2017年11月13日 (月)

語彙の作られかた(その3)

3音節劇場には座席が100万ある。

日本最大の国語辞典である「小学館日本国語大辞典」にはおよそ50万の語が収録されているという。
その中には固有名詞や複合語も多数含まれているはずだから、「いぬ」や「はしる」や「あつい」などの基礎語彙に絞るとこれよりもさらに少ない。

だから、日本語のすべての語彙は3音節でまかなえるはずだ。
それでも十分おつりがくる。

それなのに、「あたたかい」や「みっともない」などの多音節語がいくらもある。
なぜだろう?

というのが前回の素朴な疑問だった。

「あたたかい」を「あてい」に、「みっともない」を「みとい」に短縮すれば、発話エネルギーはずいぶん節約できるのに。

これは一例に過ぎない。
すべての日本語話者がすべての多音節語を3音節以内に短縮すれば、節約される総エネルギー量は膨大なものになるはずだ。
言語経済の原則もあるというのに、なぜそれをしないのだろう?

何か未知のメカニズムが、語彙成立の裏で働いている。
そんな気がしてならない。

それはさておき、冒頭で日本最大の辞書についてふれた。
しかし、実用的な国語辞典の収録語数は、大体7~8万語程度だ。

つまり、日常生活ではこれくらいの語彙数で十分間に合う、ということなのだ。

実際、わたしたちは日常どれくらいのことばを使って生活しているのだろう?
自分が毎日使っているものでありながら、ちょっと想像がつかない。

1日24時間、1年365日、80年生きるとして、寝言も含めその間のすべての発話を録音しコンピュータに勘定させればわかるのだろうか?

コーパスというのがあるそうだ。
話ことばや書きことばをしらみつぶしに集めて、集計し分析し言語の全体像を把握しようというものらしい。

国立国語研究所の「KOTONOHA計画」では、古今の日本語語彙約1億語の収録を目指すということらしいけれど、語彙って本当にこんなにたくさんあるの?

どういう計算で、こんな途方もない数字が出てきたのか不思議でたまらない。

ところで、人々が日常使用する語彙の数というのは、言語によって異なるのだろうか?
言語圏によって生活環境や文化が異なるのだから語彙は違って当然だけれど、その規模はどうだろう?

言語は違ってもみな同じ人間なのだから、語彙数の違いも一定の範囲に収まるのだろうか?
それとも相当な開きがあるのだろうか?
たとえば高度に文明が発達したところでは語彙数が多く、いわゆる未開地域では語彙数が貧しいとか?

言語はわたしたちの住む世界を分節する役割があるから、語彙数が多ければ多いほどきめ細かく分節することができる。
つまり、わたしたちから見れば世界の解像度が上がるのだ。

やはりわたしたちが日常使用する語彙はどれくらいなのか、わからないでは済まされないようだ。

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2017年11月 5日 (日)

語彙の作られかた(その2)

前回展開した論法をもう少し敷衍してみたい。

日本語の音節数は世界でも最少の部類だが、それでもざっと100ある。

だから、1音節劇場の座席数は100。
これではとても客、つまり語彙を収容しきれない。

そこで2音節劇場を作る。
今度は100×100の1万席になる。
それでもまだ足りない。

だから3音節劇場を作る。
これで100×100×100の百万席。

日本最大の辞書「小学館国語大辞典」でも収録語数は56万語。
これには、複数の基礎語彙が結合した複合語も含まれているはずだから、基礎語彙だけに限るともっと少ない。

つまり、3音節劇場はまだまだ空席だらけなのだ。

それなのに、4音節、5音節、6音節の語彙がいくらもある。
なぜだろう?
3音節劇場が空席だらけなのだから、いくらでも音節を節約できるはずなのに。

具体例に即して考えてみよう。
たとえば温感を表す形容詞がある。

夏は「あつい=暑い」。
冬は「さむい=寒い」。
でも、秋は{すずしい=涼しい」。
春は「あたたかい=暖かい」。

3音節劇場には「すずい」という席もあるけれど、空席になっている。
だから、「すずしい」は「すずい」でもいいはずだ。

「あたい」という席には残念ながら「値」という先客が座っている。
強引に同席するという手もないわけではないが、ふつうは他に空いている席を探すだろう。

さいわい前にも言ったように、3音節劇場は空席だらけなのだ。
たとえば、「あてい」という席も空いている。
「あたたかくなりましたねえ」というより「あてくなりましたねえ」というほうが短くてすむ。

