2017年9月17日 (日)

言語における順序

前回は言語における順序、ということを考えてみた。
つまり、音の順序あるいは文字の順序である。

言語の世界に「順序」という秩序がなければ、たぶん社会は成り立たない。
辞書や名簿が作れない。

日本語の場合、その順序はあいうえお順、あるいはイロハ順である。
これは言語音の順序であると同時に、文字の順序でもある。
かなを発明することによって、この順序が可能になった。

英語の場合は、abcという順序がある。
ただし、これは文字の順序ではあるけれども音の順序ではない。

ローマ字は表音文字と言われるけれども、文字単体は表音文字ではなく音素文字である。
物理学でいう分子ではなく、原子なのだ。

原子が複数結合して分子となりはじめて物質の特性を表すのと同じように、複数の文字が結合してはじめて音を表すことができる。

ローマ字にしろかなにしろ文字数が少ないから、だれでもその順序はおぼえることができる。
イロハは短歌にして覚え、あいうえおは図にして覚え、abcはモーツアルトのメロディにのせておぼえている。

ローマ字は音の順序ではなく文字の順序を表しているにすぎないけれども、とにかく順序があることによって辞書や名簿を作ることができる。

では、中国語はどうだろう?
漢字という文字には順序があるのだろうか?

漢和辞典のように画数の少ない順に並べていく?
可能かもしれないが、何万とある漢字の順序は覚えられまい。

前回もお話ししたように、現在の中国語辞典ではピンインの順序になっているようだ。
つまりローマ字の順序を借りている。

それでも、ピンインが導入される以前はどうしていたのか?
ピンインを知らない人はどうするのか?

という疑問は残る。

また、韓国語ではどうだろう?
ハングルの各パーツの間には、どんな順序があるのだろう。

パーツを組み合わせたハングル単体文字は、かなのように音節を表すことができるのか?
それともローマ字のように、音素文字に過ぎないのか?

ウィキペディアによれば、アラビア文字には伝統的な配列順があるという。
とすれば、その順序に従って辞書や名簿は作られるのだろう。

でも、その配列順を見ると漢字のように画数順というわけではなさそうだ。
必ずしも簡単な文字から複雑な文字へと並べてはいない。

なるほど多くの言語で、文字の順序、場合によっては日本語のように音の順序が存在することが分かった。
じゃあ、その順序はどうやって成立したかが次の問題になる。

つまりローマ字の場合なら、なぜacbでなくabcなのか、という問題である。
どのような経過をたどってaで始まりzで終わる順序が定まったのだろう?

なぜ、「あえいおう」でなく「あいうえお」なのか?
なぜ、ア行の次にサ行でなくカ行がくるのか?

という問題である。

このような素朴な疑問に答えてくれる本は読んだことがない。
話はみなこれらの順序が当たり前という前提で始まっている。

いろは歌は空海が作った、という伝説がある。
日本語の言語音を各1音ずつ使って、意味のある短歌を作るなどという芸当は空海のような天才にしかできない、という思いから生まれた伝説だ。

明治36年に万朝報が新しいいろは歌を募集したところ、鳥啼歌というのが1等に選ばれたとのことだ。
いろはと同じように重複なく1文字(1音)づつ使って短歌ができたのだ。
しかもイロハと違って「ん」まで使っている。

鳥啼歌は今はなぜかほとんど知られていないけれど、世の中にはすごい人がいるものだ。

現在なら、AIがもうひとつの「いろは歌」を創作できるかもしれない。
それはどんな順序になるのだろう?
今から楽しみだ。

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2017年9月10日 (日)

言語音の順序

考えてみると、人間はずいぶん多彩な前言語的音声を出すことができるものだなあ。
前回の記事を書いていて、われながらつくづく感心した次第だ。

わたしたちが日ごろ用いている言語音までは、この段階から紙一重、だろうか?
人間の言語は小鳥のさえずりから生まれた、という奇想天外な説をなす人もいる。

いつかもお話ししたように、日本語の言語音は世界でも最少の部類に属する。
音節数にして100ちょっとだ。

むろん日本語話者はこれ以外の言語音を出せないわけではない。
その証拠にちゃんと英語もしゃべれる。
英語には日本語では使わない言語音がたくさんあるのだ。

にもかかわらず、日本語話者は100ちょっとの言語音でやりくりしてきた。

よく言われることだけれど、言語音の種類が少ないことで日本語には同音異義語が多いというデメリットがある。
しかし、この点を除けば少ない言語音で豊かな言語表現ができるというのは、言語経済の理にかなったことだ。

筒井康隆さんの「残像に口紅を」も言語音が少ないという日本語の特徴があってはじめて可能になった小説だ。

日本語はその少ない言語音を五十音図という形で整理してきた。
かなという表音文字ができたことで五十音図が可能になった。

つくづくよく出来たマトリクスだと思う。
日本語の言語音の体系が一目瞭然だ.

