の頃の単細胞から、進化によって現在のわたしたち人間までたどり着いた。
言語も同様に、もっとも単純な形態から今日の高度に発達した複雑なシステムに進化した。

進化という概念を取り入れてそう考えるのが、自然というものだろう。
そこで、この考えを語彙の成立と増殖に当てはめてみる。

生物の社会、人間の社会で進化というなら単純なものから複雑なものへ、という方向になる。

だから、語彙も最初はもっとも身近なものへの名づけから始まる。
それも、単純な1音節の語彙から始まる。

身近なものといえば、まず身体部位をあらわす語彙が思い浮かぶ。
たしかに、「身=み」、「目=め」、「手=て」、「毛=け」、{歯=は」、「血=ち」など1音節語が多い。
そして、「足=あし」、「口=くち」、「鼻=はな」、「指=ゆび」「喉=のど」、「胸=むね}などたいていの身体語は2音節までで間に合う。

しかし、中には「頭=あたま」という3音節語もある。
「踝=くるぶし」という4音節語さえある。

ここで私は考え込んでしまう。
「くるぶし」はなぜ「くるぶ」ではないのか、と。

いま、日本語には「くるぶ」という語彙はない。
それならば、「くるぶし」の意味は「くるぶ」に担わせてもよいのではないか。
そのほうが発話エネルギーも確実に少なくてすむのに。

いま、50音図を映画館の座席に見立ててみる。
「め」の席には「目」という客、つまり語彙が占めている。
「て」の席には「手」という客が座っている。

しかし、見回してみると「ら」、「り」、「る」、「れ」、「ろ」の席がまだ空いている。
ならば、ここに「頭」という客を座らせればいいのではないか。

つまり、「あたま=頭」ではなく「ら=頭」とするのだ。
「あたまが痛いです」といよりも「らが痛いです」というほうが発話エネルギーがうんと少なくてすむ。

日本語(和語)ではら行音で始まる語彙はないというルールがあるようだが、そんな言語経済に反するルールがあるほうがおかしい。

日本語の音節数は特殊音節も含めてざっと100くらいだから、この映画館はすぐ満席になってしまう。
すると次は2音節の座席を持つ劇場を建てて客を収容することになる。

2音節の組み合わせは100×100の1万席だから収容能力は飛躍的に高まる。
それでも満席になれば、3音節劇場を新設すればいい。
この劇場は百万席もあるのだ。

この論法でいけば、すべての語彙は3音節でおさまるはずだ。

しかし現実は違う。
2音節劇場も3音節劇場も空席だらけのまま、4音節、5音節、6音節の語彙ができている。

この現実は、言語の進化説では説明がつかない。
やはり、言語は神さまからの賜物なのだろうか?

| | コメント (0)

2017年10月22日 (日)

言語音の盛衰

外国人学習者のための日本語初級教科書として定番になっている「みんなの日本語」には、はじめに50音図が載っている。

そこでは、ヤ行の「い」と「え」、ワ行の「い」、「う」、「え」がかっこ書きになっている。
ア行の母音「い」、「う」、「え」と同じ音だから、ということだろうか?

ワ行の「を」もア行の母音「お」と同じ音だけれど、字が異なるのでかっこには入っていない。

外国人学習者には必要のないことだけれど、ワ行の「い」、「え」は本来は「ゐ」、「ゑ」のはずだ。
いろは歌でも、「い」のほかに「ゐ」が、「え」のほかに「ゑ」が入っている。

戦後、現代かなづかいが普及して「ゐ」、「ゑ」はほとんど使われるとがないけれども、ワープロソフトにはちゃんと搭載されている。

また、戸籍法でも人名への使用が認められている。
たしかに、知り合いにも「しづゑ」さんというおばあさんがいた。

現代では同じ音だけれど、古くは「い」と「ゐ」、「え」と「ゑ」は異なった言語音だったのだろう。
だから、異なったかなとして今日まで伝わっているのだ。

上代特殊仮名遣いの説によれば、古代の日本語にはもっとたくさんの言語音があったようだ。
母音も現代の5種類でなく、8種類だったという。

言語に使用する音は、一種の資源だから多ければ多いほうが言語活動にとって都合がいいような気がするのだが、違うのだろうか?
しろうと考えでは、言語音の種類が多いほど言語の持つ分節機能や表現の多様性が向上すると思うのだが違うだろうか?