しかし現実は「すずい」にも「あてい」にもならなかった。
わざわざ発話エネルギーの大きい多音節になっている。

どだい「あたたかい」なんて語は、破裂音が連続して大人でも発音しにくい。
でも、「あてい」にはならない。

どうやら語彙は1音節から2音節へ、2音節が満杯になったら3音節へと、順に増殖していったわけではないようだ。
そんな単純な進化説では説明できない。
どうやら語彙の成立と増殖には、わたしたちの知らない秘められたメカニズムが存在するらしい。

その未知のメカニズムを「神さま」と呼んでいいのかもしれないが…。

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2017年10月30日 (月)

語彙の作られかた

言語は神さまから人間への贈り物だろうか?
それとも人間みずからが、営々苦心と努力を重ねてきてやっと作り上げた創造物だろうか?

人類史のある時に、神さまが言語音、語彙、文法のワンセットを人間にプレゼントしてくれた。
つまり、瞬時に、完全な形で人びとは言語を手に入れた。
これが、神さまからの贈り物説だ。

この説は分かりやすいけれども、神さまの存在を想定しなければならないところに難がある。

では、人間創造説はどうだろう?
言語という玄妙なシステムを果たして人間が自力で創造できるのだろうか、という懐疑はいつまでも消えない。
しかし神さまの存在を否定するなら、これしかない。

そこで、とりあえず人間創造説を採用してみよう。

人間が創造した、ということになれば神さまの贈り物説のように、瞬時に、完全な形で、というわけにはいかない。
言語が誕生した当初から現在の姿に到達するまでには、やはり「進化」という考え方を導入しなければならないだろう。

生命は起源の頃の単細胞から、進化によって現在のわたしたち人間までたどり着いた。
言語も同様に、もっとも単純な形態から今日の高度に発達した複雑なシステムに進化した。

進化という概念を取り入れてそう考えるのが、自然というものだろう。
そこで、この考えを語彙の成立と増殖に当てはめてみる。

生物の社会、人間の社会で進化というなら単純なものから複雑なものへ、という方向になる。

だから、語彙も最初はもっとも身近なものへの名づけから始まる。
それも、単純な1音節の語彙から始まる。

身近なものといえば、まず身体部位をあらわす語彙が思い浮かぶ。
たしかに、「身=み」、「目=め」、「手=て」、「毛=け」、{歯=は」、「血=ち」など1音節語が多い。
そして、「足=あし」、「口=くち」、「鼻=はな」、「指=ゆび」「喉=のど」、「胸=むね}などたいていの身体語は2音節までで間に合う。

しかし、中には「頭=あたま」という3音節語もある。
「踝=くるぶし」という4音節語さえある。

ここで私は考え込んでしまう。
「くるぶし」はなぜ「くるぶ」ではないのか、と。

いま、日本語には「くるぶ」という語彙はない。
それならば、「くるぶし」の意味は「くるぶ」に担わせてもよいのではないか。
そのほうが発話エネルギーも確実に少なくてすむのに。