五十音図のアイデアはインドや中国からもたらされたものらしいけれども、世界の諸言語でこれに類するものがあるのだろうか?
少なくとの英語の言語音を五十音図の方式では整理することはできない。

ところで、多数の語彙がある場合、これを一定の順序で配列しなければならない場合がある。
たとえば辞書を作る場合がこれにあたる。
何らかの順序がなければ、そもそも辞書を作ることができない。

それから多数の人間で構成される集団の名簿を作る場合もこれにあたる。

こんな時に五十音順が活躍する。
本当にありがたい。

五十音順のほかに、いろは順というのもある。
この順序による配列もむかしは結構使われていたようだ。

たわむれに五十音順の名簿をいろは順に組み替えてみるのもおもしろい。
新鮮な印象が感じられるかもしれない。

ラテン文字を採用している言語圏には、アルファベット順がある。
辞書も名簿もこの順で配列されている。

ただし、アルファベット順は文字の順序であり、音の順序ではない。
だから、綴りがわからないと辞書を引くことができない。

五十音順やいろは順は文字の順序であるとともに、音の順序でもある。

では、中国語の場合はどのような配列順になっているのだろう。
手元にある中日辞書はピンインの配列になっている。
つまり、アルファベット順になっている。

しかし、ピンインによる表記がわからない場合、あるいはピンインが導入される以前はどうしていたのだろう?
ちょっと気になる。

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2017年9月 3日 (日)

人間の音声

筒井康隆さんの「残像に口紅を」を読んで、あらためて言語音の意義に関心が向かった。

世の中にはさまざまな音が存在する。
風の音、小鳥の鳴き声、爆弾が炸裂するときの轟音、小川のせせらぎ…。

わたしたちは、それらの音をたとえば擬音語などで表現する。
「彼はバタンといきおいよくドアを閉めた」などと言う。

しかし、ドアがいきおいよく閉まるときに発生するあの音は本当に「バタン」なのか?
実際に聞いてみればわかることだけれど、日本語話者が発音する「バタン」とドアが閉まるときの物理音は明らかに同じではない。
近似音ではあるけれど。

本当は異なっているにもかかわらず、同じ音として処理する。
正確な認識を犠牲にして。

そんな巧妙なすり替えが、話し手と聞き手の間に成立している。
言ってみれば、暗黙の了解である。

自然音の再生という場合だけでなく、このような巧妙なすり替え、暗黙の了解と言える現象が言語コミュニケーションの世界には数多く潜んでいるように思う。
このことはずっと以前にもお話ししたような気がするけれど…。

世の中には実にさまざまな音が存在する。
しかし人間の発声器官が出せる音は限られている。
そのギャップがこのようなすり替え、暗黒の了解を生み出しているのだろうか?

机の上にボールペンを落とす。
そのときに発生する音をことばで表現してください。

そんな課題を教室で生徒たちに出したらおもしろい。
私が生徒なら「コトリ」と表現するかもしれない。
あなたなら?

日本の教室だけでなく、中国の教室ではどうだろう?
モロッコやバスク地方の教室ではどんなふうに表記されるだろう?
妄想はどんどん広がってゆく。

いずれにせよ、人間が正確に物理音を再生することは不可能だ。
そもそも人間はそんなことをしなくていい。

「コトリ」であれ「カチャン」であれ、その音を表現しようという人間の意志が尊い。
そして、思いもかけない擬音語が飛び出すかもしれない。
そこに人間の創造性がある。

宮沢賢治はその方面で創造力を発揮した天才だった。

限りはあるけれども、人間もさまざまな音を出すことができる。
たとえば咳やくしゃみ、いびき、寝息…。
これらは動物たちも出すことができる。

そして笑い声や泣き声。
これは動物には無理、人間であることを証明する音声だ。

不意に恐ろしいものに出会った時の「きゃー」という絶叫。
ひいきの選手がホームランを打った時に思わず飛び出す「わぁー」という歓声。
思案をする時に自然に口をついて出る「うーむ」というためいきのような音声…。

思えば人間もずいぶん多彩な前言語的音声を発することができる。
前言語的レベルだから、これらの音声はそれぞれの言語圏を超えて共通しているのだろうか?