少し前に読んだ筒井康隆さんの「残像に口紅を」でも、だんだん言語音が失われることによって人々の言語活動が不自由になってゆく様子が描かれている。

しかし実際は、古代から現代にかけて日本語の言語音が減少しているのにさしたる混乱も起こらずここまでやってきたのだから、私の考えは間違っているのかもしれない。

たしかに言語の世界には、言語経済という原則もある。
言語音を減らしても特段の不都合が起こらないのなら、使用する資源やエネルギーは少ないほうがよい、それが資源節約につながるのだ。

たとえば「よい景色」というよりも「いい景色」といったほうが、発音のための筋肉の動きは少ない。
つまり発話エネルギーが節約できる。
だからみんな「よい」というよりも「いい」または「ええ」(関西の場合)という。

だれだって、ラクして言語活動をしたいのだ。

むろん言語音は減る一方ではない。
時代の変化に応じて新しく日本語の世界に導入された言語音もある。

たとえば、むかし日本語にはF音がなかった。
だから、明治生まれのおばあさんは「阪神タイガースのファンです」とは言えなかった。
「フアンです」と言った。

50音図は出来上がったものだから、固定的な印象がある。
しかし長い目で見れば、言語音は盛衰を繰り返している。

これからどんな音が衰退し、どんな音が勃興してくるだろうか?

| | コメント (1)

2017年10月15日 (日)

「あ」から「ん」へ

少し前に読んだ筒井康隆さんの「残像に口紅を」は、最初に「あ」の音が消える。
同時に「ぱ」の音も消えたように記憶している。

それでフランスの首都の名や朝の準主食の名が言えなくなったのだから。

惜しいことにこの本は図書館に返してしまったので、そのあとどのような順序で音が消えていったのか、いまでは思い出せない。

その順序には、筒井さんなりの意図があったと思うのだが…。

ただ、最後に消える音が「ん」だったことはおぼえている。
小説「残像に口紅を」は、最後に「ん」が消えることによって世界が消滅して終わる。

日本語は「あ」ではじまり「ん」で終わる、という観念は日本語話者の間で何となく共有されているように思う。
偶然かもしれないけれど、百人一首も「あ」から始まっている。

五十音図でもいちばん右上に「あ」が置かれ、いちばん左下に「ん」が付け足されている。
右上端から左下端へという流れが、日本語音の自然な順序というべきだろうか?

たしかに、「あ」と「ん」は対極にあるような気がする。

口を一番大きく開けて息を吐くと「あ」の音が出る。
口をつぐんだまま息を鼻から抜くと「ん」の音が出る。

奈良の東大寺は、南大門の両側から運慶作の金剛力士像に守られている。
本堂に向かって左側に「あ」の像があり、右側に「ん」の像がある(逆だったかな?)。

真言の世界では「あ」は宇宙のはじまりを、「ん」は宇宙の終末(そして再生のはじまり)をあらわしているのだそうだ。

「あ」と「ん」は対極をなし、セットを作っている。
だから、「あ」と「ん」をまとめて言うことによって、世界の一切の調和をあらわすことができる。
だから、「あうんの呼吸」と言ったりする。