いま、50音図を映画館の座席に見立ててみる。
「め」の席には「目」という客、つまり語彙が占めている。
「て」の席には「手」という客が座っている。

しかし、見回してみると「ら」、「り」、「る」、「れ」、「ろ」の席がまだ空いている。
ならば、ここに「頭」という客を座らせればいいのではないか。

つまり、「あたま=頭」ではなく「ら=頭」とするのだ。
「あたまが痛いです」といよりも「らが痛いです」というほうが発話エネルギーがうんと少なくてすむ。

日本語(和語)ではら行音で始まる語彙はないというルールがあるようだが、そんな言語経済に反するルールがあるほうがおかしい。

日本語の音節数は特殊音節も含めてざっと100くらいだから、この映画館はすぐ満席になってしまう。
すると次は2音節の座席を持つ劇場を建てて客を収容することになる。

2音節の組み合わせは100×100の1万席だから収容能力は飛躍的に高まる。
それでも満席になれば、3音節劇場を新設すればいい。
この劇場は百万席もあるのだ。

この論法でいけば、すべての語彙は3音節でおさまるはずだ。

しかし現実は違う。
2音節劇場も3音節劇場も空席だらけのまま、4音節、5音節、6音節の語彙ができている。

この現実は、言語の進化説では説明がつかない。
やはり、言語は神さまからの賜物なのだろうか?

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2017年10月22日 (日)

言語音の盛衰

外国人学習者のための日本語初級教科書として定番になっている「みんなの日本語」には、はじめに50音図が載っている。

そこでは、ヤ行の「い」と「え」、ワ行の「い」、「う」、「え」がかっこ書きになっている。
ア行の母音「い」、「う」、「え」と同じ音だから、ということだろうか?

ワ行の「を」もア行の母音「お」と同じ音だけれど、字が異なるのでかっこには入っていない。

外国人学習者には必要のないことだけれど、ワ行の「い」、「え」は本来は「ゐ」、「ゑ」のはずだ。
いろは歌でも、「い」のほかに「ゐ」が、「え」のほかに「ゑ」が入っている。

戦後、現代かなづかいが普及して「ゐ」、「ゑ」はほとんど使われるとがないけれども、ワープロソフトにはちゃんと搭載されている。

また、戸籍法でも人名への使用が認められている。
たしかに、知り合いにも「しづゑ」さんというおばあさんがいた。

現代では同じ音だけれど、古くは「い」と「ゐ」、「え」と「ゑ」は異なった言語音だったのだろう。
だから、異なったかなとして今日まで伝わっているのだ。

上代特殊仮名遣いの説によれば、古代の日本語にはもっとたくさんの言語音があったようだ。
母音も現代の5種類でなく、8種類だったという。

言語に使用する音は、一種の資源だから多ければ多いほうが言語活動にとって都合がいいような気がするのだが、違うのだろうか?
しろうと考えでは、言語音の種類が多いほど言語の持つ分節機能や表現の多様性が向上すると思うのだが違うだろうか?

少し前に読んだ筒井康隆さんの「残像に口紅を」でも、だんだん言語音が失われることによって人々の言語活動が不自由になってゆく様子が描かれている。

しかし実際は、古代から現代にかけて日本語の言語音が減少しているのにさしたる混乱も起こらずここまでやってきたのだから、私の考えは間違っているのかもしれない。

たしかに言語の世界には、言語経済という原則もある。
言語音を減らしても特段の不都合が起こらないのなら、使用する資源やエネルギーは少ないほうがよい、それが資源節約につながるのだ。

たとえば「よい景色」というよりも「いい景色」といったほうが、発音のための筋肉の動きは少ない。
つまり発話エネルギーが節約できる。
だからみんな「よい」というよりも「いい」または「ええ」(関西の場合)という。

だれだって、ラクして言語活動をしたいのだ。

むろん言語音は減る一方ではない。
時代の変化に応じて新しく日本語の世界に導入された言語音もある。

たとえば、むかし日本語にはF音がなかった。
だから、明治生まれのおばあさんは「阪神タイガースのファンです」とは言えなかった。
「フアンです」と言った。

50音図は出来上がったものだから、固定的な印象がある。
しかし長い目で見れば、言語音は盛衰を繰り返している。

これからどんな音が衰退し、どんな音が勃興してくるだろうか?