つまり、私は真夜中のトイレで不意におばけと出会ったとすれば、「ギャー」という声を出すと思うけれど、たとえばフランス人が同じシチュエーションに直面した時、同じような声を上げるかどうか、という問題である。

このような問題を学術的に研究した仕事を私は寡聞にして知らないのだけれど、もしご存知の方がいらっしゃればぜひともご教示を賜りたいと思う。

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2017年8月13日 (日)

残像に口紅を(その2)

筒井康隆さんの小説「残像に口紅を」のような試みをほかの言語でもできるだろうか?

日本語の場合、原則としてひとつのかな文字がひとつの音節をあらわしているから、世界から「あ」が消えたなら、という設定を立てやすいし、わかりやすい。

しかし他の言語、たとえば英語の場合文字と音節の関係はそれほど単純ではない。

たとえば「Macdnald」は8文字の表記だけれど、2音節だ。

つまり、筒井流の方式でやろうとすれば、世界から「Mac」が消えたなら、あるいは「Dnald」が消えたなら、と言わなければならない。

それにこの種の音節なら、日本語よりもはるかに種類が多く、複雑だ。
小説としてはとても収拾がつかないと思う。

アルファベットは音節文字ではないが、世界からアルファベットが1文字ずつ消えたなら、という仮定にすればわかりやすい。

ただし、ローマ字のアルファベットは26文字しかないから、すぐに世界が消えてしまいかねない。
たとえば、世界から「a」が消えたなら、という仮定を置いただけで、たちどころに行き詰まってしまうかもしれない。

いずれにせよ、小説に仕立てるのは難しそうだ。

中国語ならどうだろう?

漢字はかな文字やアルファベットとは比べものにならないほど種類が多いから、多少文字が消えても、その文字があらわす意味や発音が消えても、その体系はびくともしないかもしれない。

筒井流でやるとすれば、世界の終わりまでたどり着くまでには大長編、大河小説になるに違いない。
その分、退屈になるおそれは十分にある。

このように、世界のさまざまな言語について、その文字や表記の特性、意味や発音の体系を筒井流小説になじむかどうか、という視点から分類してみるのもおもしろい。

幸か不幸か、日本語は世界の主要言語では珍しく音節文字を使っている。
しかも、その音節の種類は世界でも最少レベルだ。

つまり、「残像に口紅を」は日本語であればこそ辛くも成立し小説なのだ。

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2017年8月 6日 (日)

残像に口紅を

筒井康隆さんの「残像に口紅を」(1989年刊)は、日本語の言語音がひとつづつ世界から消えてゆく、という実験的な小説だ。

ふつう用いられる現代日本語の言語音は、50音図に載っている音に濁音、半濁音、拗音、撥音、促音などの特殊音を加えてざっと100あまり。

それがひとつづつ世界から消えてゆくとどうなるのか?

小説では、最初に「あ」と「ぱ」が消える。
すると、「あ」や「ぱ」の音を含んだ語彙が使えなくなる。

たとえば、花の都とうたわれたフランスの首都が言えなくなる。
また、洋風の朝食につきものの小麦粉を原料とする半主食の名前が言えなくなる。

主人公の奥さんは夫に呼びかけるとき「あなた」と言えないので、「もしもし」という電話のような言い方になる。
滑稽でもの悲しい。

語彙が使えなくなるだけではない。
そのことばが指し示していた存在そのものが消えてなくなる。

かつて街角には、小麦粉を原料とする半主食を販売する専門店がいくつもあった。
しかし今はその看板から名前が消えただけでなく、陳列ケースも空っぽになっている。
わずかにクロワッサンがさびしく残っているだけ…。