長い間、日本語には「ん」をあらわす文字がなかった。
だから、古代に日本語には「ん」という言語音そのものがなかった、という説もある。

そのせいで、「あ」に比べて「ん」はなんとなくまま子扱いされているように思う。

「あ」は朝日の中でくっきりとその姿かたちがわかるのに対して、「ん」はたそがれの薄闇の中に身をひそめている。
よくわからないやつだ。

うわさでは、陰で濁音とも親密なつきあいをしているらしい。
たしかに漢字の読みでも、「段階」や「岸壁」など濁音と並んでいることが多い。

古代のことはいざ知らず、いまでは「ん」は日本語の中でなくてはならない言語音だ。
漢語の発音には欠かせないし、「読みて」が「読んで」になるような撥音便としても活躍している。

現代日本語の中で「ん」は涙ぐましいほどの働きをしているのに、正当に扱ってもらえない。
五十音図の中にも居場所がない。

「ん」は日本語話者を恨んでいるだろうか?
ただ、日本語話者のほうでも「ん」をどう扱っていいのか、困り果てているのだ。

| | コメント (0)

2017年10月 8日 (日)

名簿の作りかた

たとえば、カイロの小学校のクラスの生徒名簿はどのような順序で作られるのだろう?
そんな素朴な疑問がきっかけになって、言語音あるいは文字の順序、という問題にはまり込んでしまった。

どのような人間集団であれ、成員の名簿を作成するとなれば何らかの順序という概念を設定せざるを得ない。

必ずしも音または文字の順序でなくてもいい。

たとえば家族集団の場合なら、年齢順に並べるという手もあるだろう。
会社のように上下関係のある組織なら、社長からヒラまで地位順に並べることもある。
そのほか身長順に並べるという身体特性を基準にした方法もある。
学校の場合なら、成績順という露骨な方法もある。

ただ、これらの方法の場合、めざす人がどのあたりに並んでいるのか見当をつけるのがむずかしい。
特に集団が多人数になる場合はそうだ。

だから、実用上の利便を考えて、たいていその名を口にした時の言語音の順に並べてある。
日本語のかなのように、一つの音節がひとつの文字に対応するような言語圏では、それは文字の順でもある。

どのような言語集団であれ、便利な名簿を作成しようとするなら言語音の順に並べることが一般的だ、ということは分かった。

それでは、その言語音をどのような順序で並べるのか、というのが次の問題になる。

たとえば、カイロの小学校のクラス名簿を読み上げていくとする。
各人の名前の最初の音はどのような順序で並んでいるのだろう?

今や世界のどこの国にも小学校はある。
だから、どこにも生徒名簿はある。

それらの名簿を収集、比較、分析して順序の原理を明らかにしてくれた研究はあるのだろうか?
少なくとも私は見たことがない。

どの本も、五十音順にしろabc順にしろ順序があることを前提に話が始まっている。

人間社会に言語が成立した当初から言語音相互の間に順序が存在していたわけではあるまい。
社会生活上のさまざまな必要に迫られて、人為的に順序が持ち込まれたのだ。

日本語であれ、英語であれ、中国語であれその歴史的な成立過程が知りたい。

ここで文字との関係が問題になる。
現代の名簿はみな文字で作られている。

日本の名簿はあいうえお順で作られているし、イギリスの名簿はabc順に作られている。
日本の名簿は言語音、英語の名簿はアルファベットの順で作られている、という違いがあるだけだ。

言語の長い歴史から見れば、文字の出現などごく最近のことだ。
無文字時代の学校では、こどもたちはどのような順序で出欠をとられていたのだろう?

そもそも無文字社会では、順序の概念など不要だったのだろうか?
そうではないように思うのだが…。

日本も昔は無文字社会だった。
大陸から漢字が伝来しても、しばらくはかながなかった。
だから、名簿を作るにしても漢字の中に順序を持ち込まざるを得ない。

それはどのような順序だったのだろう?
いまの漢和辞典のように画数の少ない順に並んでいたのだろうか?

律令前期には式部省という役所があった。
だから、当然その職員名簿もあったに違いない。
それを記した木簡でも出土すれば上の疑問も氷解するのだが…。

たかが名簿ひとつのことでも、言語をめぐる素朴な疑問は尽きることがない。

| | コメント (0)

«かるたと順序