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2017年10月15日 (日)

「あ」から「ん」へ

少し前に読んだ筒井康隆さんの「残像に口紅を」は、最初に「あ」の音が消える。
同時に「ぱ」の音も消えたように記憶している。

それでフランスの首都の名や朝の準主食の名が言えなくなったのだから。

惜しいことにこの本は図書館に返してしまったので、そのあとどのような順序で音が消えていったのか、いまでは思い出せない。

その順序には、筒井さんなりの意図があったと思うのだが…。

ただ、最後に消える音が「ん」だったことはおぼえている。
小説「残像に口紅を」は、最後に「ん」が消えることによって世界が消滅して終わる。

日本語は「あ」ではじまり「ん」で終わる、という観念は日本語話者の間で何となく共有されているように思う。
偶然かもしれないけれど、百人一首も「あ」から始まっている。

五十音図でもいちばん右上に「あ」が置かれ、いちばん左下に「ん」が付け足されている。
右上端から左下端へという流れが、日本語音の自然な順序というべきだろうか?

たしかに、「あ」と「ん」は対極にあるような気がする。

口を一番大きく開けて息を吐くと「あ」の音が出る。
口をつぐんだまま息を鼻から抜くと「ん」の音が出る。

奈良の東大寺は、南大門の両側から運慶作の金剛力士像に守られている。
本堂に向かって左側に「あ」の像があり、右側に「ん」の像がある(逆だったかな?)。

真言の世界では「あ」は宇宙のはじまりを、「ん」は宇宙の終末(そして再生のはじまり)をあらわしているのだそうだ。

「あ」と「ん」は対極をなし、セットを作っている。
だから、「あ」と「ん」をまとめて言うことによって、世界の一切の調和をあらわすことができる。
だから、「あうんの呼吸」と言ったりする。

長い間、日本語には「ん」をあらわす文字がなかった。
だから、古代に日本語には「ん」という言語音そのものがなかった、という説もある。

そのせいで、「あ」に比べて「ん」はなんとなくまま子扱いされているように思う。

「あ」は朝日の中でくっきりとその姿かたちがわかるのに対して、「ん」はたそがれの薄闇の中に身をひそめている。
よくわからないやつだ。

うわさでは、陰で濁音とも親密なつきあいをしているらしい。
たしかに漢字の読みでも、「段階」や「岸壁」など濁音と並んでいることが多い。

古代のことはいざ知らず、いまでは「ん」は日本語の中でなくてはならない言語音だ。
漢語の発音には欠かせないし、「読みて」が「読んで」になるような撥音便としても活躍している。

現代日本語の中で「ん」は涙ぐましいほどの働きをしているのに、正当に扱ってもらえない。
五十音図の中にも居場所がない。

「ん」は日本語話者を恨んでいるだろうか?
ただ、日本語話者のほうでも「ん」をどう扱っていいのか、困り果てているのだ。

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2017年10月 8日 (日)

名簿の作りかた

たとえば、カイロの小学校のクラスの生徒名簿はどのような順序で作られるのだろう?
そんな素朴な疑問がきっかけになって、言語音あるいは文字の順序、という問題にはまり込んでしまった。

どのような人間集団であれ、成員の名簿を作成するとなれば何らかの順序という概念を設定せざるを得ない。

必ずしも音または文字の順序でなくてもいい。

たとえば家族集団の場合なら、年齢順に並べるという手もあるだろう。
会社のように上下関係のある組織なら、社長からヒラまで地位順に並べることもある。
そのほか身長順に並べるという身体特性を基準にした方法もある。
学校の場合なら、成績順という露骨な方法もある。

ただ、これらの方法の場合、めざす人がどのあたりに並んでいるのか見当をつけるのがむずかしい。
特に集団が多人数になる場合はそうだ。

だから、実用上の利便を考えて、たいていその名を口にした時の言語音の順に並べてある。
日本語のかなのように、一つの音節がひとつの文字に対応するような言語圏では、それは文字の順でもある。

どのような言語集団であれ、便利な名簿を作成しようとするなら言語音の順に並べることが一般的だ、ということは分かった。

それでは、その言語音をどのような順序で並べるのか、というのが次の問題になる。

たとえば、カイロの小学校のクラス名簿を読み上げていくとする。
各人の名前の最初の音はどのような順序で並んでいるのだろう?