また、主人公の妻は名前に「く」が含まれていた。
したがって「く」の音が消えた時、妻も消えてしまった。

こうして、音とその音を含む語彙で指示される存在がひとつづつ消えてゆく。
読んでいて、この先この小説どうなってしまうのだろう、と思ってしまう。

文庫本で300ページあまりの長編だけれど、真ん中あたりで20ほどの音が失われている。
つまり日本語の言語音のうち、5分の1ほどが使えなくなっている。

後半になって、主人公の自叙伝めいた部分が登場するけれど、すでに「ち」が消えているので「父」という語が使えない。
だから、「男親」と言い替える。

しかし、そのうち「や」も消えてしまう。
すると今度は、「おれを生んだ男」と言い替える。

こんな具合なのだ。

苦肉の策とも言うべきこんな言い替えがわりと効いていて、中盤あたりまでは5分の1もの音が消失していることにあまり気が付かない。

日本語は80音くらいでもけっこう表現できるものだな、と再認識した次第だ。

しかし…。

終盤が近い第3部は50音が失われたところから始まる。
すでに、半分の音が消えてしまった。

さすがにここまでくると、言い替えも限界だ。
表現もわけがわからなくなってくる。
逆に言えば、筒井康隆らしくなってきたと言えるかもしれない。

この調子で進んで、さて最後に消える音は何だろう?
これはみなさんの楽しみのために、あえて言わないでおこう。

ともあれ、この音が消えるとともに世界が消え小説も終わる。

現実にはあり得ない思考実験小説だけれど、ことばと存在の関係、言語音の数と表現可能性の関係についてあれこれ考えさせられた。

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2017年7月31日 (月)

「ん」の氾濫

11年前の「特殊音の活躍」という記事には、次のような文例が提出されていた。

「わからない」が「わかんない」に。
「お金、くれない?」が「お金、くんない?」に。
「お風呂、まだ沸かないの?」が「お風呂、まだ沸かんの?」に。

ローマ字表記をすればわかるけれど、「ん」に音変化することで1文字ないし2文字が省略される。
その分、発話に要するエネルギーが節約されるのだ。

これらの短縮表現は比較的くだけた場面で使われることが多い。
事情が許すかぎり少しでも発話に要するエネルギーを節約したい、という人間の欲求がいかに強いかを示す例だと思う。

だから、11年前は「特殊音の活躍」に続いて「発話エネルギー節約術」のシリーズに進んでいったのだ。

前回もお話ししたように、古代の日本語には「ん」は存在しなかった。
漢字の読みのために新たに開発された音だった。
たとえば「氾濫=はんらん」という漢語を発音するために「ん」が必要だった。

だから、百人一首には「ん」は登場しない。(「む」を「ん」と発音する場合は別)

しかしその後、「ん」の発話エネルギー節約効果が日本語話者の間で認識されるに及んで、漢字の読みにとどまらず広く日本語表現の中に取り入れられるようになった。

この間の事情は、「では」が「じゃ」に変化するように拗音の分野でも同様だ。

「ん」や拗音は、はじめ漢字の読みのために開発され、そのために特殊音と位置づけられるようになったのだけれど、今やすっかり普遍的な音として日本語の世界に定着してしまった。

いや、定着どころか人々の発話エネルギー節約への欲望のために、いまや氾濫していると言っていい。

わずかに「ん」の氾濫を押しとどめているのは書きことばの世界くらいだろうか?
書きことばの場合は発話エネルギーが問題にならないから、「わかんない」や「くんない?」や「沸かん」という表現は基本的には用いられない。

しかし、今後話しことばの影響が書きことばに及ぶことは十分考えられる。
ケータイやスマホの世界では早くもその兆候があらわれている。

今でこそ、書きことばが孤軍奮闘して「ん」の氾濫を押しとどめているけれど安閑とはしていられない。
いつ堤防が決壊して、「ん」の氾濫が書きことばの世界に及んでくるかわからない。

「ん」の誕生、進出、氾濫ひとつをとっても、万葉や平安の世に比べ日本語の世界の風景はすっかり変わってしまった。
このあと千年、日本語はどう変わっていくのだろう?
ふとそんなことを考えてしまう。

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2017年7月23日 (日)

「ん」の進出

喫茶店「ん」は何軒もあるけれど、日本語では「ん」は語頭に立たない。

だから、何らかの音節に後続する形をとる。

試みに、あ行音にくっつけてみよう。

「あ」に「ん」をくっつけて「あん」。
案内や公安など。

「い」に「ん」をくっつけて「いん」。
印象や病院など。

「う」に「ん」をくっつけて「うん」。
蘊蓄や幸運など。

「え」に「ん」をくっつけて「えん」。
円熟や公園など。

「お」に「ん」をくっつけて「おん」。
音楽や低温など。

つづいて、か行音にくっつけてみよう。

「か」に「ん」をくっつけて「かん」。
漢字や交換など。

「き」に「ん」をくっつけて「きん」。
近海や通勤など。

「く」に「ん」をくっつけて「くん」。
君主や教訓など。

「け」に「ん」をくっつけて「けん」。
健康や債券など。

「こ」に「ん」をくっつけてこ「こん」。
混乱や貧困など。

以下同じである。

これらの音を聞いて思い浮かべるのは漢語ばかりである。
「あん」や「かん」と聞いても、和語が浮かばない。

もともと「ん」は古来の日本語にはなく、漢字を読みこなすために開発された言語音だから当然と言えば当然だけれど。

このように漢字と連動して生まれた「ん」だけれど、発音の便宜のために重宝されて漢語以外の分野にも進出するようになった。

たとえば、「読みて」が「読んで」、「踏みつける」が「踏んづける」になるような撥音便。
それから音便ではないが、「ありませぬ」が「ありません」になるような音変化。
さらに最近の若い人は「なになの?」を「なんなん?」と言うようになった。

母音が脱落してもコミュニケーション上支障がないなら流れがそちらに向かうのもやむをえぬ(やむをえん?)。

これを書いていて、ずいぶん前に同じような記事を書いたことを思い出した。
調べてみると、「特殊音の活躍」というタイトルで2006年1月28日と2月4日の2回、このブログにアップしていた。
なつかしいなあ。

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2017年7月16日 (日)

最後の音

日本語の50音図の中でもっとも重要な文字あるいは音は何だろう?
少し前そんなナンセンスな問いを発したことがある。

その時、私はたわむれの答えとして「な」をあげた。
「な」は人間存在に直結した音だから、という理由でそう答えた。

いやいや、そうじゃない。
やはり50音図劈頭にあらわれる「あ」こそ最重要だ、という意見を述べる人もあった。
なるほどこれも傾聴すべき意見ではある。

では、50音図の最後につけたしのように置かれている「ん」はどうだろう?

「ん」は日本語の言語音の中で特殊な位置を占めているので扱いがむずかしい。

50音図の最後に置かれてはいるけれど、本当は50音図のマトリクスからは超然としている。
置く場所がないので、しかたなく最後に付け足した、というのが真相だと思う。
その証拠に、いろは歌には「ん」はあらわれない。

モーラ的には一つの単位だけれど、音節としては「ん」単独では成り立たない。
音声学的にも「ん」はさまざまなバリエーションがあるそうだ。

どうも一筋縄ではいきそうもない。
なんとなくうさんくさい。

そもそも「ん」をなぜ撥音というのだろう?
どこが撥ねるのだ?

という疑問があって調べてみると、「ん」や「ン」の文字が撥ねた形をしているからだそうだ。
促音などと違って、発音の特性とは何の関係もない。
何だかばかにされたような気分だ。

先にもお話ししたように、「ん」は日本語の音韻システムの中で特殊な位置を占めている。
開音節言語である日本語の中では特異な存在である。

そして、ちょっぴりとぼけたところがある。
そのために、ばかにされたような気分になることがある。

日本語では、「ん」は語頭に立たない。
しかし、ネットで調べてみると「ん」という名前の喫茶店がある。
しかも、チェーンなのか何軒もある。

お店に電話をすると、「はい、んでございます!」という返事が返ってくるのだろうか?
なんとなくとぼけた情景を想像してしまう。

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2017年7月 9日 (日)

1音節語の関西方言(その3)

「1音節語の関西方言」というタイトルでこのブログにはじめて投稿したのは、2005年8月14日のことだった。
ご興味のある方は、バックナンバーを検索いただきたい。

あれからもう12年!