今や世界のどこの国にも小学校はある。
だから、どこにも生徒名簿はある。

それらの名簿を収集、比較、分析して順序の原理を明らかにしてくれた研究はあるのだろうか?
少なくとも私は見たことがない。

どの本も、五十音順にしろabc順にしろ順序があることを前提に話が始まっている。

人間社会に言語が成立した当初から言語音相互の間に順序が存在していたわけではあるまい。
社会生活上のさまざまな必要に迫られて、人為的に順序が持ち込まれたのだ。

日本語であれ、英語であれ、中国語であれその歴史的な成立過程が知りたい。

ここで文字との関係が問題になる。
現代の名簿はみな文字で作られている。

日本の名簿はあいうえお順で作られているし、イギリスの名簿はabc順に作られている。
日本の名簿は言語音、英語の名簿はアルファベットの順で作られている、という違いがあるだけだ。

言語の長い歴史から見れば、文字の出現などごく最近のことだ。
無文字時代の学校では、こどもたちはどのような順序で出欠をとられていたのだろう?

そもそも無文字社会では、順序の概念など不要だったのだろうか?
そうではないように思うのだが…。

日本も昔は無文字社会だった。
大陸から漢字が伝来しても、しばらくはかながなかった。
だから、名簿を作るにしても漢字の中に順序を持ち込まざるを得ない。

それはどのような順序だったのだろう?
いまの漢和辞典のように画数の少ない順に並んでいたのだろうか?

律令前期には式部省という役所があった。
だから、当然その職員名簿もあったに違いない。
それを記した木簡でも出土すれば上の疑問も氷解するのだが…。

たかが名簿ひとつのことでも、言語をめぐる素朴な疑問は尽きることがない。

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2017年9月30日 (土)

かるたと順序

読み手が文を読み上げそれに対応した札を取り合うゲーム、という点では百人一首もかるたの一種だと思う。

小さな子にとっては百人一首はやや難しいので、「犬も歩けば棒にあたる」などのようなやさしいことわざを読み上げ、その様子をあらわした絵と「い」の文字を配した札を取り合う、というやり方に変形されている。

子供たちにとって、遊びながら文字を学ぶことができるのもいいところだ。

読み上げるべき短文と絵や文字の組み合わせには無数のバリエーションがある。
子供たちの年齢や興味、シチュエーションに応じてそれにふさわしいセットが選ばれる。

このようなかるたは普通「いろはかるた」と呼ばれている。

「あいうえおかるた」あるいは「かななるた」でもいいと思うのだけれど、なぜかかるたの世界では「いろは」が大きな顔をしている。

辞書や名簿の順序など多くの分野では五十音順がいろは順を圧倒しているのに、かるたの世界ではいろはがいまだ健在だ。

なぜだろう?
不思議な現象だと思う。

いろは順は、そもそもそれ自体、歌になっているから文学的だ。
それが遊びの世界では好まれるのかもしれない。

そこへ行くと、「あいうえお」は分析的だ。
母音と子音の結合関係が一目瞭然である。
どこか元素の周期律表を連想させるところがある。

つまり科学的、理科的なのだ。
そんなところが遊びの世界では冷たい印象を与え敬遠されるのだろう。

かるたはポルトガル語のカルタ、英語のカードから来た外来語だという。
ならば、西欧にも音声言語と文字言語を組み合わせたカードゲームがあるのだろうか?

西欧のカードゲームと言えば、ポーカーやブリッジなどもっぱら数字と図形の組み合わせをテーマにしたゲームばかりが思い浮かぶ。

たとえば、Aの文字から始まる短い詩やことわざを読み上げて、Aのカードを取り合うゲームなんてあるのだろうか?

百人一首のように、音声言語とりわけ詩と文字との組み合わせをテーマにしたカードゲームは世界でも稀有なのではないかと思うのだが…。  

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2017年9月23日 (土)

百人一首の順序

百人一首という遊びがある。
藤原定家はゲームのために撰したのではないから、遊びというより歌集といったほうがいいかもしれないが…。

わが家でも、子供が小さい頃は正月によく遊んだものだ。

この百人一首にも歌の配列に順序がある。
おおよそ時代順に並べられているという。

一番歌は天智天皇。
秋の田の 刈穂の庵の 苫をあらみ わが衣手は 露に濡れつつ

そして、百番歌は順徳天皇。
ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり

偶然だろうけれど、百人一首も「あ」から始まっている。

たわむれに百首の最初の一音(一文字)は何だろうと統計を取ってみた。

つまり、一番歌は「あ」、百番歌は「も」である。

この要領で数えてみるとトップは「あ」だった。
百首のうち、17首が「あ」の音で始まっている。

第2位が「な」の8首だから、ぶっちぎりのトップである。

この事実は何を意味しているのだろう?
自然の風物、人事、情緒を表す日本語の語彙には「あ」音で始まることばが多い、と結論づけていいのだろうか?