日本語の広大な世界をめぐりめぐって、結局もとの場所に戻ってきた。
いささかの感慨もなくはない。

あのときも、関西方言における声調類似の現象について同じようなことをお話しした。
12年もかかって、われながらあまり進歩がない。

ただ、あのときは気づかなかったこともあるので、ここで補足しておきたい。

前回、関西方言における声調類似の現象には、上昇調と下降調があることをお話しした。

たとえば、「歯」や「毛」は「はあ」、「けえ」と伸ばして発音し、高低の下降調になる。
逆に「目」や「木」は、「めえ」や「きい」と伸ばして発音し、低高の上昇調になる。

しかしこのほかに、音の高さの変化がない平行調もある。
たとえば、「血」は「ちい」と伸ばすけれども、高低の変化のない平行調になる。

それから、しばらく前に話題になった「名」はどうだろう?

これは関西方言でも、そもそも「なあ」と伸ばさないのではないだろうか?
「名」は関西方言でも「な」であると思う。

関西方言母語話者のみなさん、どうだろう?
かりに「なあ」伸ばしたとしても、平行調になるのではないか?

1音節語でも伸ばす場合と伸ばさない場合。
そして、伸ばす場合でも上昇調、下降調、平行調の3種類のパターンが認められる…。

これが、1音節語の関西方言にみられる声調類似の現象のあらましだ。

このような特徴的な現象がどのような歴史的経過を経て成立したのか、とても気になる。
前回は最後のところで中国大陸との地理的近さを指摘して中国語の影響をほのめかしたのだが、本当のところはわからない。
どなたかご教示いただけないだろうか?

ところで、数行上で「気になる」という表現を用いた。
この「気」も、日本語で非常によく用いられる1音節語だ。

「気」も関西方言のルールに従っている。

「気つけや あんたのことやで そのカバン」
という標語を、関西の人に発音してもらうと「きい」と伸ばす。
声調的には、「ちい」と同じく平行調である。

「気」は同じ1音節語でも、「歯」や「目」や「血」と違って字音語である。
つまり、中国から渡ってきたことばである。

それでも、関西方言の中に入ったときはそのルールに従わざるを得ない。
方言ルールの強力さをあらためて感じる。

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2017年7月 2日 (日)

1音節語の関西方言(その2)

日本語の五十音図の中で、もっとも重要な音または文字は「な」である。

前回はそんなへんな宣言をした。
その理由として、意味上、音声上の事実をいくつか挙げたけれども、われながらこじつけめいているような気もする。
だから、この宣言にはそれほどこだわらない。

人によっては、図の劈頭に位置する「あ」がもっとも重要である、とお考えかもしれない。
そもそも宣言自体ナンセンスだから、奇説、珍説がいろいろあっていい。
そのほうがおもしろい。

ただ、前回もお話ししたように、「な=名」だけでなく「ち=血}、「て=手」、「め=目」、「た=田」、「き=木」など、1音節の日本語は人間存在にきわめて密着した重要かつ基礎的な語が多い、という事実にはみなさん納得していただけることと思う。

世界の諸語でも人を指すことばつまり人称代名詞はたいてい1音節語である。
1音節語は人間存在に直結している、というのは人類共通の事実だと思う。

系統発生的な視点から考えても、自然の成り行きとして人類の言語は1音節語から始まった、と言ってそれほど見当はずれではあるまい。

ただ、それほど重要な役割を果たしている1音節語だけれども、音声言語の中ではその位置が不安定である、という難点がある。

つまり、短かすぎて寸足らずの印象があるのだ。
尻切れトンボのように、ことばの流れの中でおさまりが悪いのだ。 

「な」とほとんど同じ意味の3音節語「なまえ」がよく使われるのも、この難点を克服するための知恵なのかもしれない。

私の地元、関西の方言では音を伸ばすという方法でこの難点を克服しようとしている。

つまり、「め=目」が「めえ」になり、「て=手」が「てえ」になり「は=歯」が「はあ」になる、というやり方である。

この現象を1モーラが伸びて2モーラ化すると考えるか、語尾に母音が付加されて2音節化すると考えるか、解釈の分かれるところだけれども、いずれにせよ関西方言の大きな特徴である。

そして、さらに興味深いことは、このように音が伸びるとき「目=めえ」が低高の上昇調になるのに対して、「歯=はあ」は高低の下降調になることだ。

もし「はあ」が「目」と同じように上昇調になれば、「はあ?」と聞き返す際の間投詞になってしまう。
つまり意味が異なることになり、中国語における声調と同じ効果を果たしていることになる。

関西は関東に比べて中国に近い分、声調言語の特徴が浸透したのだろうか?

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