しかし即席、お手軽な統計調査だから、これだけのデータからせっかちに結論を引き出すのは慎んでおこう。

ただ、最初の一音だけでなく歌の中ほどまで探っていっても、「あ」で始まる語彙は多いなという印象はある。

たとえば、「あま」、「芦」などの名詞。
「あじきなく」、「明けやらで」、「あらで」、「あはれ」のような用言。

反対に、「あ」が語中、語末に現れる例はほとんどない。
「あ」が語頭に現れることが多い、というのは「あ」という音の特性によるのだろうか?

言語と精神文化は深く結びついているから、両者の関係をテーマにした研究は無数にある。

しかし、個々の言語音と文化との関係についての研究はあまりないのではないか?

たとえば、「あ」という日本語の言語音と日本文化はどのような関係にあるのか?
納得のゆく答えは聞いたことがない。

上のようなミニ調査は、コンピュータにやらせれば手っ取り早い。
歌の最初の一音だけでなく、すべての音をしらみつぶしに調べさせる。

そうすれば、百人一首の中のすべての音の出現頻度など、あっという間にわかる。
語頭、語中、語末のどこに位置しているかもわかる。

それで得られたデータと現代文について同じ操作をした場合に得られるデータを比較してみるのもおもしろい。
言語音の本質に迫る知見が得られるかもしれない。

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2017年9月17日 (日)

言語における順序

前回は言語における順序、ということを考えてみた。
つまり、音の順序あるいは文字の順序である。

言語の世界に「順序」という秩序がなければ、たぶん社会は成り立たない。
辞書や名簿が作れない。

日本語の場合、その順序はあいうえお順、あるいはイロハ順である。
これは言語音の順序であると同時に、文字の順序でもある。
かなを発明することによって、この順序が可能になった。

英語の場合は、abcという順序がある。
ただし、これは文字の順序ではあるけれども音の順序ではない。

ローマ字は表音文字と言われるけれども、文字単体は表音文字ではなく音素文字である。
物理学でいう分子ではなく、原子なのだ。

原子が複数結合して分子となりはじめて物質の特性を表すのと同じように、複数の文字が結合してはじめて音を表すことができる。

ローマ字にしろかなにしろ文字数が少ないから、だれでもその順序はおぼえることができる。
イロハは短歌にして覚え、あいうえおは図にして覚え、abcはモーツアルトのメロディにのせておぼえている。

ローマ字は音の順序ではなく文字の順序を表しているにすぎないけれども、とにかく順序があることによって辞書や名簿を作ることができる。

では、中国語はどうだろう?
漢字という文字には順序があるのだろうか?

漢和辞典のように画数の少ない順に並べていく?
可能かもしれないが、何万とある漢字の順序は覚えられまい。

前回もお話ししたように、現在の中国語辞典ではピンインの順序になっているようだ。
つまりローマ字の順序を借りている。

それでも、ピンインが導入される以前はどうしていたのか?
ピンインを知らない人はどうするのか?

という疑問は残る。

また、韓国語ではどうだろう?
ハングルの各パーツの間には、どんな順序があるのだろう。

パーツを組み合わせたハングル単体文字は、かなのように音節を表すことができるのか?
それともローマ字のように、音素文字に過ぎないのか?

ウィキペディアによれば、アラビア文字には伝統的な配列順があるという。
とすれば、その順序に従って辞書や名簿は作られるのだろう。

でも、その配列順を見ると漢字のように画数順というわけではなさそうだ。
必ずしも簡単な文字から複雑な文字へと並べてはいない。

なるほど多くの言語で、文字の順序、場合によっては日本語のように音の順序が存在することが分かった。
じゃあ、その順序はどうやって成立したかが次の問題になる。

つまりローマ字の場合なら、なぜacbでなくabcなのか、という問題である。
どのような経過をたどってaで始まりzで終わる順序が定まったのだろう?

なぜ、「あえいおう」でなく「あいうえお」なのか?
なぜ、ア行の次にサ行でなくカ行がくるのか?

という問題である。

このような素朴な疑問に答えてくれる本は読んだことがない。
話はみなこれらの順序が当たり前という前提で始まっている。

いろは歌は空海が作った、という伝説がある。
日本語の言語音を各1音ずつ使って、意味のある短歌を作るなどという芸当は空海のような天才にしかできない、という思いから生まれた伝説だ。

明治36年に万朝報が新しいいろは歌を募集したところ、鳥啼歌というのが1等に選ばれたとのことだ。
いろはと同じように重複なく1文字(1音)づつ使って短歌ができたのだ。
しかもイロハと違って「ん」まで使っている。

鳥啼歌は今はなぜかほとんど知られていないけれど、世の中にはすごい人がいるものだ。

現在なら、AIがもうひとつの「いろは歌」を創作できるかもしれない。
それはどんな順序になるのだろう?
今から楽しみだ。

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2017年9月10日 (日)

言語音の順序

考えてみると、人間はずいぶん多彩な前言語的音声を出すことができるものだなあ。
前回の記事を書いていて、われながらつくづく感心した次第だ。

わたしたちが日ごろ用いている言語音までは、この段階から紙一重、だろうか?
人間の言語は小鳥のさえずりから生まれた、という奇想天外な説をなす人もいる。

いつかもお話ししたように、日本語の言語音は世界でも最少の部類に属する。
音節数にして100ちょっとだ。

むろん日本語話者はこれ以外の言語音を出せないわけではない。
その証拠にちゃんと英語もしゃべれる。
英語には日本語では使わない言語音がたくさんあるのだ。

にもかかわらず、日本語話者は100ちょっとの言語音でやりくりしてきた。

よく言われることだけれど、言語音の種類が少ないことで日本語には同音異義語が多いというデメリットがある。
しかし、この点を除けば少ない言語音で豊かな言語表現ができるというのは、言語経済の理にかなったことだ。

筒井康隆さんの「残像に口紅を」も言語音が少ないという日本語の特徴があってはじめて可能になった小説だ。

日本語はその少ない言語音を五十音図という形で整理してきた。
かなという表音文字ができたことで五十音図が可能になった。

つくづくよく出来たマトリクスだと思う。
日本語の言語音の体系が一目瞭然だ.

五十音図のアイデアはインドや中国からもたらされたものらしいけれども、世界の諸言語でこれに類するものがあるのだろうか?
少なくとの英語の言語音を五十音図の方式では整理することはできない。

ところで、多数の語彙がある場合、これを一定の順序で配列しなければならない場合がある。
たとえば辞書を作る場合がこれにあたる。
何らかの順序がなければ、そもそも辞書を作ることができない。

それから多数の人間で構成される集団の名簿を作る場合もこれにあたる。

こんな時に五十音順が活躍する。
本当にありがたい。

五十音順のほかに、いろは順というのもある。
この順序による配列もむかしは結構使われていたようだ。

たわむれに五十音順の名簿をいろは順に組み替えてみるのもおもしろい。
新鮮な印象が感じられるかもしれない。

ラテン文字を採用している言語圏には、アルファベット順がある。
辞書も名簿もこの順で配列されている。

ただし、アルファベット順は文字の順序であり、音の順序ではない。
だから、綴りがわからないと辞書を引くことができない。

五十音順やいろは順は文字の順序であるとともに、音の順序でもある。

では、中国語の場合はどのような配列順になっているのだろう。
手元にある中日辞書はピンインの配列になっている。
つまり、アルファベット順になっている。

しかし、ピンインによる表記がわからない場合、あるいはピンインが導入される以前はどうしていたのだろう?
ちょっと気になる。

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